「少年の日の思い出」


盗みを犯してしまったという気持ちよりも、自分が壊してしまった美しい蛾の姿に苦しめられていた。
そうそう、君はそういう人なの

ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」

 蝶のように生物の標本とは、生の実体ではないが本質として残る。研究としての資料でもあり、嗜好品としても存在する。ハインリッヒにとっては嗜好品だったといえるだろう。この話は日本の教科書にも載っているほど有名な話だが、ヘルマン・ヘッセSchmetterlinge「蝶」の短編集Das Nachtpfauenauge(クジャクヤママユ)」(1911年)の章である。邦題は「少年の日の思い出」となっている。一人称「私」のお客さんがハインリッヒ・モーアであり、物語の殆どがその男の思い出話である。ヘルマン・ヘッセの蝶と蛾を主題とした散文九編、詩十一編、編者Volker Michelesのあとがきによって構成されている。

 蝶の採集を始めたハインリッヒは、二年目の十歳で虜となる。蝶を見るだけで恍惚状態となり、採集をするが彼は古いボール箱に保管するしかなかった。しかし、友人達は標本用の綺麗なガラスケースに入れてくるので、彼は次第に友人らに見せるのを止めて、妹だけに見せるようになる。彼は珍しい「コムラサキ」を捕ることに成功する。展翅し、ボール箱の標本を完成させる。彼は隣の少年、エーミールに見せたいと思った。その少年は、庭を隔てたところに住んでいる学校の先生の息子だった。標本の数自体は少ないが、ハインリッヒとは違って、彼の標本は美しかった。そして彼は標本作りや修復の高度な技術を持っていて、ハインリッヒは彼を妬ましいと思いながらも、感嘆としていた。

ハインリッヒは、エーミールにコムラサキを見せたら、最初は褒めてくれた。しかし、色々と管理が杜撰なことを指摘される。それ以降、彼はエーミールに標本を見せなくなった。やがてエーミールが二年後、「クジャクヤママユ」を採取したと、耳に入る。それはハインリッヒが恋焦がれていたものだった。彼は隣の家に行ってノックをしたが、エーミールの返事がなかった。そしてあの蛾を見たいと勝手に部屋に入って、「クジャクヤママユ」の美しさに忘我し、盗んでしまった。すぐに良心に目覚めて、引き返して蛾を戻したが、蛾は形を失ってしまった。壊れてしまったのだ。

 家に帰り、母親に打ち明けると怒鳴って怒ることはなかったが、エーミールに謝罪するように言われる。ハインリッヒはエーミールの家に戻ったら、エーミールはクジャクヤママユが何者かによって壊されたと騒いでいた。彼はクジャクヤママユを最善の修復を施そうとしていたがダメだった様子が伺えた。

ハインリッヒは謝罪をするが、エーミールは彼を許すとも怒ることもなく、

「そうそう、君ってそういう人なの」

と言って軽蔑的な目で見る。

エーミールは、ハインリッヒの杜撰な蝶の管理が彼の本質かのように語った。

帰宅後、ハインリッヒは母親に優しくはされたが、今まで集めて来た蝶や蛾の標本を指で潰していくのだった。

蝶や蛾の標本は、形がある間は本質として存在していたが、壊してしまうことで本質と現象が渾然とする。概念、思惑の中に蛾の面影が溶けていった。標本のようなものは、存在でしか意味がない。エーミールの指摘は本質観取だった。気持ちや、情熱だけで保存された蝶の標本は存在価値が無かった。「美しくなければならない」ハインリッヒはまざまざとその意味を理解する。何故なら、蝶と蛾は二度死ぬのだ。標本のための死、それからハインリッヒのエゴによる死、ハインリッヒは一度目の死を生かすことすら出来なかった。それが収集家であった彼の自尊心が削られる。

観念連合の集まりが寄生という形で精神に住み着いては、成長しても精神の中で切り離されて孤立する。ハインリッヒは蝶の収集は恐らくそれ以降することはなかったようだ。エーミールの標本を壊す前、家に勝手に入る前、エーミールに声かけなかったとすれば、少年の心には純粋に蝶を採集する姿があった。あの当時の情熱に純粋に返ることも抽出することも出来ない。一度壊したものは戻らない。蝶・蛾への情熱、ハインリッヒにとっては、本来なら愛される人格の一つだった。けれども愛される少年の人格は、エーミールの軽蔑によって罪深いものとなる。誰かの許しがないという状態は、失ったのは形だけではなかった。思い返される度に、自分の過去の醜態が表れる。しかし、人間は大人になるということはそういう積み重ねである。潰された蝶や蛾は、何処へ行ったのか。鱗粉の感触を残しながら、現象は羽ばたいて、一人の人間に語られる形無き存在、形而上学になった。

それこそ標本のように。

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哲学のテーマ 「本質」と「現象」

コンプレックスへの参照:ジャンマルタンシャルコー

なぜ世界は存在しないのか(1)

「世界」と一言で言っても多義的な意味がある。宇宙のようにだだっ広い感覚で構築されたものや、心ある生き物達が制約制限を受ける枠のことを言うこともある。哲学に至っては、社会的精神的事象も含める。それらが存在してないということはどういう意味なのか、それはこの本を読んでみることをお勧めするので教えないが、一通りまずポストモダンとは? カント、ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、キリスト教の簡単な歴史、自然主義をおさえてないと何が否定されているのか、何を例えに出されているのか、この人は何を再構築したいのか、意図が全く読めないかもしれない。特に重要なのはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の冒頭の「世界は事の総体であって物の総体ではない」という定義と、ハイデガーのいうすべての領域の領域としての世界は無限に存在する。つまり特権的な「世界」は存在しない、ということ、ヘーゲルがカントの何を否定したのか?ということ、この三点が特に重要となる。

