・私の心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな工合(具合)になったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れる云う訳に行けしませんのに、これも「神様の思召し」やろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもうたことはみんな夢とあきらめよと(園子)


・「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇りに感じる。何でや云うたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当たり前や、女で女を迷わすことが出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあ云う気いして、嬉してたまらん」 (光子)

谷崎潤一郎「卍」より 

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朗読の感想

 ある役を演じてみるとするのなら、心理分析は欠かせない。私の課題は「光子」だった。甘え上手で人々を虜にする美しい光子、それは男性だけとは限らず、主人公「園子」とも関係を持つようになる。原作も映画も話し手や視点の中心は主人公・園子であり、この美しい光子という女性は園子の記憶の中の者となる。なので、心理分析するとすれば、台詞や所作等からの想定となる。
園子は美術学校に通っていて、観音様を描くが、校長先生にこの観音様はモデルに似ていない、誰に似せたんだと執拗に問われ、反論をする。園子は無自覚で徳光光子に似ている観音様を描いていたことに気づく。それを機に、会うようになる園子と光子・・・・・・。
園子の視点から語られる光子はギリシャ神話でいえば男性からも女性からも愛される美形のナルキッソスであり、園子はナルキッソスに恋をしたエーコーのようなものだ。エーコーは自分で考えて言葉を発せず、ナルキッソスの言葉を借りて繰り返すことしか出来なかった。そのためナルキッソスに見捨てられ、哀しみのあまりに木霊となる。この状況に対して罰を下したのがネメシスだった。 ネメシスのこの行いはギリシャ神話のコアなテーマでもある「ヒュブリス」である。
ただ、卍の場合はヒュブリスまでに至るところまで考えないほうがいいだろう。人を道連れにして死んだ光子、取り残された園子のことを考えると、エーコーは哀しみのあまりに木霊となったまま時間が止まり、光子は水面に映る自分の姿に惚れ込むほどナルキッソスになりきれなかったとイメージしたい。
映画(1964年)では光子(若尾文子)は園子(岸田今日子)に真剣な話をしているようでコンパクトを見ながら話す。私は、真剣な話をしているとき、自分の身の上話をするときは鏡を見ながら話すなんてことはしないので気になったシーンだった。
心理的に自分の映る鏡像が気になる、鏡を見ながら話す人の心理というのは、ナルシストか、自分に極端に自信がないか、というところらしい。
光子はどちらだろうと、やはり自信がない方なのかもしれない。光子は園子の夫とも関係を持ち、園子と夫はずっと「肌があわない」関係だったが、漸く「光子」を所有するという共通点を持つようになる。自信がないというのは、そんな状態になっても光子は夜になると、園子と園子の夫に必ず睡眠薬を飲ませないと気が済まなかったからだ。
園子は「自分じゃなくて夫を選んで裏切るんじゃないか」という疑いを持ち、夫のほうも「これが愛の形か?」と不安になりながらも、光子の言うことを聞いて睡眠薬を飲み続ける。光子は光子で、睡眠薬を飲むのをためらう二人を見て「あんた等、あて(私)欺しててんなあ」と泣き出す。
 人を想いのままに操れるようになった光子は女帝のようになった。しかし女帝としては非力でか弱い。
 終盤の三人の心中は実に滑稽なことかもしれない。この心中は近松門左衛門の曽根崎心中ほど現世で幸せになれないから、あの世(来世)でというような切羽詰ったものがない。収入源だった夫が仕事を続けられなくなって光子が「死の」(死にましょう)と言ったら二人とも了承する。「光子観音」と園子と夫は光子を崇め、光子を真ん中に仲良く死にましょうと三人で薬を飲むが園子だけが何故か死ねなかった。園子は、夫と光子を失うことになるが、最後まで光子を疑いながらも、愛しいと、涙を流す。
