L’intuition De L’instant.






私の想像力は上書きされては捨て去って行く。それを忘却と人は言うのかもしれないが、私は瞬間と呼ぶ。残された過去情景はまるで永遠を夢見ているようだ。撮影は10年前、私が現象学を選ぶ写真となった。レンズとフィルム設定だけで偶然撮れたこの写真は、こうなると予見をせずに、香りが奮い立つように、花々が私の目の前に現れた。私が接近しないと、世界というものは私の意識内に形成されることがないのに、出来上がりは私の意識を超越していた。
まるでカメラが感覚質を持ったように、心を持ったようになったのだ。
此処には私自身の記録が無い。私がどんな格好をしていたのか、何を考えていたのか、どんな表情をしていたのか。覚えているのは杖をついていたことだけだ。杖が煩わしく、視線が今よりも低い。私が居ないことによって、私らしさとなった。人は瞬間に嘘をつくから、無理して笑うから、本当に記録を残したかったら、自身を消してしまうべきだ。
虚飾の無い純粋さが其処に生まれる。
L’intuition De L’instant.
I didn’t edit the photo these.




Gabrielle Chanel

      調香師: オリヴィエ・ポルジュ

      昨年発売された「ガブリエルシャネル」は確かに最高傑作だった。シャネルno5と同じようにジャスミン、イランイランが入っているが今回はオレンジフラワー、チュベローズという花が追加されている。

      チュベローズは朝にしか積むことが出来ない花で、冬を越すことが難しい。ガブリエルシャネルという香水は、まさしく彼女が幼い頃は貧しかったこととを表すかのように、冬を越して来た花の強さである。ガブリエルとは彼女の幼い頃の名前で、彼女は自分らしく生きるためにココ・シャネルを名乗る。


      だからといっても、ガブリエルという名前を捨てたとは言い難い。人々はガブリエルとはシャネル自信が自分だけが呼ぶことを許した名前だったのではないかと囁く。

      ガブリエルシャネルという香水は
      人間を強くする秘密、内面世界のようだ。

      私がシャネルの香水で好きなところは、他の香水や人工の香りでは無いものがあるからだ。それは何かというと、香水の定番方程式である香りのピラミッドというものが存在しない。音楽のように音と音が響き合って、時間と共に香りが形成されていき、女性の肌と混ざることによって、その女性と合わせた主題が浮かび上がってくる。これこそシャネルの伝統の芯のある香りなのだと私は思う。

      形もなく、存在していない香りを作る調香師。
      間違いなく生き残りの調香師は天才と言える。

      現代というこの世の中を、芯のある芳醇な香りとして捉えるのだから。

      (大きいボトルは 頂き物)

黎明(2016/05/09)


イエスはトマスに言われた。「あなたの指をわたしの手に当てて、あなたの手をわたしのわき腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい」トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」 (ヨハネの福音書 20:27-29)

 私がキリスト教を意識したタイミングを話すと長くなるのですが、恐らく今までで大きな意識なら四回ありました。細かいことをいれると七回ぐらいなのかな? 意識しては忘れての繰り返しでした。今回は二回目の十代の頃の話です。 昔は絵を描いていて、デッサンとかは訓練みたいなものなのですが、自由創作となるとテーマを自分で考えたりします。まだ十代と言っても高校生になる頃になると大人と同じ賞に応募したりしました。

そして頭打ちしたのはテーマと描写力がついていけないということでした。想像力が自分の力量に合わせるしかなくなるのでイメージに妥協が生まれます。それなのに、人間の脳というのはおかしなもので、その妥協が妥協に感じなくなっていきます。絵 に関しては完成と感じたことが無かったのではないのでしょうか。賞を取れたら嬉しいのですけど、思い入れがある作品が無くて毎回戻ってきたものは捨てていました。そういうものがあると、そういう自分に愛着を持ってしまって成長出来ない気がしていました。

よく他の人に「何を考えて描いてるの?」と言われていたのですが、 実際には今と比べるとこの頃は確かなことなんて考えていませんでした。誰かに説明出来ないことや自分でも分からないものを抱いていたもので、対話相手がキャンバスです。「言葉にならないことを書く」ということ、それを才能と捉えるか未熟と捉えるのか、私は後者でした。
そんな私が何か勉強がてらに模写をしようと選んだのが古典作品達で、デッサンの練習のために選びました。画材は木炭と鉛筆で、カラーではなくてモノクロでやりました。モノクロにすると色で目移りしていた情報や錯覚が整理されるので私は好んで練習していました。模写をした中で印象に残ったのはカラヴァッジョの「聖トマスの懐疑」です。よく知らないまま形だけを捉えて描いていたのですが、描いてて楽しかったのはトマス のこの疑っている目でした。

目を見開いて出来た額の皴、描写をすればするほど、私レベルの画力でも彼の目や手に魂が宿っていくことを実感しました。その絵を見ていた人が「贋作師にでもなったら?」と言われるほどでした。それでも全く描けなかったのがイエスです。イエスの俯きの表情がなんとも言えず、上手くいかなかったのを覚えています。この人は痛がってるのか、何を考えてるのか、見た目の表情だけでは何故か捉えられませんでした。それにトマスの腕を握っている手は誰の手なのか分からなかったので、これがどういうシーンなのか少しだけ聖書を読みました。処刑されて復活したイエスに対して、トマスが疑って処刑したときに出来た釘跡、若しくは脇腹(聖痕 に指を入れないと信じないと言うところですが、結局のところ、トマスの手 を握ってる手については謎のままです。 文脈からその手がイエスのなら指を入れてみなさいと力を入れているのだろうし、脚色で弟子の手なら「それぐらいにしておけよ」という感じで手を押さえているようにも見えます。聖書を読まなかったときはトマスが無理矢理入れてるところをイエスが止めてるように見えていました。カラヴァッジョはもしかしたら敢えて分からないようにしたのかもしれません。
絵画を過ぎ去っていく時間と共に見てるだけなら理解したつもりの表情でも、描いてみるとイエスが何を思ったのか分析が必要になってきますし、トマスと弟子達は前屈みになっているので重心の かけかたが分かるのですが、イエスに関してはどんな気分で立ってるのか想像出来ませんでした。トマスと二人の弟子達が小さな洞窟を作るかのような構図、それはとても人間臭いというか分かりやすい感情で描きやすかったですが、イエスに関しては、顔が他の三人の影となってしまって影の中で濃淡が曖昧で難しく、右肩にラフな光の靄を描いたまま描くことが出来ませんでした。イエスの表情が隠れているというより、三人の影によって知る由もないということでしょう。
一体この画家は何を見て描いてきたんだろうなと、カラバッジョは短剣を持ち歩いて気に食わない人がいたら刺していたとか書いてありました。そういった彼の気性の激しさと「信仰」にそのときに少しだけ注目しました。彼等に照らす衣服は私にとってはただの光で、色を似せることしか頭にありませんでした。けれども、本当は違うのです。この光はもしかしたら彼の他の絵にもあ るようにエピファニーなのかもしれません。彼はエピファニー(Epiphany・キリスト顕現、事柄・人物の本質が姿を現す瞬間を象徴的に描写するこ と)、二つの意味を上手く利用していたと思います。  

他に調べてみると風景画を描いている日本画家も出家した人とかも多いわけで、出家したのに遊郭通いの人もいましたが一応はそういう心を知った上で描くことに関心を覚えていく わけです。『伊藤若冲』は出家はしていませんが、若冲の号は居士号で、僧侶と同じ扱いを受けています。 (居士とは出家はしないけれども家庭の中で仏教の修行をすることです)

仏教の学校(高校)に通っていたので当時知っていたことは、キリスト教の場合は私達の世界は神の被造物という結論があるのに対して、仏教の場合は 本質は「空」で本当のところは分からないということ。 キリスト教をモチーフにした絵画は必ず「神は存在する」ということが含まれていました。それが自分に とってはどんな感覚なのか分からなかったし、とにかく閃きやアイディアを欲していた自分にとっては持っていなかったものでしたので憧れを持ちました。
多様な解釈が許された現代の中でも揺るがないものが「在る」ということ、それに惹かれるわけです。
それでも、アイディアに腕がついていかなかったように、予感に思索というものがまだこの頃はついていけず、トマスが未完のイエスの腹部に指を入れて、小さな闇を見つめたままで終わりました。
  今なら分かることは、恐らくこれはイエスの手だということです。より鮮明な画像を見てみると分かったのはトマスの手に対してこの手は綺麗です。 カラヴァッジョは聖人を人間臭く描くことを選んだ人で、聖人を労働者のように描きました。当時の教会からは聖人は綺麗な服を着せるべきだと批判も受けていま した。けれどもカラヴァッジョの場合、聖人は人間臭く描いたとしてもイエスや天使に関しては感情の掴みどころが難しい表情を描いたと思います。(聖マタイと天使)若しくは、イエスや天使の感情を勝手に考えられないという私自身が想像を拒否をしているのか分かりませんが、写実的だからこそ精密度が必要になり、余計に彼の解釈やイメージが謎 になりました。イエスのことを考えてるのか、カラヴァッジョのことを考えてるのかよく分からなくもなってきました。これはあくまでも模写をした感想ですし、もっと画力が上がれば掴めるものだったのかどうなのか分かりませんでしたが、私はこのとききっとこの 先も分からないだろうと思いました。
カラヴァッジョは非常に良い一瞬を自身のイメージと共に切り取り取ったと思います。トマスが指を入れて見つめてる先をイエスの表情や照らす光ではなく、この穴の中をトマスの指の隙間から私達は見ることが出来ません。ですので、 「私を見たから信じたのか、見ないのに信じるものは幸せである」 というイエスの言葉が深くなるのではないのでしょうか。トマスのこの疑いの目は美しいとは言えないこと、肉を開くその指をその緩めなかったことは、この言葉のためにあるように思えます。 


それはイエスが描けなかった私にも言えることだったのではないのでしょうか。
*「聖トマスの懐疑」はカラヴァッジョが殺人を犯して逃亡生活をする前の絵画です。逃亡生活中、死ぬ直前で描いた作品が今、(2016年)日本に来ているそうです。http://caravaggio.jp/
*カラヴァッジョって、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョで名前はミケランジェロなんですね。ピエタのミケランジェロと区別するためにカラヴァッジョってなったのかな? それともやっぱり罪人だから天使の名前では呼ばれなかったのかなミケランジェロの名前の由来はミカエルのことですので。
これは2016年の記事です。

I hope you don’t mind

『“I hope you don’t mind”ということ』

日本では馴染みのある
エルトンジョンの you’re song の
I hope you don’t mind. をどう訳するのか、
単純なようで色々と訳し方があります。理由は語感が日本語となるとインパクトが弱くなってしまうことにあります。意味を近づけるというより、英語のこの語感に近づけたいという願望がそうさせている気がします。

どんな歌詞かと簡単に言ってしまうと、
『僕が君のために作った歌だけど、
気にしないでね。(I hope you don’t mind)
とか、重く捉えないでね、(I hope you don’t mind)』

とかそういう意味があります。

最近になって聞いてみると、こういうのは物書き(作家、作詞作曲)の愛し方かなと思います。作品を作るときは愛する人をモデルにしたとしても、作品が愛されなければなりません。愛されるのが前提なのか、結果として愛されるのかは、卵が先か鶏が先かというような話なのですけど、愛する人に何か書くときは、伝えたい、伝わること、愛されること、作品として望まれる全てを忘れたいのですよね。それが物書きにとって愛する人だけに送る特別性なんじゃないかな。

変な話なんですけどね。

だから、歌詞の冒頭部分から

『It’s a little bit funny this feeling inside
I’m not one of those who can easily hide.