実は私は著名人運だけはいいのかわからないが、友人がボン大学出身で彼のコンタクト先を教えてくれたし、いつでも連絡していいようにしてくれた。(英語かドイツ語のみ) しかし彼に声を何んてかけられるのかすら分からない状況である。世界のベストセラーであるがベストセラーの中でまともなのは珍しい。

(2)以降の更新は熟読後ということになるのでだいぶ先になると思います。

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

酒井俊弘司教様

去年、出版しました書籍の書評が届きました。今回の紹介はカトリックのオプス・デイ属人区司祭、酒井俊弘様です。酒井様は、俳句で新聞にも載られたことがある方です。私の作品は今回は「世界は鳥の巣」という詩学を選びましたので、鳥が身近なもので巣を作るためのパーツを集めるかのように、詩情、哲学、宗教と集まっていきます。
 
酒井様は、仲の良いYシスターの紹介で知り合いましたが、偶然にも以前、ご一緒した映画監督の松本准平さん(まだ、人間。最後の命。パーフェクトレボリューション)
とも知り合いだそうで驚いています。
 
他の方の書評は既にホームページにも出していますが、また改めて後日紹介したいと思います。
 
今後ともよろしくお願いします。
掲載は全て酒井神父様より許可を頂いております。
 
ChrisKyogetu 
 
 
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ICON O GRAPH〔イコノグラフ〕ChrisKyogetu
 様式や内容によって分類されたものをジャンルという。世の中のすべてのものは、ジャンルによって区分され得るわけだが、ジャンルが先にあるのではなく、個々の方が先に存在する。それゆえ、個々のバラエティーがジャンルにぴったりとマッチするわけではない。例えば、私はカトリックの神父だが、プロフィールを記入する際にはいつも職業欄で悩んでしまう。「カトリック司祭」はもちろん「聖職者」というジャンルが設定されていることはまずないので、「自営業」か「その他」をチェックすることになる。
 
 
ChrisKyogetuの小説ICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕を既存のジャンルに当てはめるとすれば、西暦2020年前後を舞台にしているという点から「近未来SFファンタジー」となるのだろうか。今年のノーベル文学賞受賞カズオ・イシグロを想起させるような、次から次へと場面が入れ替わっていく中に人々の心情が展開されていくスタイルからは「印象派近代文学」とも呼べるだろうし、作品全体に散りばめられているキリスト教的要素からは「キリスト教新文学」と呼べるかもしれない。言い換えれば、既存のジャンルには収まり切らないユニークな文学作品だということである。
 倉島真希の死から始まり、同級生の主人公、川村光音(コウネ)を中心に、羽根洸希(コウキ)、教師の筒井舞衣を軸に、天文時計をシンボルに持つ学校を舞台に物語は進んでいく。登場人物たちの心のひだを繊細な文章で綴りながら、単なる時計ではない天文時計や、フギン(思考)とムニン(記憶)と名付けられた二羽の機械仕掛けのワタリガラスなど、不思議な品々が物語の色彩を深めていく。
全体を貫くテーマは、男女の愛だとも言えるし、一人ひとりの救いだとも言えるだろうが、文学的な評価はその道の専門家に委ねるとして、神父という立場から評するとすれば、著者があらすじで引用する聖書の一節がキーになる。

 「マタイの福音書13章、神の御言葉である種が育つための土地の条件の問いかけ、植物の『生長』への詩情、その生長を摘み取り、物語世界は鳥のように巣を作っていく。」(巻末の「あらすじ」より)
マタイの13章1節から始まる「種まきのたとえ」では、道端や石地や茨の中に落ちた種が実らなかったのに対して、良い土地に落ちた種は成長し、30倍、60倍、100倍となる。イエス・キリスト自身が、その種とは「御国の言葉」であると説明している。
 

 ICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕における「種」は何なのだろうか。死んでいった真希の残したものか、川村光音と羽根洸希と筒井舞衣との間を通い合う心なのか、あるいは天文時計やワタリガラスが暗示するものなのか。それを見つけて、自分の心の中で実るまで育てていくことこそが、読者に求められているのかもしれない。
 
 
キリスト教文学と呼ばれるジャンルの著者たち、たとえば三浦綾子や曽野綾子、遠藤周作や加賀乙彦といった作家が描く作品の中のキリストは、彼らが捉えるそれぞれのキリストの顔が見え隠れする。ChrisKyogetuの描くキリスト像、あるいはキリスト教の姿はどんなものであろうかと言うと、このICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕では、まだまだそれは明晰でない。言わば、いまだ顔のないキリストである。まとまった作品としての処女作であるICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕には、著者が表現したい多くのものがあふれているが、それゆえに、言わば万華鏡のような作品となった感は否めない。けれどもそれこそが、これから著者が紡いでいく作品において、その奥深く豊かな内面世界がさらに研ぎ澄まされて読者の前に展開されることを期待させてくれる所以である。
 
 
2017年11月26日
 酒井俊弘
●あと、何か印象に残った箇所はありますかという問いについての
 酒井神父様からの返信の一部です。
 
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作品の中で一番心に残った箇所…難しい質問です(笑)。書評にも書きました通り、万華鏡のような作品ですから、そのかけらを一つというのは、難しいです。あえて一か所なら、84ページの最後の3行、ことに最後の一文です。
『そうなるとこの部屋は帰る必要がない抜け殻のようになった。』
私は少し俳句をたしなみますので、簡潔平明な言葉遣いを通してどれだけ詩情が伝えられるか、に興味があります。羽根の作った靴だけをもって飛び出した舞衣の覚悟と真実さ、たくさんのものが残された部屋の空虚感が、この短い表現で表されていると感じました。また、聖書の中のエリコの盲人の振舞い、「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た(マルコ10,50)」という場面も思い出したこともあります。
 
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 酒井俊弘 オプス・デイ属人区司祭
(書籍案内)内容はどちらとも変わりません。
窗体顶端
 