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この作品の魅力は、道徳や倫理感では図れない。何か、現代の慈悲的な感覚で三人を捉えたらこの世界観を崩すことになるだろう。 読書というものは、本と読者の内面との垂直関係であるので自由な捉え方も保障されているが、分析するとなると別になる。柔らかい大阪弁での会話は次第に憎悪が渦巻いていると実際に演技を交えながら朗読していくと分かってくる。この話を測るときに、キリスト教的な解釈の「人の弱さ」ギリシャ神話のヒュブリス、空を飛ぶ鳥のような俯瞰視点が似合わない。例えば園子を本当に愛してるから園子だけに毒を加減したとする、そんな美談、装飾(言葉)を入れようものなら、この話は破綻してしまうのだろう。卍は左旋回を使用しているので「和」の元である。何処までを和といえるのか、難しいところだが最後にバランスを取って三人で死のうとしたところなんかは皮肉なようだが近い気がする。
この作品を簡単に言えば異常ということなのだろうが、本来なら生き残れたということは卍の印の由来でもある「瑞相」(めでたい出来事として起きる前触れ)であるべきだろう。それでも、園子は最後は第二の人生を考えているのか、それも
定かにしないまま、ただ泣いて終わる。園子にとっての吉兆の印とはやはり光子との
出会いだったのかもしれない。
 この作品の魅力は括弧たる日本語で、「綾模様」を作ったことであり、その儚い模様が美しく、卍という記号のビジュアルイメージだけで雁字搦めというほうが適切なような気がする。本来の意味よりも視覚によって人が左右されるとするのなら、卍という重なりの記号を持ってきたことは一種の戦略だと思う。
哲学者・ドゥルーズは、ものごとは様々な線からなる多様体であるという。これを私は日本語の「綾」のようなものだと思っている。子どもの頃やった綾取り(あやとり)と聞けばイメージしやすいが、彼に言わせれば物事は、様々な性質を持つ線の絡み合いから出来ている。そして、思考は侠気のような何かに衝突し、生が死のような何かに衝突するような場所はいたるところに存在する。この「卍」は世界から見ればそんな「交わり」であり、「平行線」である。それらの緊張の糸は、紐解かれる間に心中というものさえも善だとか悪だとか、簡単には言えない価値観へと突入する。
一人の女性を夫婦が取り合うという構図、
バルザックのセラフィタも夫婦になる運命の二人が
両性具有の天使に恋をする。
(セラフィタの脚本について)
 今、書いている脚本、バルザックのセラフィタと構造が似ているので研究用に選んだ一冊だった。構造は似ているけれども決定的に違うのが、卍は光子という存在の裏に潜むものが無限遠点という架空の概念であるのに対して、セラフィタは、人間二人はセラフィタを手に入れようとしたがるが、下されるものはヒュブリスではなく、牧師でさえ図れなかった神秘であり、最後はイエスは父への至る道に沿っていこうと導きがあるところだ。 
セラフィタというものを表すのはミステリアスでありながらも
無限遠点ではなく「神」という明確性だ。
卍の光子は、外見の美しさよりも動かしたものは、人それぞれが抱く欲であり、人々の積み上げであり思い焦がれる「観音様」であって、歪んだ仏心による「美」だろう。セラフィタの場合は、元々人々が崇めなくても天使として「存在」している美しさだ。
セラフィタと卍、

どちらが素晴らしいのか、どちらが本当に美しいのかと優劣はつけられないが、人間の有限性というものが儚いとするのなら、その儚さを躊躇することなく表現出来たのは

卍だろう。

綿貫に関する記載は、重要な人物でありながらもこの記事の全体のテーマ、ブログでの読みやすさを考えた上で省かせてもらいましたが、男性として機能しなかった綿貫の議論からも引用を。

元政上人は男子の男子たる印あったら邪魔になるのんで、灸すえた云うやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そない云うたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現してあるのんやし、観音さんや勢至菩薩の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性や云うこと分かってる


本→新潮文庫
映像に関するcopyright →角川書店

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