der Vogel

Sehet die Vögel unter dem Himmel an: 
空の鳥をよく見なさい
Sie säen nicht,
種も蒔かず
sei ernten nicht
借り入れもせず
sie sammeln nicht in die Sheunen;
倉におさめもしない
und euer himmlischer Vater nährt sie doch.
あなたがたの天の父は 鳥(彼等)を養ってくださる。
Seid ihr denn nicht viel mehr denn sie?
あなたがたは 鳥(彼等)よりも価値があるのではないのですか?
マタイ6:26
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鳥は ラテン語では(観る)という意味があり、ホロメス等、古代神話では神々の化身と思われてきていた。聖書でも鳥は象徴的な存在として描かれる。
鳥は古代から憧れの存在。そして神の化身という象徴から分かるように絶対性すら持っていた。その憧れの存在よりも私たちは価値があるということは どういう事なのか。
今から話すことは神学的にというより、詩学的に見ることになりますが、神は絶対的なもののために、鳥という憧れの存在を譲ってくれたように思えます。
象徴は絶対的なものと 現実世界を繋ぐ存在です。
物語りを書くとするときに、福音記者やイエスを脚色することはあまり望まれない。ナザレ派の絵画ですら前教皇はナザレの名を汚したと言ったぐらいですから。
そう考えると鳥は自由なのです。階級式に人よりも下という意味ではありません。鳥が神との繋がりがある存在というのには変わりがありません。
鳥は文学や詩人にとっては必要な象徴になる。鳥がイエスや福音記者達と同じ扱いだったらメーテルリンクの「青い鳥」も生まれてないでしょう。私は現実世界と絶対的なものを繋ぐ 詩情や哲学を見つけることは美しいと思うし、それが物語り世界の中で生きることを常に期待しています。

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ある小鳥の剥製が欲しいと思った。

生前を知らない剥製や標本は死から始まる出会いだから 哀しく無かった。それは寝顔にも見えて、愛せるような気がした。

芸術も死から始まる出会いがある。死んだ人が書いた話や絵なのに愛せたりするからね。
芸術が残す形象、それは魂が模った形象だと思う。鳥の標本もそうじゃないかなって 思いながら見ていた。
精神や魂が 模った形、可愛い小鳥、私の引き出しへ、私の詩箱の中で眠って欲しい。

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私が持っているドイツ語版(ルター版)ではunter dem Himmel →創世記1:8の神は大空(Feste)を天Himmelと呼ばれたと同じ使い方。 英訳のesv版 KJV版ではair。専門書を読むより、時々言語変えて
読んだほうが面白いなと思う。 

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