私人

「私人」
「もしも芸術が何かを教えてくれるとすればそれはまさに、人間存在の私的性格でしょう。(略)人間を社会的動物から個人へと変身させるのです」
「多くのものは他人と分かち合うことができます。しかし、詩を他人と分かち合うことはできません。芸術全般、特に文学、そしてとりわけ詩は人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間と直接の関係を結びます」
(私人ーーヨシフ・ブロツキー)
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最近、良いなと思った数行の文がロシア関連だったりする。この前のシャネル5番の調香師の話もたった数行で面白いと思ったら、ロシアだった。(調香師の話はfacebookのみ投稿)

ヨシフ・ブロツキーは1987年ノーベル文学賞を受賞をしていて、「私人」は彼が授賞式で語った演説が収録されている。
文学者は彼のように後世の文学者が育つ道となる持論を残すべきだ。それは「私の自己紹介」「アフォリズム」だけではなく、文学論や詩学等、「何故 文学が生きるのか」という神髄となる持論を語ることだ。こういう人目に立つ人達が語らないと、抽象的世界はエヴィデンスとして残らず、文学は常に大衆の共同幻想に流される。その勢いはどの時代も強いのだから。
結局は芸能と変わらないような姿勢しか持たない作家は意味があるのかすら分からない。芸能は、人の羨望と共同幻想を集めるのが仕事。それを「夢を与える」ともいえるし、アフォリズムを沢山作っていく。
芸術家は夢を与えるだけではなく、墜落も絶望も与えることもある。抽象的や、意味不明も作り上げるし、導きとは限らない。倫理や、宗派を飛び越えたとしても、これが私の「審美眼」だと言えることが重要であり、それで世の常識を新しく増やすことになる。
芸能と似ているけど、決定的な違いは
人のイメージや商品イメージのために生きずに、審美眼に生きることだ。人のイメージ(共同幻想) の先を行くのが芸術家。芸能でも芸術家の域に入っている人はいる。だから時々混合しやすいが、基本はこのように分かれている。
*****
例えば、「勉強なんて意味があるの?」と問われれば、
「学校(テスト)が嫌い」なのか「学ぶのが嫌い」なのかどちらかを知ることが重要だったりする。
日本の場合は義務教育までは受けなければならないが、それ以降は本来は受けなくても良い。学校に行かずにやれるような目標があるのなら別だが、大体が目標は特にないとか、学校に行かなければならない選択肢が多い。
学ぶのが好きだという子でも、大まかに二種類いる。
大学受験や資格試験等、ある目標地点まで勉強すれば良いというタイプと、
ずっと生涯を通して学んでいたいというタイプである。
文学は後者のために生きる。前者は時々重なるぐらいで考えていれば良い。
そして生涯を通して学ぶことに、階級はあってはならないし、迎合もあってはならない。詩の全般を指すことは出来ないが、「私人」と呼ばれる詩のように他人と分かち合えないものも必要なのである。
分からないということは偏差値が低いとか成績が悪いことではない。「知らない」だけであって知ればいい。何かしら権利を得ようとしたり、それで稼ごうとするのなら「才能」が必要になるというだけのことで、学ぶことには才能はいらない。基本は熱意があれば良い。
そういう人達を学ばせてこそ、感動を与えることであり、夢を与えたり、「才能を開花させたり」することが出来ると言える。
自分が知らない土地、死んだ後の見えないところで、こういったことで人の心に貢献出来ることが、文学者が出来る解放なのではないかとすら思う。

諸行無常

画像元:Wikipedia
「諸行無常」
金閣寺放火事件(1950年)
三島由紀夫「金閣寺」と水上勉の「五番町夕霧楼」がこれをモチーフとして小説となっている。
犯人、林承賢と接触があったのは水上のほうらしいが有名なのは三島のほうである。
●自身の障がいと生い立ちに対して光輝く金閣寺に怒りを感じて燃やしたというのが三島。
●仏教(臨済宗相国寺派)として堕落した鹿苑寺(金閣寺)に相反して輝く金閣寺に怒りを感じて燃やしたというのが水上。
事実は両方だったりする。 障がいが故に、鹿苑寺では苛められ、ヒエラルキー構造から出世が見込めないことに絶望して燃やしたという。
今まであんまり金閣寺炎上っていうのに興味を持ったことがなかったけれども、確かにこの時代とタイミングで金閣寺を燃やすというのは、まさしく
「事実は小説よりも奇なり」であり、小説オリジナルだったら凄いなと思った。恐らく現代で同じ障がいがある人が似たような怒りで燃やしても話としてはもう面白くもないのかもしれないし、現代人を使って炎で怒りを表現というのも、単なる迷惑行為であり稚拙になりやすい。
吃音症の人が声をあげたように思われる金閣寺炎上は、現代人の私にとっては「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きなり」を意図的ではなくても表したように思えてしまう。
この時代とは違って、飢えも知らず裕福だからなのか、それとも別の貧しさを知っているからか。
祇園精舎とはインドにある寺院のことで、その鐘の音なんてものは日本には聞こえないが、この炎上は教えに沿ったように声となり、諸行無常となって響いている。
(私は平家物語とか、三島あたりは不案内ですけれどもね。犯罪を肯定しているわけじゃありません)

ポーの一族(萩尾望都)