少し可笑しな話だけど、僕は自分の気持ちを簡単に隠せないんだ。
I don’t have much money but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live

そんなにお金はないけど、お金があったら家を買うよ・・・
If I was a sculptor, but then again, no
Or a man who makes potions in a travelling show

僕が彫刻家だったら、いや違うな。僕が
さすらいの薬売りだったら・・・・・・』

と、纏まりの無い話になっていきます。
でもこれは、「お喋りしたい」という、ただそれだけの願望なんですよね。それでさえも、なんだか貴重な気がして言いたくなる、それが恋とか愛を表しています。
『I know it’s not much but it’s the best I can do My gift is my song and this one’s for you
「それで歌を送ることが僕は出来るよ」』

とあるけど本当はそれが伝えたいことじゃない。これすらもまだ自己紹介のような状態です。そしてメインのメロディ、

『And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple but now that it’s done

I hope you don’t mind
I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world

これは君の歌だよ、それをみんなに伝えていいよ。シンプルなメロディだけど
やっと出来たんだ。

気楽に聞いてよ(I hope you don’t mind)
軽い気持ちで聞いてよ(I hope you don’t mind)

こんな言葉で書いたけど、(愛を伝える歌)
君がこの世界にいてくれれば、世界は美しいんだ。』

と、二回繰り返すI hope you don’t mind は私は気楽に聞いてよ、軽い気持ちで聞いてよ、と言いかたを変えて訳しました。

『Anyway the thing is what I really mean
Yours are the sweetest eyes I’ve ever seen

僕が本当に伝えたいことは、君の瞳が美しいということさ。
I hope you don’t mind
I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world

気楽に聞いてよ
軽い気持ちで聞いてよ、

こんな気持ちで書いたけど、
君がこの世界にいてくれれば
僕は嬉しいんだ。

そして本当に美しいのは
君の瞳なんだ、僕の歌は それを表したいだけなんだ。』

と、私は解釈しています。
人の評価を待つ物書きの仕事をしていると、作品を渡しているのに、I hope you don’t mindなんて言って渡しません。そんなのは仕事になりませんからね。
そういう身でありながら、I hope you don’t mindと言って渡すことは、愛する人への特別なことなんですね。私もそうかもしれません。

I hope you don’t mind , I love you.
そういう感覚なのかなと。歌詞だけではなく、エルトンジョンの甘い声がそう思わせるのかな。ポップスはシンプルな言葉だけど、歌手の声の表現によって深みが出たり言葉の意味が左右されるところがありますね。

画像元URL http://38.media.tumblr.com/tumblr_lhg9rjQdnC1qctf1xo1_500.gif

歌詞:

It’s a little bit funny, this feeling inside
I’m not one of those who can easily hide

I don’t have much money, but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live

If I was a sculptor, but then again, no
or a man
who makes potions in a traveling show

I know it’s not much, but it’s the best I can do
My gift is my song, and this one’s for you

And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple, but now that it’s done

I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
I sat on the roof and kicked off the moss
Well, a few of the verses, well, they’ve got me quite cross
But the sun’s been quite kind while I wrote this song
It’s for people like you that keep it turned on

So excuse me forgetting, but these things I do
You see I’ve forgotten if they’re green or they’re blue
Anyway the thing is what I really mean
Yours are the sweetest eyes I’ve ever seen

And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple, but now that it’s done

I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words

How wonderful life is while you’re in the world

La porte étroite (狭き門)

「貴方は思い違いをしているのよ、わたしね、そんなに幸福になる必要がないの。今のままの二人で、充分な幸福でしょう?」

La Porte étroite:André Paul Guillaume Gide
●粗筋

  ジェロームは12にも満たない幼い頃に父親を失い、叔父のもとで過ごす。その家に住んでいる従弟のアリサはジェロームよりも二つ年上で、妹のジュリエットは一つ下だった。アリサの母親はたいそうな美人で、この二人の姉妹は母親のようにそれぞれ魅力があったがジェロームはアリサの麗しさに惹かれていた。父親が死んだ二年後にジェロームはアリサに会いに不意に会いたいと思ったので、アリサの母親の部屋を通る。その扉は開いたままだったが、アリサの母が軍服を着た見知らぬ若者に媚態を示しているところを見てしまう。ジェロームがアリサの部屋に入ると、アリサはそのことを知っていて泣いていた。やがてアリサの母は家出する。
ある日の日曜礼拝で牧師はマタイの福音書の言葉である「力を尽くして狭き門より入れ」「これを見出すもの少なし」と語る。ジェロームはこの狭き門をアリサのドアの部屋のように思えた。アリサの母の部屋の扉は開かれていて不快なものを見せたからか、愛するアリサの部屋の扉は狭く、自分が骨を折らないと入れないような神聖なもののように思えた。

ジェロームは決心する。僕はこの狭き門へ通るような人間になってやろう、
そして、幸福のための努力を厭わないこと、これが「徳」ということなのだろうと、「幸福」と「徳」を同一視するようになる。
ジェロームは兵役に出る前に、アリサに婚約を申し出るが「幸福はこれ以上いらない」と断られる。ジェロームが君にとっての幸福とは何かとアリサに聞くと「聖なる心」と返ってくる。妹ジュリエットはジェロームに気があったけれどもアリサとジェロームが相思相愛なことを知ると他の人と結婚する。
ジェロームと離れている間にアリサは次第に衰弱していき、最後には日記を残して診療所で死んでしまう。
アリサの死後、ジェロームはジュリエットと再会した。残されたジュリエットには夫との子どもがいて、「アリサ」と名付けられていた。ジュリエットは、ジェロームが姉のことが忘れられず結婚出来ないことを知って、ある一つの部屋へと導く。それは、嘗てのアリサの部屋を思い起こさせた。
そして彼女はこう言った。「目を覚まさなければ」と。 
****
●「門と扉」 
「狭い戸口から入るように尽くせ」(ルカの福音書13章24節)
「狭き門より入れ……これを見出すもの少なし」(マタイの福音書7章13節~) (自由訳)

Efforcez-vous d’entrer par la porte étroite. 
Luc, 13:24.

Entrez par la porte étroite, car large est la porte et spacieux le chemin qui mène à la perdition, et nombreux sont ceux qui y entrent. Combien étroite est la porte et resserré le chemin qui mène à la vie ! et il y en a peu qui le trouvent. 
 Matthieu,7:13~
物語冒頭にはルカの福音書の 13章「狭い戸口」から始まりますが、実際にジェロームが惹かれたのは「狭き門、これを見出すもの少なし」のマタイの福音書7章ということになります。
この二箇所の福音書の引用は教えとしては似ていますが、マタイの場合はイエスは山上の説教で弟子達に話しかけ、ルカの福音書の場合は、十字架の受難が待つエルサレムへの最後の旅の途中で、町の人々へと語ります。マタイの狭い入り口とは「命に通じる門」、ルカの場合は「神の国」と、話の場面や軸は違いますが、門も扉もイエスのことでもあり、ヨハネの福音書の14章、「イエスは父に至る道」とも繋がります。天には住まいが沢山有り、天へと通じる道は沢山あるが、イエスを通らなければならない。イエスという存在は色んな人を受け入れる優しさもありますが、イエスでなければならないと言われると狭くも感じるのかもしれません。
その門や扉は狭いと大体の意味は同じですが、ルカのほうが悔い改めの要素が強く、「ご主人様から扉を閉められて、開けてくださいと言っても、お前たちが何処のものか知らないと言われるだろう」と、狭い扉と同時に主人から扉が閉じられているというイマージュ(image)があります。日本語だと戸口と門となるとイマージュも意味も違いますがフランス語の場合の、“porte”は門も扉も意味をします。ですので、フランス語タイトルである“ la porte étroite”とはフランス語の場合はマタイもルカも同じになります。
ジッドがそこに目をつけたのはフランス語の仕組みが故でしょう。
冒頭は読者へ向けるという意味で町の人々へと語ったルカの福音書から扉は常に閉められているようにイマージュを与え、 ジェロームには弟子達に話した「狭き門」を、彼の体感をイエスへ近い存在へと読者へと意識させます。La porteとはLaがつくので女性名詞です。ですのでジェロームが愛する女性と狭き門を重ねたのもイマージュとしては繋がります。
この世界、ジェロームの視える範囲では扉は常に開かれています。アリサの母親の不貞やアリサの部屋は開かれていて、鍵ですらも脆いのです。これは読者にとってはイマージュ世界となりますが、小説世界にとっては現実です。
この『現実世界』は常に扉が開かれているのに対し、神(主)への至る道では扉が狭く、閉じられているというイマージュがあります。どうして聖書世界というイマージュ世界は扉が狭いのか、私達はその意味を考える必要があります。 それはキリスト教の厳しさも表していて、その厳しさが神聖にも感じるのでしょう。 それと同時に、イエスの愛や優しさもわかるようになります。この相反したものは自分で感じ取るしか他に道はありません。イエスの厳しさと優しさの間をどう感じるのか、その程度も人それぞれなのです。だからこそ形の無い神秘なのだと思います。ジッドはどの程度それをわかっていたのかは分かりませんが、最後のアリサの妹が「目を覚まさなければ」と言ったことは、宗教の酔いからの目覚めにも、反対に光への目覚めにも見えます。それでもこの部屋に無垢な子どもが最後に居たことに意味があったと思います。
何故なら、天の国で一番偉い人についてイエスが小さな子どもを真ん中に立たせたからです。(マタイの福音書18章)
心を入れ替えて子供のようになる人が、天の国でいちばん優れているという。これは子どもの体温と共に感じるイエスの温もりでしょう。
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● アリサという盲点 
 この物語の語りは主にジェロームという男性で、アリサと結婚したいと思う男性です。 アリサも彼がとても好きで相思相愛でした。アリサはまずは母親の自分の不貞や、自分の妹もジェロームが好きだということを知ること、妹が自分に遠慮したように他の男性と結婚してしまうこと、ジェロームは兵役に行ってしまうこと、それらの状況がより彼女の繊細な心へと響いていき、アリサの神への愛への言葉や、ジェロームへの愛の言葉が、次第に他人にとっては病を仄めかすような言葉へと変容していきます。
著者、アンドレ・ジッドはこれは小説ではなくて「Récit 」(物語)と線引きをしました。それは神話や童話のようにあらゆる時を超えて一人の心と「応対」するということになります。例えばギリシャ神話を読みながら、人は現代や自分の状況に照らし合わせたりします。何故、そうなるのかといえばそこには普遍的な課題や理想があるからです。この作品はプロテスタントへの反骨精神とも言われていますが、「物語」と言ったということは彼は普遍性を睨んでいたように思います。
それはアリサを説明する際によく出される「神への愛に焼き尽くされる女性」というのはアリサに限らず古い記録にもありますし、昔からイエスは美形に描かれることが多く、聖人の記録にも神と結婚したと同等の女性がいたそうです。けれども私にとっては、アリサは本当に天上への愛とジェロームを天秤にかけたのかというのに疑問が残ります。私にはジェロームのほうが天上への愛とアリサを重ねたように思えます。彼は狭き門に準えただけではなく、
「アリサといえば、福音書が教えてくれた高価な真珠のようなものだった。私はそれを獲るために自分の全てを売り払う男のようだった」
(マタイの福音書・45節~46節・また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである、のこと)