●兄さん わたしたちは いつまでも 子どもでいられるの
だから いつまでも はるかな国の 花や小鳥の夢をみていていいのね
 
●あの子はどこ? 思い起こすだけで 幸せにはなれない。
 
● そら あなたは また笑う。 
ポーの一族・(はるかな国の花や小鳥の章)
エルゼリとエドガー

●「ポーの一族とは」

この作品が発表された1970年頃は「花の24年組」と言われる女性漫画達が、少女漫画というものに文学性や哲学、宗教観等を盛り込んだ。
ポーの一族とは、バンパネラであり(ヴァンパイア)、成長を止め、半永久的な命を約束されている一族のことである。彼等は長い時を超えて、時々愛する人間を仲間にする。エドガーとメリーベルは兄妹だが、ポーツネル男爵とシーラ夫婦は本当の両親ではない。そんな夫婦と一緒に家族を装い、時を超えて旅をする。19世紀、アランという美少年を気に入った兄妹は彼を仲間に入れようとするが、上手くいきそうにもなかった。
そんなある日、シーラは若いクリフォード医師に、この世のものでないと気づかれて殺されてしまう。それから立て続けに妹のメリーベルも殺される。

一方、アラン一家でも、母親がアランが嫌悪感を抱いている婚約者・マーゴットの父と親密な間柄であることを知る。婚約者の父親は急いで逃げるアランを追いかけ、マーゴットとの結婚について執念を見せるので、アランはただ彼を振り払うだけのつもりが、階段から落としてしまう。
「人殺し!」
「人殺し!」
とマーゴットが叫んだ。アランは自分の部屋に逃げるが、執事が扉をこじあけるのは時間の問題だった。そんな、追い込まれたアランのところに、エドガーが部屋の窓から声をかける。
「きみも おいでよ ひとりでは さびしすぎる」
すぐに、執事が父親の無事を伝えにアランの部屋の扉をこじ開けたが、既に、エドガーはアランを連れ去っていた。
まるで風に連れていかれたように。
アランはメリーベルを女性として恋をし愛していた。エドガーはメリーベルを兄として、そしてそれ以上に愛していた。二人の長い旅は過去の記憶の回想を交えて進む。それは読者を一族の謎、アランとエドガーの葛藤へと運ぶ。それに伴ってどんな時間へ行っても、思いを超えても、消えて二度と戻ってこないメリーベルの姿を濃くさせていく。
左 エドガー 右アラン
メリーベル

●はるかな国の花や小鳥

今回は、ポーの一族の中の「はるかな国の花や小鳥」という話を紹介する。
エルゼリは、一時だけ過ごしたハロルド・リーのことをずっと想っていたかった。彼が約束通りに迎えに来なかった上に、他の人と結婚したと知っても、彼のことを期待するわけでもなく、彼を愛したまま時間を過ごしていた。美しいエルゼリ、近所の少年達も彼女に憧れを抱いていた。そんなエルゼリのバラが咲く庭にエドガーが現れる。彼女は彼の美しい青い目を見て、「ユニコーン」と呼ぶ。ユニコーンは処女の乙女を愛する。エルゼリは大人なのにそのような女性だった。だからこそ、そんな伝説を思い出させるような始まりだった。エドガーは時を超えて、神話のように現れては彼女に興味を持ってしまい、ハロルド・リーを見に行ってしまう。彼は他の人と結婚をしただけではなく、エルゼリそのものを忘れていた。ショックを受けたエドガーは彼の元をすぐ離れる。それから数日後、ハロルド・リーの中で何かが引っかかったのか、エドガーに似た少年を見つけ、彼を追って事故死してしまう。
  エルゼリとハロルド・リーと一緒にいた思い出は事実だったが、時が経つにつれ、彼と交れないことによってその思い出が夢想であり、幻のようになる。彼女はそんな幻を抱きながら内面世界の中で暮らしていた。
彼女はただ微笑んで、外界世界が自分の内面世界を傷つけないように彼女は駒を進めなかった。それがエドガーという少年の影響で駒が大きく動き出してしまい、守りでずっと動かなかった彼女は、手首を切ってしまう。
 幸い、エドガーの発見のお陰で一命を取り留めたが、エドガーとアランが旅立った三年後、エルゼリは病死する。

●あの子はどこ? 思い起こすだけで 幸せにはなれない。

 音楽には神童というものがいるが、文学はある程度の経験を積まないと完成しない何かがある。(これは漫画なので位置付けは難しいが文学と言っても良いだろう)
「思い起こすだけで 幸せにはなれない」少年エドガーのこの台詞、突然失った妹のメリーベルのことを言っているが、この言葉自体は若くても思いつくことかもしれない。
それでも、この頼りない言葉に重みが出て深みが出るのには経験を積まなければならない。
ヴァンパイアの存在を大体物語りにするとしたら、彼等は人の時間の流れの摂理から括弧に入れられたようになる。他が老いていくのに対して自分だけが成長を止めて、知らなくても良かった時間を知っていく。彼等は肉体の成長が止まるけれども、人間世界と共存し心は持ち続ける。その影響で、その年齢にはふさわしくない目になっていくが、肉体が故に、心を操る精神はある程度止まってしまうようだ。

それは周囲が彼等の肉体で判断し、子どもとしてしか扱わないせいなのかもしれない。その年齢に応じたように、その人の立場に合わせて人の声や世界は本人に届いていく。
 長い時を経て文明の変化を目にしても、幼い自分に向けた視線は永遠に変わらない。思い返せば、大体自分に対する人の見方というのは年齢の成長と立場によって変わっていく。これは世界の一部は自分に合わせて動くということでもある。1世紀を超えても彼等にとって自分にむける世界の声はあまり変わらなかった。ポーの一族と呼ばれる大人達は一族の血を絶やさないために人間を仲間に入れていたようだが、エドガーやアランは違った。夫婦のように長らく愛せるもの、親友のように信用出来るもの、長く愛することによって精神を成長させたかったのかもしれない。しかし、その年齢に応じたような結末ばかりを迎えてしまう。(リデルは除く)メリーベルは既に幻姿同様、「思い起こすだけでは 幸せになれない」と、もう自分達の成長には携わってくれない。
それを「孤独」とあらわすのか「自由」と表すのか、エドガーとアランは孤独―深い影自由―変わらない美貌の両面を露にして読者に見せる。彼等は感情は喜びや悲しみ、怒りは隠さない。
エドガーは、自分と似たような内面形成をしてしまっているエリゼリに惹かれた。