と、アリサの存在を高めています。ジェロームの視点がメインなので、アリサは実際は何を望んでいるのかということが、登場人物にも読者にもよく分からない位置に立っています。「聖なる心」が欲しいものと答えたアリサの思考と言動は、言葉で言った通りが本人の意思かどうか分からない薄弱性も出しています。それは物語後半に登場するアリサの日記にもよく出ているかと思います。彼女は死ぬ直前までジェロームの名前を口にしていますし、この日記は他人にも理解されない整理されていない文章です。誰かに見せるような目的で書かれていない文章、それがよりアリサの混沌を表しています。
物語の中で明確に分かることは、●ジェロームは信仰と共に忠誠をアリサに誓いたかったこと、● アリサは、愛するからこそアメジストの十字架をジェロームに与えたかったということです。
愛し合う男女の目的や欲求は、手を取り合うには時期や話し合い、理解しあうことが必要なときがあります。愛し合っていても、これらが適わないような擦れ違いはどうしたらいいのでしょう。
このような擦れ違いは今の時代でも普遍的にあることです。相手の幸福を願うこと、自分の幸福について考えること、愛があるが故に身を引きたいと思うこと、愛があるからこそ一緒になりたいということ、人の意思は様々で、常に他人を求めています。人間は愛する人で頭がいっぱいになりますが、愛している人が一番良く見えるとは限らないのです。 
何故、アリサは婚約よりもアメジストの十字架を与えたいと思ったのか、アメジストは「酒に酔わない」というギリシャ語の意味から来ていて、キリストの受難も表すともありますが、象徴だけを手に持ち、何故それを彼に与えるということに拘ったのか、彼が他の女性と結婚することに拘ったのか彼女の思考に論理性や法則性は見当たりません。
私はアリサという存在を「盲点」と捉えています。盲点という意味は、ある一点に集中しすぎて見えなくなること、それと反対に、気づいているはずなのに見えなくなることと二つの意味がありますが、アリサの場合はこの二つの意味を持つでしょう。登場人物や読者にとっての彼女は「盲点」です。だから、彼女がよく見えないのです。それが魅力と思う読者もいますが、彼女は正解を持たないイマージュのような存在へと移ろいます。
それはアンドレ・ジッドもよく分かっていたことだと思います。何故ならアリサのモデルはジッドの妻であり、妻は敬虔な信者だったことから妻には性的な欲求は無いのだろうと思い込んで彼女に触れなかったそうです。ジッドはアリサを最も苦手な女としました。その切捨てが更にアリサという盲点を 生み出したのだと思います。
アリサに待ち受けていたのは物語後半の日記にあるように、幸福追求による「苦悩」です。それは、愛するジェロームに対しての祈りだったように思います。常に彼女はジェロームのことを想っていたことが日記から分かります。彼女は自分一人天上への愛に胸を焦がしていたのではなく、ジェロームの幸せを彼女は祈っていたのでしょう。
この話に出てくる人は皆それぞれ人の幸福について考えています。その幸福は愛であったり、登場人物や読者でも困惑するような「幸福」でした。その中で他人の幸福を願うと同時に自分の幸福を目に見える形にしたのは、結婚し、子どもを生んだアリサの妹のジュリエットということになります。それでも彼女もアリサの死が悲しみで、一つの不幸を背負っています。彼女は最後は泣くのですから。幸福とは笑顔でいるだけではなく、手探りで、責任もあり重たくて悲しみも含めているのです。
アリサは愛するジェロームと話し合ったパスカルに対して窮屈に感じているようでしたが、実際の彼女の生き方はパスカルで言う所の「我々人間は考える葦(あし・草)」とも言えるのでしょう。彼等はすべて「考える葦」であり、音も立てず季節を過ぎ去っていくようでした。聖書世界の狭い扉と門とイマージュ、それは物語りの中で混沌を表すのではなく、イマージュの秩序を与えました。福音書の引用はこの文章世界の中での唯一の確立されたイマージュです。 箱のような部屋に取り残されたジェロームや、ジュリエットや子ども達から離れ、私達の意識の外、もっと計り知れない外に、一つの疑問が文章世界から離れて見えるはずです。
 
アリサは狭き門を通れたかどうか・・・・・・それは誰もが答えられませんが、信じようとする隠れたもう一つの希望としておきましょう。
 
目を覚ますと共に。
*(参考)
L’homme est un roseau pensant. L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.
人間は一本の葦に過ぎない。それは自然の中で最も弱き存在である。 しかし、それは考える葦なのだ。(パスカル)

*聖書の引用について、ジッドの邦題が「狭き門」と文語体であることから文語体寄りの自由訳に統一しました。現代では聖書ではこの訳は「狭い門」となっています。

vision

(vision)
The wing veins are for the butterfly, its organ, nerves and also its bones. 
When drawing a butterfly, its wing veins must be drawn with precision, otherwise,
 it will only represent a butterfly unable to fly. 
Belief and philosophy are for me like wing veins. 
Creation is for me all about soaring.


Soaring is freedom predetermined by wing veins. 
There cannot be any other freedom.
*******  
蝶にとって翅脈とは器官や神経であり、骨である。蝶を描くとしたら翅脈は、正確に描かなければ飛べない蝶になってしまう。私にとって、信仰や哲学というものは翅脈である。私にとっての創作とは、飛翔によって成り立っている。
飛翔とは翅脈有き自由であって、それ以外の自由は在り得ない。 
——–
 飛翔と翅脈の組み合わせによって生まれるものと矛盾、この命題は蝶のように飛ぶ場所は決められないということ。私達、文学者はそうなのではないか。 

*7年前から決まっていたvisionを手直ししました。



オオルリアゲハの標本。角度によって青からグリーンにかわります。

         

桜桃







・子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。

・私は疲労によろめき、お金のこと、道徳のこと、自殺のことを考える。

・私は悲しいときに、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。

・人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけの読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。

・しかし、父は大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べて種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事。
桜桃―太宰治。(1948年5月)


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◎はじめに

われ、山にむかいて、目を挙ぐ。(文語訳)

(目を挙げて、私は山々を仰ぐ・新共同語訳)
詩篇、第121

 旧約聖書の詩篇の引用から始まる。この続きは「わが扶助(助け)はいずこよりきたるや」と続く。(文語訳)意味は、「わたしは山に向かって目をあげる、わが助けは、どこから来るであろうか」(角川春樹事務所文庫より)
「子供より親が大事、と思いたい」と始まることによって、何て薄情な親なんだと思うか、共感を生むのか、もっと他の意味があると読むのか、様々な読者の「立場」をひきつける。桜桃は短い作品で、この中の父親の名前が著者である「太宰」となっていること、長男の障がいのあること等の一致、妻子を置いて、愛人と心中事件を起こす約一月前に書かれた『桜桃』は私小説扱いでもある。この父親である「私」(太宰)は人を楽しませることや、人の期待に応えようと自分を追い込んでいく。死にたいと思うこと、長男の障がいについて父親は一緒に死にたいと思うことがあると独白で語る。そして贅沢なものでもある桜桃(サクランボ)を子どもに与えず、自分だけがまずそうに食べては種を吐く。

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◎感想

 日本語では「うそつき」を「嘘吐き」(ウソハキ)と書くことがある。この最後の桜桃(サクランボ)を食べては種を吐き、食べては種を吐きというのは、嘘吐きのことをあらわしてるのだと思った。私は(わたくしは)まずそうに演じたということは嘘をついたと同等だとし、 嘘とは種に纏わりついた彼の唾液のことだとする。そうなると、何かを実ろうとする小さな種が彼の口から落とされるイメージがすぐにできる。「嘘とは唾液」とは、「吐いた唾は飲めぬ」と、一度口から出した言葉は取り消すことができないということと、私はキリスト教徒なので、植物の種にはなるべくならプラスの意味を持たせるので、意味を分離させた。サクランボの花言葉は「善良な教育」。それを子どもには与えず父親だけがまずそうに食べて種を吐く。植物の種というものは本来は可能性を秘めているが、恐らくこの種は沈黙のまま捨てられるのだろう。
それら全て含めて親の弱さであり、性(サガ)であり、子を想うからこそ、弱いと認識してしまう葛藤を静かに表している。私は子どもがいないのでまだ確かなことは分からないけれども、親になると自身が弱いと感じることは屈辱なんだそうで、そういう弱さを告白することはとても勇気がいることなんだと聞いたことがある。今は親にも余裕を与えてやろうという考えが広がってるので実際はどうなのか分からないが、誰でも子がいると自分の未熟さを感じることはあるというのは、いつの時代も変わらないとは思う。
 他にも太宰は文学を書こうとする者なら誰しもが悩む普遍的なことなんだろうと思う。 愛や死の同調で喜ぶ読者を見ると彼等に合わせてしまいそうになる。 特に死の価値観は厄介で、死や儚さの同調について、読者の文学への期待は思いのほか高い。もしかしたら生きることや愛の同調よりも期待が高いかもしれない。それは死の同調が「私だけじゃなかった」という安堵感を与えて、「生」に繋がることがあるからかもしれない。死への同調は、生きることも意味する。これは私の独断だが、そういったことを求めるのは女性が多いのかもしれない。
それは現代の私の周りでも変わらない。男性は愛や哲学的なことを主に理性を求めるけれども、女性は死(生)や、人知れず抱いている夢への感情の同調を私に求めることが多い。(それでも、あまりそれに応えすぎないようにはしている)
似たような人がいるという灯りになること、それが作家の弱さの告白の意味である。そしてフィクション作家であるのなら、何処か現実とは違う何かを見せなければならない。例えば、この前紹介したガルシア・マルケスのようなものが良い例だろう。海からバラの香りがするということ、人はこのようなもう一つの現実を期待する。
死や愛を丁寧に書くとすれば基本は一人身のほうが身軽なのかもしれない。 もしくは一人身ではなくても自分を押さえつけない少数の理解者で充分だったりする。作品を第一に考えてくれる理解者がいるのなら、それで良い。それは気楽かといえばそうでもない。一人身でも自由きままに生きることなんて出来ないが、子は犠牲にしていないというのが私の中で安心する一つである。
子育ても経験にとって重要なのかもしれない。
しかしながら、子が可愛いのなら、子を踏み台にしたような経験はしたくないというのがある。完璧な子育てでなくても子は育つけれども、初めから約束出来ないことを誓うことは出来ない。
未来については、神の計らいによるけれども、今の私はそうだ。
 太宰の「桜桃」は作家の葛藤も非常にシンプルに書かれてあるが、妻や子を持った故の葛藤だけで済ませると少し違うのかもしれない。子を持った場合でも持たない場合でも、同じぐらいの課題の重さはある。これは与えられたものに対して、何らかの理由で身軽に動けない人間の葛藤だと私は思う。
だから家庭が無い私にも心に響いたのだと思う。私も家庭が無いことに身軽で極楽トンボだとは感じたことがない。別にあったからといって拠り所になるという理想も今は無い。私は、誰かを泣かせるようなことや、裏切ることや、非道徳的な犠牲が目に見えないだけで、これが正しい生き方なんて自信がないのも私も同じである。これが「私」としか言えない。いえることは、今の自分を必要としてる人がいて、応えたいと思う人がいて、与えられたものは、自分にとって生きるための「かすがい」に違いはない。家庭と違うが、仕事においてはお互い犠牲を払いあって成り立つ関係であるので、感謝すら感じる。
それでも、子や才能(賜物)のように与えられたものによって、身動きが取れなくなるということは多々あり、葛藤があるのだ。
今の私は「桜桃」をそう読む。今回は太宰が残した遺書や太宰の人生とはあまり重ねず作品だけで纏めた。 ただ、太宰は妻以外の女性と心中するときに、子を想う文も残し、生活していけるように印税を残した。残された子について私は詳細不明だが、経歴だけなら立派に成長している。
 取り残された妻は、太宰の遺骨は家に入れなかったが作品が残るように活動をした。心中した相手の女性の家族は名誉回復のために長年に渡って活動した。今では彼に対しては賛否両論はあるけれども揺るがない知名度の高い文豪となった。人の吐いた一つの嘘なんて誰かの誠意で綺麗になっていくように、捨てられたはずの種がまるで育ったようだ。