メリーベルを彷彿とさせるエリゼリに惹かれた。

不思議なことに、彼女の周りの人間も彼女を傷つけないようにと派手な動きを見せない。誰もが強引なことをしないのだ。周囲の彼女への態度は常に一定、彼女に気があるヒルス先生も奥手なだけなのか、彼女に踏み込めない。完全なる配置、彼女は人間の力でそれを成し遂げていた。彼女がエドガー達と違うのは「悲しみ」や「孤独」を見せないところだった。
エドガーは自分と同じように彼女の心の奥に「孤独」があるのかどうか知りたかっただろうし、彼女は他の人にも愛されていて、幸せはすぐそばにあるのに、何でこの人は目覚めないのだろう、孤独を教えてやりたいと衝動が出たのだろう。
それは長い時を経た大人の男性の愛とは違う、幼い衝動に過ぎなかった。エドガーもまた成長を止められてしまっているからだ。

その幼い衝動が、彼女の夢想の相手である男の死へと運命を動かしてしまう。

人を愛することは喜びだけではいられない、それを一番分かっているのはエルゼリだったのかもしれない。
分かっているからこそ捨てた悲しみは、常に微笑むことを忘れない。けれども、微笑み続ける理由をなくしてしまった途端に、世界が終わったと終止符を打とうとした。
エドガーはアランを連れて、エルゼリから離れるときに泣いた。

エドガーというユニコーンは、エルゼリが大人だと知って離れたようだ。

時が動いてしまったということ、彼女が捨てた悲しみの代理人のように。

●感応

この話を初めて読んだのは5歳の頃だった。「好きなお話は人生にうつるから、読むのなら明るい話にしなさい」と母によく言われたけれども、この本を渡したのは母だった。この本は5歳からの付き合いとなる。

「兄さん、わたしたちは いつまでも 子どもでいられるのだから いつまでも はるかな国の 花や小鳥の夢をみていていいのね」

メリーベルのこの子どもらしい言葉、
大人は、子どもはこういう夢を見ていて、大人はこういうことを考えなくなるとよく言った。けれども、子どもの頃の私にとってはこんな夢想は初めからは無かったような気がする。鳥や、花は目の前にある現象に過ぎなかった。誰かが花が綺麗だと言って、誰かが小鳥は自由だと語った。 何が美しいのか、何が心地よいのか、自分に向けた声、自分に向けられたわけでもない情報、それが私の知らない間に形成されて私の心の一部となって、私の心として動いていく。

これを『感応』と言うのか――感応とは、事に触れて心が感じ動くことであり、人々の信心に神仏がこたえることと、感受性と神仏との両方の意味を持っていて日本人の私にとっては説明しやすい。私にとってもこれは両方の意味があると思いたい。 感応とは知らないことでも心が動かされる。
  意味は分からなくても美しいと分かる話、読めば読むほど、外の世界が違って見える話、自分の眼がより光を好み、影を軽視出来なくなり、盲点へと近づきたくなる。
そういう作品の一つがこの「ポーの一族」だった。 私にとって、この作品はバンパネラのように子どものままでいたいと思わせるのではなかった。
幻姿に見せかけた美の完成形は大人にならないと書けない。
これは私に、大人になるということの期待を与えた。
こんな大人は何処にいるのだろうと思った。心の何処かで私もそうなりたいと思ったのかもしれない。 やがて、大人になると幻姿は捨て切れなかった幼心のように変化していた。
とても好きな話。 幼い頃、意味が分からなかった話が説明出来るようになる。漫画は句読点があまり無いので引用するとき少し違和感があったけど、それでも好きだと書いたのは初めてかもしれない。
ポーの一族・萩尾望都 小学館文庫
   サムネイルデザイン・編集:ChrisKyogetu
 
その他、引用や単行本に収録されている画像の著作権は著者及び、小学館文庫に帰属します。批評集未収録作品 

銀河鉄道の夜

主人公ジョバンニは家が貧しくて孤独を感じていました。同乗していた同級生カンパネルラは裕福でしたが、作品の終盤で実は川に流されて見つからないということをジョバンニは知ります。カムパネルラは恐らく死んでしまったのだということになりますが、その死は読者に最後まで謎を残します。
それでもジョバンニは生きる意味を見出して家に帰ります。 この列車の旅は幸福を探す旅であり、生と死に特等席のような違いがありません。違うのは切符です。
この作品の著者・宮沢賢治は何度もこの作品は書き直していますし、出版される前に死んでしまいます。身体が弱く、仕事が上手くいかなかった彼は、自分自身への問いと同時に、人々に寓意や幸せを与える童話作家として「本当の幸せとは何か」ということを模索したのではないのでしょうか。
残された遺族や団体が更に推敲を重ねましたが、初稿が出版されたり、後になって賢治が訂正した(博士が居ないバージョン)版が出たりとしてるので、銀河鉄道の夜は、どの版のを読んだのかによって、話も印象がそれぞれ違ったりしてるようです。
私はこの話は、呼びかけのようなアナウンスの後に、気がついたら列車の中に居たというような目覚めの感覚が好きです。目を見開いたら窓の外に宇宙が広がってるというのは素敵ですね。
天の河、ケンタウルスの祭り、銀河ステーション、カムパネルラが持っていた黒曜石の黒板、白鳥区の北十字、南十字、蠍の火、 カムパネルラはいつ自分は死んだと気付いたのか、カムパネルラにとっては死の目覚めはいつだったのか、私は職業柄のせいかそんなことを考えるようになりました。
ずっとこの話の視点はジョバンニでしたが、カムパネルラはジョバンニが列車の中で目覚める前から目覚めているのか、ジョバンニの意識の目覚めと共に彼等は現れたのか、どちらなのか、そういうことが過ぎります。


カムパネルラはジョバンニとずっと一緒にいると約束をしたけれども、カムパネルラは石炭袋のところで消えてしまいます。私はそれでも約束が破られたとは思っていません。二人はきっとこの銀河の中で魂の繋がりを約束したということになるのです。
死者と生者が限りなく平等に近い星々の旅で。
「本当の幸せ」と「天国」は、生きている人にとっては似てるのかもしれません。追えば何処までも果てしなく続いていて、降りる駅を決めればとりあえず、そこに少しとどまるのではないのでしょうか。
あと、私は宮沢賢治が、人生の道しるべである老賢者(ユング)のようなブルカニロ博士を途中で消した理由を考えていました。
恐らく、賢者を失うことで生者だけが特別なことを知るわけでもなく、死者だけが特別なものが見れるわけでもなく、ジョバンニとカムパネルラは離れた後も、同じように彷徨いながらまだ旅の途中だ・・・・・・ということにしたかったのだと思います。
(この感想は、 今流通している版を基準に書いています)
                       

                       
切羽詰っているかと思えば、空き時間があると急に銀河鉄道に乗って見たいなと思うようになって、確か主人公のジョバンニは緑の切符を持っていたなぁなんて、作ってみた。宮沢賢治の銀河鉄道の夜は手元にはなかったけど、なんだかインターネットに頼りたくなくて記憶頼りに作ってみた。
後から確認してみたら、緑というのは正解だったけどハガキサイズで、唐草模様が一面にあって十字があるらしい。十字架があったような気もしたけど、賢治は日蓮宗だもんな、気のせいかなとかで書かなかった。(正確には十おかしなばかりの文字・十字架ではない)
駅(行き先)まで覚えてたのに(涙)「突っ込みどころ満載」みたいな出来になってしまったけど、話によると人それぞれ切符のタイプが違うみたいだし、これは私の銀河鉄道切符ということで。
まぁ今回は触りということで。今度また余裕があったら作ろうかな。
・最後に余談・
宮沢賢治の銀河鉄道は生者のジョバンニと、死者のカムパネルラが共に銀河の中を列車で旅をする。初稿にしかいない「ブルカニロ博士」によると、この切符はずっと持っていなければならないし、それぞれの神様の話を聞いて、議論もするし共感して涙も流すだろうというのがあった。
賢治の希望は、博士がいないバージョンのようだ。
私が子どもの頃読んだやつは、ブルカニロ博士がいるやつで友人が読んでるやつは居なかったので話に食い違いがあった。現代でも流通しているのは、この博士がいないバージョンがほとんど。
銀河鉄道の夜、鉄は旧字を使ってます。
短冊をイメージして作りました。🎋
この記事はFBで二回にわたって投稿したものを、まとめています。

info










Nous nous aimons en raison du plus ou du moins de ciel que contiennent nos âmes. 

Mais ne sois pas injuste,


私達は自分達の魂の中に天国をどれだけ含んでいるかによって、それに応じて愛するのです。
けれども、不公平であってはなりません。


 Honoré de Balzac――Séraphîta

前回の出版作だったイコノグラフで書いたサロメの脚本の出来が良かったらしくて(一部掲載)セラフィタは頼まれた。ただ、バルザック自身も当時、既に有名だったのにも関わらず、何処の出版社も受け入れなかった。それでも彼はこれこそ最高傑作だと自費出版をする。そして現代でもこの作品はマニア層扱いで、彼の出身地のフランスでもあまり知られていない。
意地でも出版したいと思ったのは、愛する公爵夫人への気持ちもあったのだとは思うが、公爵夫人の夫は亡くなり、彼等は再婚する。
セラフィタは中盤まではスウェーデンボリと基本的な聖書解釈を取り入れ、登場人物はプロテスタント系列の牧師だが、後半はカトリック、もしくは「普遍」になっている。著者自身も最終的にはカトリックの墓、著名人達が多く眠るペール・ラシェーズ墓地に入れてもらっている。
こういうのを「独自の宗教観」と評するけれども、私は独自の宗教観とはどんな宗教に属していても逃れられない性なのかもしれないと思う。勿論、わたくしもである。
脚本は、フランス語原作、英語版を参考に訳し、7割ぐらい脚色をする。理由は、日本語翻訳者も私なんかよりも優れているのですが、表現の意訳が多かったことと、スウェーデンボリの下りが特にバルザックの独自性が入っているために舞台を考えると、キリスト教以上に共通認識が無い上に情報量が多すぎて恐らく頭に入らないだろうという理由から、かなりの改変を入れなければならないのと、この出版が自費だったせいか、聖書の引用箇所や解釈にズレが訂正されてないままだ。(注釈入り)スウェーデンボリを支持している人たちも沢山いて、バルザックのセラフィタと言えば想像の秘儀のようなものがある。

私はこの虚構世界と人々が信じる神秘の事実とのバランスについては触れないが、
虚構世界の魅力は秘儀でもあることである。
それに対して敬意も忘れず謝辞を入れる予定でもある。


例えば日本語訳では「不公平」ではなく、「平等」にしなければなりませんとあった。
しかし、公平と平等となると意味が違う。キリスト教的に考えても、この場合は「公平」だろうと思った。神から与えられる賜物も、タラントのたとえであるように平等ではない。
天使(セラフィム)は、人間が平等に与えられてないものに対して、不公平にならないように補う使命があるのだろうと私は思う。(カトリックでも、天使はメッセンジャーとして役割がある。あまり信者同士で語ることも神父が話すこともないようだが、外国人信者や神父だったら天使の話を持ちかけたら、答えてくれることがある)