Lord, have mercy.

*今回、太宰治の本を朗読する機会があったので二作続けて書くことにしました。
*長男の行く末に関しては表現が思いつかなかったので省略しました。
****
◎参考にした他の書籍の一部


「ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。神か富かどちらかを選べ」 (マタイによる福音書・6・24)


信仰は本来、人間の弱さや源として希求されてまいりましたが、その観点を忘れた「いい人間ぶること」がこの頃はやりすぎているように思います。人間は美点もあり醜点もあるのものです。 その相克に苦しむとき、悲しいことながら人間は誰でも多少神が見えやすくなるのでしょうか。

曽根綾子

聖人とは欠点のない完全な人間を言うのではなく、この愛とエネルギーに行き、生かされた人のことですね。
尻枝正行神父
別れの日まで―――作家・曽根綾子とバチカンの神父の往復書簡。



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L’amour est un signe de notre misère.

L’amour est un signe de notre misère. 
Dieu ne peut aimer que soi. Nous ne pouvons aimer qu’autre chose.
「愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。
わたしたちは、他のものをしか愛することができない」
  シモーヌ・ヴェイユ(重力と恩寵)-(愛の章) 


*命題+根拠1+根拠2、極めてシンプルな内容だが、はっきりと意味を説明出来る人は恐らくあまりいないだろう。前後の文脈無し、これが断章のまとめである「重力と恩寵」の一文である。フランス語でも同様、特に大きなヒントとなるようなものはなかった。ただ、他の節やヴェイユの愛の価値観、彼女の人生、イエスへの愛の価値観等を見れば薄っすら見えてくるのかもしれない。 
忘れてはならないのは、彼女は哲学者ということである。既に「問い」が始まっていると思って良い。但し、「神は、自分をしか愛せない」とは神への疑問・反発でもない。何故なら、このタイトル自体が「重力と恩寵」であり、重力とは引力(二つの物体の間に引き合う力のこと)のみが確認されていて、排斥(二つの物体が反発しあうこと)としての力は確認されていないのだ。彼女の中の価値観として神と人間、神と哲学の排斥は無いと考えて良い。彼女は洗礼は拒んだが、こういった繋がりは否定していないように思える。

日本語で考えたとしてもフランス語(notre)で考えたとしても、愛とは「私達の所有」であり、それは悲惨のしるしということになる。この場合の愛とはフランス語のamourこれに定冠詞がついているので、Qu’est-ce que c’est l’amour ? 「愛とは何か?」 と、愛が抽象的な意味を指すようになる。アガペーであり、エロースであり、フィリア、ストルゲー等、様々な愛を含み、着地点を好まないのかもしれない。これは肯定的な文だが、多くの疑問を残し、真か偽の性質を持つので命題だ。
神は、自分をしか愛することができないというのは文学的表現のようで、哲学的要素を含んでいる。意識の限界と言えば早いのか、確かに信仰とは目に見えるものだけではなく、目に見えないものを信じることも大事だとあるが、優先順位を変えられないのが哲学、ということもあるのかもしれない。アリストテレスのように馴染みがある世界に問いをかけるが、最終的に問いに対して目に見えるものにしなければならない。それは彼女が工場体験や、スペイン内戦での活動等、貧しさという現実を知っているからである。彼女はいかなる貧しさにでも、神の恩寵が届くかどうかを思惟していた。それでも、最後は聖書的な「私達は他のものをしか愛することができない」と根拠2でこの一文は閉じられる。 
意味が分からなくても印象に残り、貧しさを少しでも知っているのなら感じるところがある断章である。
*****
詩のようであり、哲学。哲学のようで詩、そして彼女の兄(アンドレ・ヴェイユ)のように数学者のようだ。これはフェルマーの最終定理のように単純な文なのに証明が難しい。現代となっては珍しくもない表現なのかもしれないが、証明は難しい。ヴェイユは私の最高の理想系だ。何年経っても変わらなくて、日毎に彼女に対して光が増している気がする。あんまり好き好き言い過ぎると、自分が無いみたいに思われそうで控えてるけど、やっぱり彼女が大好きだ。 私は少しおかしいのかなと思うのが、フェルマーの最終定理の番組を見ていて、ヴェイユ予想、ヴェイユ予想と連呼されると何か興奮する(笑)
このメモは突然閃いて、考えた時間が短いので後ほど推敲の余地があります。
*この一文の抜き出しと、命題と根拠1、根拠2という纏め方は私の哲学者でもある友人の考えから派生している。ただ、命題の説明やその後の考えは私のものです。
愛は、わたしたちの悲惨のしるしであるというのは、
「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、
蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです」
コリント1 15:43
という期待があるのだと思います。

重力と恩寵:カイエ抄 今度いつかまたカイエの話でも。


hate

「持論」
アドラーの心理学を元にして考えると、根本的なトラウマみたいなものは治せないし、癒えることもない。 例えば 「恋人が死んだ」とかそういうものは 神の力とか信じても癒せないという私の持論がある。信じて癒えるというのは、何らかしら神からの跳ね返り、若しくは自身の覚知があるということで、傷が深い分、そこまで大きな奇跡は起きにくい。可能性として0ではないけれども、そんな奇跡を待つ人生はきっと疲れる。

そういうコアな弱みに限って他人もケア出来ないし、人もそこまで答えられない。これは根本的に治せない原因(トラウマ)だ。そこを無理してマインドコントロールした話にロクなものはない。

でも、 そのトラウマが原因で起こる行動や感情は 考え方次第で前に行ける。例えば、昔の恋人が死んだから、新しい人を愛せないとか、恋愛する気がおきないんだとか。 この領域からは信仰も生きるかもしれないとは思うし、人助けもあるかもしれない。試行錯誤や、内観、計画、それぞれの力で切り開けると思う。 切り開こうとすることには、時々神は応えることもあるし、人間の手による音楽療法だとかカウンセリングも、トラウマの根本原因ではなく、この「目的」エリアのアドバイスをするわけだから私は満更間違ってない。

あのとき無視された
あのとき 嘘つかれた
あのとき ●●だった

他人から見れば些細な事でも本人にとっては原因となるトラウマ。話し合うタイミングも過ぎ、時効同然の過去の出来事は厄介だ。

過去の出来事や傷つきは癒せない。 時間は忘れる特効薬というのも嘘に近い。ただ体感が遠のくための生き方はある。私も過去にも色々あって過去は変えられなかったけど、出来事の感情はあまり覚えていない。

それは前々から目的を変えて、考え方や場所を移動したりしたからだろう。そんな生き方だったせいか、お陰さまで傷に対しての感情は消化されたからだろう。

それでも最近、久しぶりに大きなトラウマが出来て
随分とグルグル回ったけど、私は、このトラウマの根本は治せないと切り捨てること、という基本にかえると、何だかすごく楽になれた。

もう嫌いなものは嫌い。


あなたが私は嫌い。 絶対に絶対に嫌い。


良い思い出もあったけど、 思い出せないほど
嫌いなのだ。

それでいいんだと、
もうここでフラついたりしない。月並みな
言葉だが、他を愛せばいい。

これから先、このトラウマを生かすしかない。

私の未熟さを認めるとすれば 、
今はここまでしか見えないということだ。

最後の最後で
死ぬ前に 全部許せばいい。

今は 呼吸出来ることが大事。

写真: エレーナ カリス

El mar del tiempo perdido

「バラの香りがしたろう」とトビーアスは続けた。
「グアカマヤルの水死体と同じ匂いだったよ」
「いい香がしたんなら、きっと海のじゃないわね」
「どうせ死ぬのなら身分のある人のように土の下で埋めてもらいたい」

García Márquez ガルシア・マルケス(1982年・ノーベル文学賞受賞)
El mar del tiempo perdido(失われた時の海)コロンビア出身・スペイン語。

紹介

手法はマジックレアリズム。それは現実では起こりえないことも現実というもの。
例えばこの話にある「海からバラの香りがする」という表現も、この物語では現実です。マルケス自身は祖国コロンビアではなく、ヨーロッパに移住して書いたそうです。
「失われた時の海」とは、固すぎる土のせいで、この土地は死体を土に埋めることが出来ないので海に流す習慣があります。
そんな土地の海が三月となると、薔薇の香りがし始めます。その香りについて人々は神のお告げだと言いますし、それは嘘だとも言います。そんな中で、しまうところもない大金に困っているという男、教会建設のためにお金の相談をしにくる司祭(神父)がやってきます。この何とも筋がつかみにくい流れが「現実」というわけです。
「日毎(ひごと)に波が穏やかになり、燐光を放ちはじめた。三月になると、夜はバラの芳香が漂ってくるようになった」とありますが、
 海の燐光とは、夜の月のことでしょう。
その証拠にこの燐光の影響で星を数えるのに苦労するとあります。

登場人物トビーアスは、蟹を殺せず、最後は蟹が静かになるまで寝付けなかった。蟹と月は強い繋がりがある。海外では月の模様は蟹だと言われてるし、星座でいうと蟹座の守護星は月だからだ。月とは太陽の熱や光の影響を受けて存在する、ということは月は自分では熱や光を放てないということでもある。その影響かこの世界の人は自分で熱や光を放とうとはせずに、「死に場所」を探すような話を繰り返す・・・・・・
「この海から遠く離れたところで死にたい、ずっとそう思いつづけてきたんです。ここでバラの香りがするなんて、きっと神様のお告げに違いありませんわ」と、それこそ月の引力のように。
けれどもこの土地は月という形は無いのかもしれない。 月のような淡い光がある海ということだろう。引力だけがある土地、海から離れようとする人達、失われた時の海から離れようとすることは、時を手に入れようとしているのかもしれないが、何も本当のところは分からない。それこそマジックレアリズムの醍醐味かもしれない。
よく登場するバラの香り。
著者の祖国のような赤道が通過する国は 日射量が多い場所で、その土地でのバラは色鮮やかな大輪が育つのだそうだ。色鮮やかなバラの芳香について話しを巡らせては、神父は40センチ程、宙に浮き、この土地に教会を建てようとしたが、お金を集められなかったので諦めてこの土地から離れる。
明瞭とは程遠い淡い話、押し寄せては引いて行く薔薇の芳香が、空想的な死体の印象を残す。
この土地の死生観は「人は死ぬべき時ではなく、そう願った時に死ぬものだと聞いていたので」 というようなもので、
やはりこちらは、私達の現実とは違う 「現実」小説世界は現実世界の関心を、様々な手法や視点によって表現する。例えば「死」「貧しさ」という対象を書くということ、
ガルシアマルケスの死や貧しさは呼吸が軽く感じた。深みはあるが語るほうの呼吸は軽い。特に太宰治の後は 呼吸が軽い。(勝手に私が重くしただけなのか分からないのですが)反動のせいか、ガルシア・マルケスが以前より整理しやすかった。勿論、マジックレアリズムは南米の情勢無しでは語れないようなのですけど、何らかしら置き換えたということは半分以上は想定と想像に委ねていると思う。
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Anne with an E

「我が人生は夢の墓場」
「感動には大げさな言葉が合う」


不幸を感じないことが

幸せとは限らない。


祈りの言葉を覚える前のアンの想像癖を見てるとそう思う。

次第に彼女が持っている想像力が 本当の意味で生きていくところが良い。


赤毛のアン、アン・シャーリーは 生まれたすぐに孤児になり、小間使いとして転々とし、ずっと不運だった。自分は不運だということを感じなくなる程、彼女の心は想像の世界や、心のお喋りでいっぱいになる。そんなアンがマリラとマシュー兄弟に養ってもらうようになってから、人生を切り開いていく。



「我が人生は夢の墓場」
これは原作の赤毛のアンの

“My life is a perfect graveyard of buried hope”
That’s a sentence I read in a book once,
And I say it over comfort myself whenever 
I’m disappointed in anything.

我が人生は夢の墓場、一度だけ本で読んだことがあるの。 絶望したとき、この言葉を慰めにしているの。

と言うと、育ての親になるマリラは何でそんな言葉が慰めになるのか
分からないと答える。






マリラのお祈りをしなさいと言うことやアニメでもあったマシューの最期の、「でもわしは、1ダースの男の子よりも、アンの方がいいよ。(略)アンは自慢の娘だよ」という台詞が好きだ。マリラとマシューは結婚せず姉弟で過ごしていたので、子どもがいなかった。お手伝い役として男の子を欲しがったが、アンを引き取り、子を育てる充実感を手に入れた。最近、私は死に役ばかりだったせいか、アンが受ける恵みは 生を受ける喜びを感じるなと改めて思った。


お喋りで想像力豊かだったアンは、お祈りの時間は自分の心のお喋りをやめてするようになった。 そのお祈りする自分の部屋で、やがて出来た親友のダイアナと蝋燭の合図を窓辺で送り合う。


ある スペインの修道士の本によると、イエスが来る前は、友情の言及というものは男性同士ならあったけれども女性同士では如何わしいものとされていたらしい。友情というのは一定の平等性が必要とされていて不可能だと思われていたからだ。そこでイエスがやってきて『あなたたちは皆わたしの友人である』と言い、新たな道を開いた」とあった。そう考えると何気無い、アンとダイアナの女同士の友情もイエスあってのこその道のりなのかもしれない。
とにかく アンは可愛らしい。あの駅で、迎えを待つ姿とか何かが始まる予感がよく書けていて、私の心は時めいた。
劇場版とNetflix版でも赤毛のアン
「アンという名の少女」
がやってて、とりあえずNetflix版を見ることにした。
何だろう、競合作品なのかしら?


シーズン1は 牧師夫婦が来なくて
保守的であまり好感が持てない
牧師しか出てこない。赤毛のアンは牧師夫人が出てくる
あたりから確か面白かった記憶がある。

シーズン2があるならシーズン2に期待。 

果たして出てくるかな?

OPは 元からファンだった
brad kunkleのデザインで
ご機嫌だったけど、

こっちは虐めとか、色々脚色入ってて
原作より胸が痛いかもしれない。
人間のコミュニティでいえば必ずある
ような出来事で真新しさは無いけど、
ドラマ版では、

マシューは銃で自殺しようとするし、
(何処かで見たことがある
圧迫感だな、今の流行りかな、
ブレイキングバッドみたい
だな)と思ったら、本当にブレイキングバッド
の脚本家だった。



*画像の著作権は映像元にあります。

Ranpo Edogawa(3) the Caterpillar

 


「今いきますよ。おなかがすいたでしょう」

「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、何ですのよ。これ?」  

「また妬いているのね。そうじゃない。そうじゃない」


江戸川乱歩・芋虫(1929年発表)―――時子

Ⅰ(感想)
  時子の夫「須永中尉」は、陸軍の誇りだと称えられ、軍神のような存在だったが、戦争によって四肢を失ってしまう。夫は顔は傷だらけで、聴力、声帯も失い上手く話せないが、内臓は鈍いながらも動き、男性としても機能する。姿形は「芋虫」と言えるが、芋虫とは幼虫の段階のことであり、性別の判断はほぼ不可能である。話せもしない、男らしさのカケラも感じない、そんな夫への妻の心は、夫でもなく、男性というものでもなく、自分の快楽と鬱憤晴らしや、気持ち悪い存在でしかなくなってしまう。
この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判した。


 この話はまるで一筆書きのように流麗で、伏線という計算を感じさせない。これは単なる奇談だったが現代ではこういった事をQOLの低下と位置づけるのかもしれない。但し、この場合は夫ではなく、妻のメンタルケアに重点が置かれることになると私は思う。妻は情欲の果てに夫の眼を潰してしまうが、この残酷のように思える妻の行動も現代となれば、介護疲れとして妻の立場に立ったケアを重視されるのかもしれない。文学と医療倫理の相性は良いと聞く。 一見、無秩序であるような残酷さは、小説の形態となると共にある種の法則のように整えられる。このように意味のある残酷は人々に何か課題のように見せることがあるのだろう。
 この話は四肢のない状態の人間に対して差別的に思われるような話だが、第三者視点が妻の内観に焦点を当てることによって、身体に問題の無い人間の心に問題があるようにし、アンビバレンスを保っている。

 物語序盤、時子は「茄子の鴫焼き」を一番嫌いだとあった。鴫焼きとは精進料理であり、一説によると肉が食べられない僧侶が歯ごたえや味を鴫に似せるために作られたらしい。この紹介の始まり、今から情欲について展開される予兆として、時子がこの茄子をぐにゃりと噛む食感は色んなことを暗示させるだろう。苦手なものを口にするときというのは舌から全身へと嫌悪感が走る。感触、触感から得られる快楽に拘った乱歩ならではな所も見られる。

 第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。

Ⅱ(物語の説明) 
四肢を失った夫は、意思を表すのに這いずり回るか自分の頭を床にぶつけるしかなかった。何度も何度もぶつけて不満を表し、その度に妻は丁寧に対応する。

「今、行きますよ。おなかがすいたでしょう」
「待ち遠しかったでしょう。すまなかったわね」
「今、ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」

妻は夫に紙と鉛筆を渡すと夫は口に加えて不満を書いて言葉にした。
「オレガ イヤニナッタノカ」(俺が嫌になったのか?) 



妻は頭を床にぶつけてまで自分を求め、姿同様の歪んだ字を書く夫に、
「また妬いているのね」と、あやす。それから自分の接吻一つで安堵をし、一挙一動するものだから、妻にとって それがまた興奮の種となり情欲が湧いてしまう。
妻にとってこの「生態」は興奮する玩具だった。

「あの廃人を三年の年月少しだって厭な顔を見せるではなく、
自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話している。
女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、
出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。今の世の美談だと思っています」


「どうか気を変えないで面倒見てあげてくださいよ」
 外の人間は、この妻は欲を捨てて夫に尽くしていると思っていて、今の世の美談として、この夫婦に理想すら抱いている。この場合の「欲」を捨ててというのは、世間がこの夫が妻を女として満足させられないと思い込んでいたのだろう。その上に貞淑、献身的に夫の世話をしていることを望んでいる。しかし、実際は少し違っていた。夫は男性として機能が残っていたし、妻は夫をのことを、肥えた黄色い芋虫であり、奇形な肉独楽のように見ていた。
外に行けば時子は 貞淑な妻として、外の空気に合わせる。それは外面だけだとか、悪意や自分から逃げているだけだとは言い難いだろう。
自分を取り巻く世界というのは、馴染みがある世界だ。特に遠出でもしない限りそうだろう。時子を取り巻く人は 時子に対して何らかしらのイメージを持って既に存在している。「知られている」というのは特にそうだろう。
   それをわざわざ崩してまで時子が何を明かさなければならなかったと言うのだろうか?
人は中々、この馴染みがある世界、自分の印象を崩すことは出来ない。それに情欲というものはずっと続くものではない。外に行けば彼女も自然に外に合わせる。
嘘をつくわけでもなく、玄関から外へと出れば時子は貞節な妻として、婉然と微笑んだのだろう。そして家に戻れば、夫の姿の醜さや、その醜さに欲情することを、妻は自分の心が純愛でないことや、秩序立てられない自分の感情に嫌気を差し、自分の情欲、快感と共に恐れも持ち始める。
  客観的に見れば、どんな姿になっても夫に尽くすという誉められるべき姿もあるが、自分の内面、夫が哀れで醜いから欲情するというものが時子に せめぎあう。
  夫も以前は自分の活躍していた頃の新聞記事や勲章を見ていたが、飽きてしまう。夫と行為にあけくれること、この感覚が動物の檻の中の出来事のようで、虚無感があった。そんな中で、自分が貞節の美名に隠れて、恐ろしい女だと見透かされるのではないかと、馴染みがある世界から、指を突き刺されて責められているのではないかと強迫観念に駆られる。実のところ、追い詰めるのは自分を責める時子自身、ただ一人だったが、その解消が色欲と怒りでしかなくなってしまった。それなのに、夫は嘗てのような凛々しさがなく、自分の言いなりだ。けれども言いなりのようで、動けない彼は自分が少し居ないぐらいで呼んでは、結局のところ自分を束縛する。時子の膨らむ感情、時子が夫へと跨るときに内観の描写はここで一旦、静止する。人間は愛おしいという以外の感情が爆発するというのはどんな感情かは表せられないのだろう。
言葉にならない感情、
内観からもフェードアウトした
ような感情、
弱々しい彼への支配力や感情が収拾つかなくなり、時子は夫の眼に手をかけ自分を見つめる夫の眼を潰してしまう。
「ユルシテ」