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/12/angel.html

ただ、語感を考えると確かに「びょうどう」と言ったほうが綺麗だったので捨てがたいとも迷った。

今後の予定(公開出来る範囲)
クラウドファンディングについて。
セラフィタの脚本化について
次回作(小説)について。
残り二件は契約の問題上、現段階では非公開。

桜桃







・子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。

・私は疲労によろめき、お金のこと、道徳のこと、自殺のことを考える。

・私は悲しいときに、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。

・人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけの読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。

・しかし、父は大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べて種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事。
桜桃―太宰治。(1948年5月)


****

◎はじめに

われ、山にむかいて、目を挙ぐ。(文語訳)

(目を挙げて、私は山々を仰ぐ・新共同語訳)
詩篇、第121

 旧約聖書の詩篇の引用から始まる。この続きは「わが扶助(助け)はいずこよりきたるや」と続く。(文語訳)意味は、「わたしは山に向かって目をあげる、わが助けは、どこから来るであろうか」(角川春樹事務所文庫より)
「子供より親が大事、と思いたい」と始まることによって、何て薄情な親なんだと思うか、共感を生むのか、もっと他の意味があると読むのか、様々な読者の「立場」をひきつける。桜桃は短い作品で、この中の父親の名前が著者である「太宰」となっていること、長男の障がいのあること等の一致、妻子を置いて、愛人と心中事件を起こす約一月前に書かれた『桜桃』は私小説扱いでもある。この父親である「私」(太宰)は人を楽しませることや、人の期待に応えようと自分を追い込んでいく。死にたいと思うこと、長男の障がいについて父親は一緒に死にたいと思うことがあると独白で語る。そして贅沢なものでもある桜桃(サクランボ)を子どもに与えず、自分だけがまずそうに食べては種を吐く。

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◎感想

 日本語では「うそつき」を「嘘吐き」(ウソハキ)と書くことがある。この最後の桜桃(サクランボ)を食べては種を吐き、食べては種を吐きというのは、嘘吐きのことをあらわしてるのだと思った。私は(わたくしは)まずそうに演じたということは嘘をついたと同等だとし、 嘘とは種に纏わりついた彼の唾液のことだとする。そうなると、何かを実ろうとする小さな種が彼の口から落とされるイメージがすぐにできる。「嘘とは唾液」とは、「吐いた唾は飲めぬ」と、一度口から出した言葉は取り消すことができないということと、私はキリスト教徒なので、植物の種にはなるべくならプラスの意味を持たせるので、意味を分離させた。サクランボの花言葉は「善良な教育」。それを子どもには与えず父親だけがまずそうに食べて種を吐く。植物の種というものは本来は可能性を秘めているが、恐らくこの種は沈黙のまま捨てられるのだろう。
それら全て含めて親の弱さであり、性(サガ)であり、子を想うからこそ、弱いと認識してしまう葛藤を静かに表している。私は子どもがいないのでまだ確かなことは分からないけれども、親になると自身が弱いと感じることは屈辱なんだそうで、そういう弱さを告白することはとても勇気がいることなんだと聞いたことがある。今は親にも余裕を与えてやろうという考えが広がってるので実際はどうなのか分からないが、誰でも子がいると自分の未熟さを感じることはあるというのは、いつの時代も変わらないとは思う。
 他にも太宰は文学を書こうとする者なら誰しもが悩む普遍的なことなんだろうと思う。 愛や死の同調で喜ぶ読者を見ると彼等に合わせてしまいそうになる。 特に死の価値観は厄介で、死や儚さの同調について、読者の文学への期待は思いのほか高い。もしかしたら生きることや愛の同調よりも期待が高いかもしれない。それは死の同調が「私だけじゃなかった」という安堵感を与えて、「生」に繋がることがあるからかもしれない。死への同調は、生きることも意味する。これは私の独断だが、そういったことを求めるのは女性が多いのかもしれない。
それは現代の私の周りでも変わらない。男性は愛や哲学的なことを主に理性を求めるけれども、女性は死(生)や、人知れず抱いている夢への感情の同調を私に求めることが多い。(それでも、あまりそれに応えすぎないようにはしている)
似たような人がいるという灯りになること、それが作家の弱さの告白の意味である。そしてフィクション作家であるのなら、何処か現実とは違う何かを見せなければならない。例えば、この前紹介したガルシア・マルケスのようなものが良い例だろう。海からバラの香りがするということ、人はこのようなもう一つの現実を期待する。
死や愛を丁寧に書くとすれば基本は一人身のほうが身軽なのかもしれない。 もしくは一人身ではなくても自分を押さえつけない少数の理解者で充分だったりする。作品を第一に考えてくれる理解者がいるのなら、それで良い。それは気楽かといえばそうでもない。一人身でも自由きままに生きることなんて出来ないが、子は犠牲にしていないというのが私の中で安心する一つである。
子育ても経験にとって重要なのかもしれない。
しかしながら、子が可愛いのなら、子を踏み台にしたような経験はしたくないというのがある。完璧な子育てでなくても子は育つけれども、初めから約束出来ないことを誓うことは出来ない。
未来については、神の計らいによるけれども、今の私はそうだ。
 太宰の「桜桃」は作家の葛藤も非常にシンプルに書かれてあるが、妻や子を持った故の葛藤だけで済ませると少し違うのかもしれない。子を持った場合でも持たない場合でも、同じぐらいの課題の重さはある。これは与えられたものに対して、何らかの理由で身軽に動けない人間の葛藤だと私は思う。
だから家庭が無い私にも心に響いたのだと思う。私も家庭が無いことに身軽で極楽トンボだとは感じたことがない。別にあったからといって拠り所になるという理想も今は無い。私は、誰かを泣かせるようなことや、裏切ることや、非道徳的な犠牲が目に見えないだけで、これが正しい生き方なんて自信がないのも私も同じである。これが「私」としか言えない。いえることは、今の自分を必要としてる人がいて、応えたいと思う人がいて、与えられたものは、自分にとって生きるための「かすがい」に違いはない。家庭と違うが、仕事においてはお互い犠牲を払いあって成り立つ関係であるので、感謝すら感じる。
それでも、子や才能(賜物)のように与えられたものによって、身動きが取れなくなるということは多々あり、葛藤があるのだ。
今の私は「桜桃」をそう読む。今回は太宰が残した遺書や太宰の人生とはあまり重ねず作品だけで纏めた。 ただ、太宰は妻以外の女性と心中するときに、子を想う文も残し、生活していけるように印税を残した。残された子について私は詳細不明だが、経歴だけなら立派に成長している。
 取り残された妻は、太宰の遺骨は家に入れなかったが作品が残るように活動をした。心中した相手の女性の家族は名誉回復のために長年に渡って活動した。今では彼に対しては賛否両論はあるけれども揺るがない知名度の高い文豪となった。人の吐いた一つの嘘なんて誰かの誠意で綺麗になっていくように、捨てられたはずの種がまるで育ったようだ。