 目を潰された夫の胸に妻・時子は「ユルシテ」(Forgive me)と何度か身体に書いたが夫は返事をする素振りは見せなかった。妻は段々と夫の置かれている状況の哀れさと、自分の罪への意識に耐えかねられなくなり夫から思わず離れてしまう。そして、戻ってみると夫は居なくなっていて枕元の柱に子どもの悪戯書きのように読みにくい文字を残してあるのを見つける。
妻はそれを「ユルス」と記してあると気づいたが、時既に遅し・・・・・・。夫は身体を這いずり、もたげていた鎌首をガクンと落とし、井戸の中へと落ちて死んでいった。
鎌首をもたげるとは、蛇が首を持ち上げた姿が鎌に似ていることから、戦闘体制に入るときに使う比喩表現である。夫の最期は、軍人としての
死なのか、死に向かうことへの意志の表れなのか、謎は残るが、妻は夫から許されたと確信と共に夫の面影の幻想を思い描いた。
Ⅰ(思索と所感) 

○「ユルシテ」 と改心について。
 時子は夫の眼を潰してしまった後に、夫の胸に「ユルシテ」と指で何度も書いた。 このときの「ユルシテ」について人々はどう捉えるのだろう。乱歩は、これまで妻の内観と共に闇へ闇へ、快楽、恐怖と大抵の読者がそう捉えるように描写を続けていたが、妻がユルシを乞うところから妻の本質の方向性を拡散させている。読者によっては妻が改心をして「ユルシテ」と言っているようにも見えるし、改心なんてしてなくて自分が許されたいがために「ユルシテ」と言っているだけのようにも見せている。
「彼は物を見ることが出来ない。音が聞くことが出来ない。一言も口が利けない。
----------果てしなき暗闇である-----------どんな薄明かりでも構わぬ、物の姿を見たいであろう。
どんな幽かな音でも構わぬ、物の響きを聞き度い(聞きたい)であろう」

 確かに夫の立場に立ったような感情も湧いているが、それと同時に時子は泣き出し、世の常の姿を備えた人間が見たくなり、哀れな夫を置き去りにする。一人に耐え兼ねて逃げ出すその姿を卑怯だと思う人もいるだろう。読者という「審判」が時子をどのような女と見るかによって後半の感じ取り方は変わってしまう。
 日本語の「ユルス」とは、基本は人同士の「許す」と神との間の「赦し」と分かれている。この場合、「許す」というのが適切である。けれども、目も見えない、四肢も無い、
そんな夫に残されているのは、他者には感じているかどうか分からない触感だけである。
日本人なら子どもの頃に、友人同士で背中に文字を指で書いて何て書いてあったのか当てるゲームを一度はしたことがあるだろう。受け取り側は、文字が鏡像状態となって単純な平仮名やカタカナでないと分かりにくい。
 時子は夫の胸に幾度となく「ユルシテ」と書いた。 彼女のユルシテは、人間同士でも、神への赦しも俗さないというのが正解だと思う。(英訳ではforgive you となってるがここは綺麗な翻訳だと思う)偶然から生まれたようなものだが、これはカタカナであるべきなのだ。それから夫は子どもの悪戯書きのような文字を鉛筆で書いて、時子はそれを「ユルス」と見えるが、冷静なことを言ってしまうと実際のところ分からないというのが結論なのかもしれない。実際は夫は何て書いたのか分からない。私はそう思う。 
  妻が書き込まれた文字をカタカナの「ユルス」と見えたとき、すぐに時子にとって「許す」と漢字に変換される。これは妻の中に在った夫の声だと思って良いだろう。まるで声が近くなったようだからだ。長らくずっと聞けなかった夫の声を彼女は漸く思い返したのかもしれない。それが今の現実の夫の声とどれぐらいかけ離れているのか、重なっているのか分からないまま、夫は死んでしまう。
もたげていた鎌首、upraised headについて
英訳版では、ユルシテはForgive meとなっていた。そして、夫からのメッセージは
I forgive you!” と言ってるように見えたとあるが、これは在り得ないのかもしれない。何故なら、夫は四肢がなく口で挟んでしか鉛筆で文字が書けない上に、目も見えなくなっている。「ユルス」という三文字以上のものが書けるということは少しリアリティに欠けてしまう。せめて単語一つ、forgiveのみが良かったのではないかと思う。
英訳版では、この文字を見た後に、時子は涙で頬を伝って、眩暈を感じたとあるが、私が持っている日本語の原作ではこのような事は無い。
 
 Tears immediately welled in Tokiko's eyes, and she began to feel dizzy. 


恐らく、後半の夫のユルシを見越して、翻訳しにくかった箇所をそのように書いたのだろう。本当にここで夫が許し、妻が肉体的苦痛と共に改心したとするのなら刹那であるが確かな夫婦愛すら感じる。それも一つの捉え方として間違っていない。先ほども言ったように、夫の眼が潰れた後からは乱歩自身が色んな捉え方でもなるように妻の本質を拡散させているからだ。ただ、時子に涙を浮かばせてしまったら一つの答えが決まってしまう。それは一つの美徳に偏ってしまって少し残念なことだ。
 男女の間に起こる刺激は常に秩序によって整っているわけでは無い。何処までが愛情だといえて、何処からが単なる刺激なのか簡単に説明出来るものではない。
男女の間では、演繹的に「愛」だと確信出来ることもあれば、帰納的に「男女だから」としか言えないときがある。(もっと感覚的なものだが敢えて言うとするのなら) どんな男女でもこの両方を兼ねているだろう。乱歩自身は
「夢を語る私の性格は現実世界からどのような扱いを受けても一向に痛痒を感じないのである」
(政治的意味について・wikipediaより)


と言ったようだが『芋虫」は実のところ人間離れした、夢の話とも言えないだろう。理想の倫理から離れているだけであり、人間の作り上げることが可能な感情世界である。
夫婦の愛には望まれるものに「持続」というものがある。愛は持続を求めるが、時の流れや、状況の変化や、パートナーの変化や自分の変化、様々な要因が二人の間を蝕んでいく。この二人は無自覚にも、意図的にも「持続」の最中だった。
どんな馴れ初めで出会ったのか、元々恋愛関係であったのかどうかも知らない。夫婦の異常にも見える営みも、本来なら正当な「持続」である。他人にとって模範的でなくても、本人達にしか分からない「持続」があれば充分なのかもしれない。 特に、家庭というものは社会一般的や、他人の理想である必要は無いだろう。
 それでも人は何処かで植物の成長かのように筋の通った成長や秩序や法則を求めてしまう。そうじゃないと不安になり、恐れを持つようになる。少なくともそういう人間もいて、「時子」もその一人だった。肉体的な盲目と精神的な盲目、肉体的な盲目は夫だけだったが、精神的な盲目は二人とも抱えていた。時子はその恐れと共に闇へ闇へと落ちていった。夫は最後は「ユルス」と書き残して死んだようだが、最期の、鎌首をもたげたというものが引っかかる。先ほども言ったように、鎌首をもたげた(もたげていた鎌首)というのは戦闘体制への比喩表現である。軍人らしい死に方とは言えるが、確かなことは分からない。 捉える人から見れば「妻へ」かもしれない。
英訳版ではupraised headのみで、
「蛇のように」という一言が無かったことが残念だった。 これだと、彼には首と胴体だけしかないのだから、古井戸に吊るされただけのようにも見える。これは夫の世への怒りの象徴でもあったと思うからだ。私はそう思う。
ただ、事実はどうであれ、妻は「許された」と思っている。この全ての解答は妻のものになった。 この話は一見、世間が美談だと思っているような話の裏事情のようにも見せているが、推理小説を書いていた乱歩は錯視の天才だったようにそれが生きている。
許し、許された、夫婦愛、


このキーワードがこの二人の間に本当にあったのかを期待する人もいれば、無かったということに期待する人もいるだろう。人は愛にも虚無にも夢を抱くことがある。
二人の情念は「愛」「恵み」とは蚊帳の外のようなものだった。妻の五感は良くも悪くも、彼への執着へと感情が埋まっていく。希求は何度もしたのかもしれない。それでも妻は夫と闇の中にいることを選んでいた。それは快楽が故だったが、女としての喜びもまた妻としての喜びでもあっただろう。喜びと嫌悪感を繰り返し、皮肉なようだが、これも一途だったといえるのかもしれない。
「一途?」
乱歩は私のことも錯視へと陥らせる。わたくしの語りの着地点を何度も悩ませた。
「芋虫」という奇談、夫の許し、軍人としての死、それらを香らせ
最後まで「美談」という一本筋を通したような話だった。
今の世の美談だと思っています「どうか気を変えないで」

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Eve

・There certainly must be some who pray constantly for those who never pray at all.

・Certain thoughts are prayers. There are moments when, whatever the attitude of the body may be, the soul is on its knees.

復活祭前夜

Victor HugoのLes Misérablesの引用で申し訳ないですけれども、(メモが残ってて) これ以上の感想がありません。身体がどうであっても、私が何をしてきたのか それが何であろうと、魂が跪くような時間でした。

今の苦しみは最後では無い、私の知らない、見えないところでの痛みや悲しみも 癒されますように。復活祭おめでとうございます。

今日は 前夜祭(復活祭の)でした。

土曜日は、夜になるとバスの最終が過ぎるだけじゃなくてタクシーも出払ってしまうから 途中で帰りましたけど。

*ユゴーは無神論者ですが時々カトリック書籍でも引用されてます。

・私の心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな工合(具合)になったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れる云う訳に行けしませんのに、これも「神様の思召し」やろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもうたことはみんな夢とあきらめよと(園子)


・「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇りに感じる。何でや云うたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当たり前や、女で女を迷わすことが出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあ云う気いして、嬉してたまらん」 (光子)

谷崎潤一郎「卍」より 

****

 

朗読の感想

 ある役を演じてみるとするのなら、心理分析は欠かせない。私の課題は「光子」だった。甘え上手で人々を虜にする美しい光子、それは男性だけとは限らず、主人公「園子」とも関係を持つようになる。原作も映画も話し手や視点の中心は主人公・園子であり、この美しい光子という女性は園子の記憶の中の者となる。なので、心理分析するとすれば、台詞や所作等からの想定となる。
園子は美術学校に通っていて、観音様を描くが、校長先生にこの観音様はモデルに似ていない、誰に似せたんだと執拗に問われ、反論をする。園子は無自覚で徳光光子に似ている観音様を描いていたことに気づく。それを機に、会うようになる園子と光子・・・・・・。
園子の視点から語られる光子はギリシャ神話でいえば男性からも女性からも愛される美形のナルキッソスであり、園子はナルキッソスに恋をしたエーコーのようなものだ。エーコーは自分で考えて言葉を発せず、ナルキッソスの言葉を借りて繰り返すことしか出来なかった。そのためナルキッソスに見捨てられ、哀しみのあまりに木霊となる。この状況に対して罰を下したのがネメシスだった。 ネメシスのこの行いはギリシャ神話のコアなテーマでもある「ヒュブリス」である。
ただ、卍の場合はヒュブリスまでに至るところまで考えないほうがいいだろう。人を道連れにして死んだ光子、取り残された園子のことを考えると、エーコーは哀しみのあまりに木霊となったまま時間が止まり、光子は水面に映る自分の姿に惚れ込むほどナルキッソスになりきれなかったとイメージしたい。
映画(1964年)では光子(若尾文子)は園子(岸田今日子)に真剣な話をしているようでコンパクトを見ながら話す。私は、真剣な話をしているとき、自分の身の上話をするときは鏡を見ながら話すなんてことはしないので気になったシーンだった。
心理的に自分の映る鏡像が気になる、鏡を見ながら話す人の心理というのは、ナルシストか、自分に極端に自信がないか、というところらしい。
光子はどちらだろうと、やはり自信がない方なのかもしれない。光子は園子の夫とも関係を持ち、園子と夫はずっと「肌があわない」関係だったが、漸く「光子」を所有するという共通点を持つようになる。自信がないというのは、そんな状態になっても光子は夜になると、園子と園子の夫に必ず睡眠薬を飲ませないと気が済まなかったからだ。
園子は「自分じゃなくて夫を選んで裏切るんじゃないか」という疑いを持ち、夫のほうも「これが愛の形か?」と不安になりながらも、光子の言うことを聞いて睡眠薬を飲み続ける。光子は光子で、睡眠薬を飲むのをためらう二人を見て「あんた等、あて(私)欺しててんなあ」と泣き出す。
 人を想いのままに操れるようになった光子は女帝のようになった。しかし女帝としては非力でか弱い。
 終盤の三人の心中は実に滑稽なことかもしれない。この心中は近松門左衛門の曽根崎心中ほど現世で幸せになれないから、あの世(来世)でというような切羽詰ったものがない。収入源だった夫が仕事を続けられなくなって光子が「死の」(死にましょう)と言ったら二人とも了承する。「光子観音」と園子と夫は光子を崇め、光子を真ん中に仲良く死にましょうと三人で薬を飲むが園子だけが何故か死ねなかった。園子は、夫と光子を失うことになるが、最後まで光子を疑いながらも、愛しいと、涙を流す。
****
この作品の魅力は、道徳や倫理感では図れない。何か、現代の慈悲的な感覚で三人を捉えたらこの世界観を崩すことになるだろう。 読書というものは、本と読者の内面との垂直関係であるので自由な捉え方も保障されているが、分析するとなると別になる。柔らかい大阪弁での会話は次第に憎悪が渦巻いていると実際に演技を交えながら朗読していくと分かってくる。この話を測るときに、キリスト教的な解釈の「人の弱さ」ギリシャ神話のヒュブリス、空を飛ぶ鳥のような俯瞰視点が似合わない。例えば園子を本当に愛してるから園子だけに毒を加減したとする、そんな美談、装飾(言葉)を入れようものなら、この話は破綻してしまうのだろう。卍は左旋回を使用しているので「和」の元である。何処までを和といえるのか、難しいところだが最後にバランスを取って三人で死のうとしたところなんかは皮肉なようだが近い気がする。
この作品を簡単に言えば異常ということなのだろうが、本来なら生き残れたということは卍の印の由来でもある「瑞相」(めでたい出来事として起きる前触れ)であるべきだろう。それでも、園子は最後は第二の人生を考えているのか、それも
定かにしないまま、ただ泣いて終わる。園子にとっての吉兆の印とはやはり光子との
出会いだったのかもしれない。
 この作品の魅力は括弧たる日本語で、「綾模様」を作ったことであり、その儚い模様が美しく、卍という記号のビジュアルイメージだけで雁字搦めというほうが適切なような気がする。本来の意味よりも視覚によって人が左右されるとするのなら、卍という重なりの記号を持ってきたことは一種の戦略だと思う。
哲学者・ドゥルーズは、ものごとは様々な線からなる多様体であるという。これを私は日本語の「綾」のようなものだと思っている。子どもの頃やった綾取り(あやとり)と聞けばイメージしやすいが、彼に言わせれば物事は、様々な性質を持つ線の絡み合いから出来ている。そして、思考は侠気のような何かに衝突し、生が死のような何かに衝突するような場所はいたるところに存在する。この「卍」は世界から見ればそんな「交わり」であり、「平行線」である。それらの緊張の糸は、紐解かれる間に心中というものさえも善だとか悪だとか、簡単には言えない価値観へと突入する。
一人の女性を夫婦が取り合うという構図、
バルザックのセラフィタも夫婦になる運命の二人が
両性具有の天使に恋をする。
(セラフィタの脚本について)
 今、書いている脚本、バルザックのセラフィタと構造が似ているので研究用に選んだ一冊だった。構造は似ているけれども決定的に違うのが、卍は光子という存在の裏に潜むものが無限遠点という架空の概念であるのに対して、セラフィタは、人間二人はセラフィタを手に入れようとしたがるが、下されるものはヒュブリスではなく、牧師でさえ図れなかった神秘であり、最後はイエスは父への至る道に沿っていこうと導きがあるところだ。 
セラフィタというものを表すのはミステリアスでありながらも
無限遠点ではなく「神」という明確性だ。
卍の光子は、外見の美しさよりも動かしたものは、人それぞれが抱く欲であり、人々の積み上げであり思い焦がれる「観音様」であって、歪んだ仏心による「美」だろう。セラフィタの場合は、元々人々が崇めなくても天使として「存在」している美しさだ。
セラフィタと卍、

どちらが素晴らしいのか、どちらが本当に美しいのかと優劣はつけられないが、人間の有限性というものが儚いとするのなら、その儚さを躊躇することなく表現出来たのは

卍だろう。

綿貫に関する記載は、重要な人物でありながらもこの記事の全体のテーマ、ブログでの読みやすさを考えた上で省かせてもらいましたが、男性として機能しなかった綿貫の議論からも引用を。

元政上人は男子の男子たる印あったら邪魔になるのんで、灸すえた云うやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そない云うたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現してあるのんやし、観音さんや勢至菩薩の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性や云うこと分かってる


本→新潮文庫
映像に関するcopyright →角川書店

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Toward a narrative

   

「この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、時のしわざだし」(第三章)

「こんなふうにして、いつも大聖堂の型にはめられて成長し、その中で生き、眠り、ほとんど外に出ず、四六時ちゅう建物の不思議な圧力を身に受けているうちに、とうとうガジモドは、少しずつ建物に似てきた」


「カタツムリが殻の形に体を合わせるように、彼は大聖堂に体をあわせたのだ。
(略)この建物は彼の住居であり、巣窟でもあり、外皮でもあった」
(第四章)

ヴィクトル・ユゴー著 
ノートル=ダム・ド・パリより。


*簡単な粗筋*

 主人公、カジモドは赤ん坊のとき捨てられ、当時まだ助祭長だったフロロに拾われる。月日を経てフロロは司教補佐へ、カジモドはノートルダム大聖堂の
鐘つき男となるが、音が聞こえないため鐘の音は聞こえない。彼の外見は醜く、人々からバカにされる存在で広場で晒し者にされるが、美しいジプシー娘のエスメラルダに助けられる――――。

醜いカジモドのことをユゴーは第4編でカタツムリの殻に例えた。

****

カタツムリの殻というものには以前話した「黄金比」(黄金螺旋)が隠れている。人類が発見した黄金比、新約聖書の神と共にある「言葉」(ヨハネによる福音書1章)というものはギリシャ語ではロゴスと言うが、「比」という意味もある。他にもアリストテレスは「命題」をロゴスと呼んでいたし、神の言葉に匹敵する比とは「黄金比」だと一部の数学者や神秘数字を愛する者からよく語られる。このカタツムリの殻とは「命題」でもあり、そして「黄金比」という答えでもある。

元々、ノートルダム大聖堂自体、建物の比率が長方形の黄金比となっている。設計自体も聖書の数字を彫刻等に散りばめられていて、荘厳なる大聖堂である。けれども、ユゴーは長方形の黄金比としてではなく、カタツムリのような地味な生物の殻に潜む黄金比を大聖堂に例えた。ガジモドの体をその渦巻き上の「黄金比」に押し込め、全ての歪さを上手く表現する。その歪さ中には障がいを持つ者、ジプシーへの根深い差別、そして神を外皮のようにしか扱えない者への冷静な視線が表れている。

大聖堂に捨てられていた赤ん坊のガジモドは20歳ぐらいになるが、外見は醜かった。最期は愛する同じジプシー女性の亡骸と共に白骨化するまで眠り続けて砕け散った。 眠りから死の境界線はいつ越えたのか、その「時」は読者には知らされない。憎悪と欲、ノートルダム大聖堂を取り囲む長い長い人間劇は「時」のつけた傷に過ぎず、最期の白骨化があまりにも切なく、この死に方が幻想と現実の区別をつかなくさせる。

ユゴーのノートル=ダム・ド・パリの完訳版を再読したが、まるで大聖堂の建築を様々な思考を持ちながら細かく見ているようだ。この作品は、著者自身がノートルダム大聖堂を訪れたとき、大聖堂の片隅に「宿命」と刻まれた文字を見つけ、その文字が上から塗りつぶされて消されたころから着想を得ている。この本の帯も「この世は劇場の緞帳です」とリルケの言葉を使っていた。このように「緞帳の裏」「隠している事実」に焦点を当てることで明かされる告白、著者自身もそれを望んでいるように思える。ただ、その隠しているものとは国民全体で考えると、本当は知られたくないものだったりすることも多い。

例えば、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(映画)になりますが、この話しもフランコ政権の検閲を逃れるために色々と置き換えた「詩」と囁かれているが、スペイン国民自体はフランコ政権を知ってもらおうなんて思っているわけでもないようだった。
この映画を好きだということがあるのなら、純粋にアナという少女について、
見えている映像世界についての感想と感情を述べることが望ましいだろう。あの映画は大声の主張ではなく詩であり「ささやき」なのである。

ノートルダムに話を戻すと、人間劇で見ると人間の「罪」や「欲」は「時」の流れの一つに過ぎず、小説を読めば分かるようにそれはノートルダム寺院の壁に傷をつける「時」のようなものなのだ。無宗教を選択したユゴーにとってそういう解釈のほうが自然のような気がする。ジプシー娘のエスメラルダは原作では絞首刑になるが、ディズニーアニメではカジモドに助けてもらって生き残り、このシーンは感動的だった。

何故、殺さなかったのか。子ども向けだからという単純なことでもあるかもしれないが、
90年代アメリカは、短期就労目的の非移民も増加した。こういった時代背景も反映していたのかもしれない。国家というのも人格を持った信念でもあるので、多少、国の時代に合わせて変更すること、意味のある変更は私は嫌いでは無い。

どんなに「時」が流れてもジプシーについては謎が多く、あまり取り上げられないし、ジプシーそのものはスペイン歴史同様に取り上げられることを望んでいないところかもしれない。原作ではホロメスの「イーリアス」の説明もしている。ホロメスの作品は物語世界の外にいる語り手が、他の誰かについての物語を語ることが多い。聖書でもこの方法が大半である。このような手法を取ることを全知の存在とも言うが、「物語」の場合、作家は執筆途中で実況にはなりえないという事、作家は果たして本当に自分の作っている作品に対して全知であるのか? そういう疑いを持つようになっていく。

作家・アンドレ・ジッドはMise en abyme(深淵の状態にすること)、物語りには大きな舞台の中に小さな舞台があることに気づいた。ユゴーは既にジッドの前にこの存在に気づいていたという。恐らく、このノートルダムドパリも入れ子状態の中にある深淵を、哀しみを作り上げたと言えると私は思う。

深淵は 深淵のままなのか、目に見えた残酷な
話は残酷なままなのか?

そう思うと、この深淵に対する光かのように
私は聖書の「目が見せもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙2章9節)が思い浮かんだ。*パウロの言葉に鳴り響いているもの、その否定の連続の後に高揚した表現があるが、これは人智を超えた神の霊による啓示について語られたものである。

ノートルダムではカジモドが一心不乱で自分では聞こえない鐘をつく間、物語りには書かれなかったがその鐘の音に全く意味が無かったわけではない。傷が在る外皮の中に祈りはあり、現実としては争いもあり、小さな愛は沢山在った。 

ディズニーアニメのカジモドは外見は醜いが、心優しい青年に描かれ、大聖堂のアーチから溢れる光、日の光が照らす街へと夢を見る。原作では孤児だったカジモドはアニメの中では“Sanctuary, please give us sanctuary”と母に守られたという過去を持つように加えられた。

そのように情を持ち始めたのは、ユゴーが絶望的に書いた「時」が作り上げた、現代の私達だ。その時、差別されていた存在を愛されるような存在で描こうとした人間がいて、現代では作品に対してカジモドへの同情は耐えない。

全員がそうだとは言い切れないが、この作品は「時々」愛読されている。世の深淵は深いが時々、愛は在る。どのようにこの理解が育ち、未来で人の愛が育ったのか、この形成はどう説明出来るのだろう。

  人の記憶と同様、世界は記銘と、保持と、想起によって「貝」のように形成される。けれどもそれを把握したからといって全知とは言い難い。はかれない深淵と、神の光、人がこの世に存在する限り深淵は深く、人が愛を識る限り、必ず神(fate)を意識する。 もしも悲劇の物語を見たとしたら、それに悲しむ自分の奥底に
愛があり、神と繋がりがあるのかもしれない。物語の中でその一滴の情があればこの話は違ったということ、それは神のいつくしみに似ているということは、言いすぎだろうか? 

砕け散ってしまった白骨、

私達は物語の外。

心で溢れた感情は、深淵から「時」を経て浮上した愛の一部。

***

*コリントの信徒への手紙の説明「否定の連続の後に高揚した表現」について。オットー(聖なるもの)より引用。パウロに関しての説明は正式版で。

*神をfateとしましたが、訳を当てはめたわけではありません。 
*世界は貝のようにとありますが、この作品に合わせて書きましたが私自身「巣」だとしています。矛盾かもしれませんが
*ユーゴと表記することが良いらしいですが、持っている本がユゴーでしたので
ユゴーで統一しました。

画像:http://www.iamag.co/…/the-hunchback-of-notre-dame-90-origi…/

http://disney.wikia.com/wiki/Notre_Dame_de_Paris

(批評:簡略版)

Incomplete wisdom

「不完全な知恵へ」
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うめきつつ求め、上昇のために手さぐりする悩める不完全な知恵に対して、私達は自分が真理を持っているという喜び、あるいはむしろ自分が真理を受けいれたという喜びによって無感覚であるべきだろうか?

――シモーヌ・ヴェイユ著・神を待ち望む・ペラン神父の序文――



****
「神を待ち望む」とは彼女が信頼していたペラン神父がつけたタイトルであり、ヴェイユが一番好きだった言葉”en upomèné”(耐え忍んで)」(ルカの福音書8:15~)から導かれたものである。ヴェイユの死後、ペラン神父がこの本を出版することになるが、この「真理を受け入れたという喜びによって無感覚であるべきだろうか?」とは、はこの出版に異議を唱える人々(自分達は真理を持っていると思っている信者)への彼の「レトリック」である。
この本は彼が言うように、疑いようもない霊的文学としての美を備え、確かにキリスト教としては議論の余地があるものである。彼はそんな中でもヴェイユを天才的な聖者と称え、この「魂の意識」を皆によく知らせたいとした。ペラン神父は先見性を持っていて、これからのキリスト教外の価値観とどう向き合うかにも視野に入れていた。その上でヴェイユ独自の宗教観への指摘もあるからこそ、この本は出版出来たのかもしれない。この二人の対話は
まさしく、神を待ち望む姿そのものだった。
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私は数年前にこの本の二人の姿勢の美しさに魅入られ、「悩める不完全な知恵」というものを「上昇のため」と認めてくれた顔も知らないペラン神父に憧れを抱いている。 このように顔も知らない者、文章だけで愛せるという力があるということは作家にとっては必要なものだと思っているので恥ずかしいとは思わない。何故なら作家自身が文章だけで虚構世界を表現し、愛されなければならないからである。
心理学上、一番人間が感情を表現しやすいものは「顔」であり、次は「声」だと言われている。「顔」や「声」にも頼ることが出来ない文章世界は、一般的には表現しにくく、受け取り側も困難なツールとされている。過去に私は、文章世界を見てほしいと思っている者がテキスト世界の聖書を読まないということや、否定するということは矛盾に値するのではないのか?ということに気づいた。
それから聖書世界は私の中で「在るもの」となった。信じる信じない以前に、打ち消すことが出来ないものとなった。私は恐らく、作品の中で聖書の引用を消すことはしないだろう。
その熱は動力とも壁ともなるものでもある。
そんな私にとって「不完全な知恵」という言い表し方は涙を誘うものがある。それはこの決意が本当は辛いからなのか、感動しているのか、感情の理由は分からない。彼の言葉に掴まれることによって私の魂が「上昇」を夢見ているということに気づかされたのか、私も肯定されたいという欲求が故なのか、彼の言葉が神の優しさのように思える。
****
前置きが長くなりましたが、この写真はチェスプレイヤーのボビー・フィッシャーがカストロ議長と話している写真である。(カストロ議長はトーナメント前にフィッシャーに横槍を入れている)ボビー・フィッシャーもまた天才であり、チェスの神聖さに魅入られ数奇な運命を辿っている。今年もハッキリと分からなかった一つが、ボビー・フィッシャーの定跡は「何故美しいのか」ということだった。
色んな人の定跡の動画を見ていて「これは綺麗な進み方だなぁ」と思ってると、大体がフィッシャーだったりする。出回っているのが綺麗な定跡のみなのかもしれないけれども、中々このようなものは出会えない。彼は今でもチェスプレイヤーにとって憧れの存在(天才)である。
何が完全なるチェスなのかは分からないけれども、美しいというのは理屈よりも先に訴えてくるものがある。惹かれているのは単なる写真の構図なのか、チェスを政治的利用にされることに対して抗議するフィッシャーの「情熱」なのか、この二人の対峙のように見えるこの一枚は、まるで映画のワンシーンのように熱を帯びている。但し、熱があるのはフィッシャーだけで、カストロの手の脱力感を見れば分かるように、彼らはあまりフィッシャーを相手にしていない。その中でも刺すようなフィッシャーの視線が気に入ってしまい、私は時々この写真を見るようになった。
楽譜理論も哲学(知を愛する)にも惹かれたりするのだが、ペラン神父やヴェイユ、チェスなどに「何でこんなに好きなんだろう」と振り返ることがある。
分かるのは惹かれるものとは、「無感覚ではいられないもの」だということだ。
無感覚でいられないものは、愛せずにはいられない。
維持や忘却も含めて愛は静止することを知らず、愛するということは情熱が必ず付き纏う。
情熱を持つということは、フラットな地面を只管走ることだけなのだろうか? 私にとって情熱とは魂が上昇を欲しているような気がしてならない。気がつけば身体を忘れて熱だけになりそうになる。けれどもその熱は生きている間は発散されず「耐え忍んでいる」のかもしれない。 
(2016・12・29メモ)

Joyeux Noël et Bonne Année !

HAIL MARY

Hail Mary, full of grace, the Lord is with thee.
Blessed art thou among women, and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God, pray for us sinners, now, and at the hour of our death. Amen.




Hope

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“Because you do not understand Japanese,
regrettably I cannot show you,
but my novels have a reputation that my writing style is beautiful”
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英訳本出すためにクラウドファンディングをする予定で準備中。
成功する可能性は低いのはわかっていて、パフォーマンスの一つとしてやろうと思っています。(youtubeでも100回投稿して、100人ユーザーがつくかつかないかとか、100人超えたら1000人まで早いとか色々聞きますが)
勿論、自分達に関係の無い英訳化にお金を出してくれる人なんていないので、日本のサイトじゃなくて海外のサイトに登録するつもりで、紹介は英語になります。
日本語の分からない海外の友人に時々、冗談で上記のような事を言うことがありました。すると、「いつも綺麗な話をしてくれるよ」と返してくれました。そういうことを言われる度に期待することは、もしかしたら工夫次第で通じるかもしれないということ。 
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Angel

350:Angels are spiritual creatures who glorify God without ceasing and who serve his saving plans for other creatures: “The angels work together for the benefit of us all”

訳:350:天使とは、たえず神の栄光をたたえ、他の被造物に対する救いの計画に奉仕する霊的被造物です。「天使は、わたしたちが有益になるすべてのことに協力します」
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カテキズムの好きなところは「天使」についての記載があることでもありました。天使について考えるということ、若い頃なら「痛いメルヘン」扱いで周囲から疎まれそうなところを、哲学として、学問として扱えるようになることは本当は子どもの頃からの夢だったのかもしれない。 
いつから形而上学に興味を持ったのか、哲学が好きだったのか、現象学が好きなのか、聖書が好きなのか、人には言わなかったし、自分でも無自覚なものがあったり、例え言っても、頭が足りないと思われるような話し方しか出来なかった。
 
文章世界で成長するということは、未分化で未発達、そのような若い頃の歯がゆさや欠点を長所に変えていく毎日だったのかもしれない。
それでも、たとえ丁寧に天使を書いたとしても、言説化されたものは色んな色眼鏡で見られてしまうかもしれません。願わくば、天使の彫刻を彫る人のように、天使の彫刻を何の疑いもなく美しいと言われるように、自然に扱われたい。
天使の像を見つめることは、私の希望の「具象化」なのです。
****
*英訳しか持ってないので翻訳は私ですので、多少表現の違いがあるかもしれません。
     

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