Lord, have mercy.

*今回、太宰治の本を朗読する機会があったので二作続けて書くことにしました。
*長男の行く末に関しては表現が思いつかなかったので省略しました。
****
◎参考にした他の書籍の一部


「ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。神か富かどちらかを選べ」 (マタイによる福音書・6・24)


信仰は本来、人間の弱さや源として希求されてまいりましたが、その観点を忘れた「いい人間ぶること」がこの頃はやりすぎているように思います。人間は美点もあり醜点もあるのものです。 その相克に苦しむとき、悲しいことながら人間は誰でも多少神が見えやすくなるのでしょうか。

曽根綾子

聖人とは欠点のない完全な人間を言うのではなく、この愛とエネルギーに行き、生かされた人のことですね。
尻枝正行神父
別れの日まで―――作家・曽根綾子とバチカンの神父の往復書簡。



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L’amour est un signe de notre misère.

L’amour est un signe de notre misère. 
Dieu ne peut aimer que soi. Nous ne pouvons aimer qu’autre chose.
「愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。
わたしたちは、他のものをしか愛することができない」
  シモーヌ・ヴェイユ(重力と恩寵)-(愛の章) 


*命題+根拠1+根拠2、極めてシンプルな内容だが、はっきりと意味を説明出来る人は恐らくあまりいないだろう。前後の文脈無し、これが断章のまとめである「重力と恩寵」の一文である。フランス語でも同様、特に大きなヒントとなるようなものはなかった。ただ、他の節やヴェイユの愛の価値観、彼女の人生、イエスへの愛の価値観等を見れば薄っすら見えてくるのかもしれない。 
忘れてはならないのは、彼女は哲学者ということである。既に「問い」が始まっていると思って良い。但し、「神は、自分をしか愛せない」とは神への疑問・反発でもない。何故なら、このタイトル自体が「重力と恩寵」であり、重力とは引力(二つの物体の間に引き合う力のこと)のみが確認されていて、排斥(二つの物体が反発しあうこと)としての力は確認されていないのだ。彼女の中の価値観として神と人間、神と哲学の排斥は無いと考えて良い。彼女は洗礼は拒んだが、こういった繋がりは否定していないように思える。

日本語で考えたとしてもフランス語(notre)で考えたとしても、愛とは「私達の所有」であり、それは悲惨のしるしということになる。この場合の愛とはフランス語のamourこれに定冠詞がついているので、Qu’est-ce que c’est l’amour ? 「愛とは何か?」 と、愛が抽象的な意味を指すようになる。アガペーであり、エロースであり、フィリア、ストルゲー等、様々な愛を含み、着地点を好まないのかもしれない。これは肯定的な文だが、多くの疑問を残し、真か偽の性質を持つので命題だ。
神は、自分をしか愛することができないというのは文学的表現のようで、哲学的要素を含んでいる。意識の限界と言えば早いのか、確かに信仰とは目に見えるものだけではなく、目に見えないものを信じることも大事だとあるが、優先順位を変えられないのが哲学、ということもあるのかもしれない。アリストテレスのように馴染みがある世界に問いをかけるが、最終的に問いに対して目に見えるものにしなければならない。それは彼女が工場体験や、スペイン内戦での活動等、貧しさという現実を知っているからである。彼女はいかなる貧しさにでも、神の恩寵が届くかどうかを思惟していた。それでも、最後は聖書的な「私達は他のものをしか愛することができない」と根拠2でこの一文は閉じられる。 
意味が分からなくても印象に残り、貧しさを少しでも知っているのなら感じるところがある断章である。
*****
詩のようであり、哲学。哲学のようで詩、そして彼女の兄(アンドレ・ヴェイユ)のように数学者のようだ。これはフェルマーの最終定理のように単純な文なのに証明が難しい。現代となっては珍しくもない表現なのかもしれないが、証明は難しい。ヴェイユは私の最高の理想系だ。何年経っても変わらなくて、日毎に彼女に対して光が増している気がする。あんまり好き好き言い過ぎると、自分が無いみたいに思われそうで控えてるけど、やっぱり彼女が大好きだ。 私は少しおかしいのかなと思うのが、フェルマーの最終定理の番組を見ていて、ヴェイユ予想、ヴェイユ予想と連呼されると何か興奮する(笑)
このメモは突然閃いて、考えた時間が短いので後ほど推敲の余地があります。
*この一文の抜き出しと、命題と根拠1、根拠2という纏め方は私の哲学者でもある友人の考えから派生している。ただ、命題の説明やその後の考えは私のものです。
愛は、わたしたちの悲惨のしるしであるというのは、
「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、
蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです」
コリント1 15:43
という期待があるのだと思います。

重力と恩寵:カイエ抄 今度いつかまたカイエの話でも。


El mar del tiempo perdido

「バラの香りがしたろう」とトビーアスは続けた。
「グアカマヤルの水死体と同じ匂いだったよ」
「いい香がしたんなら、きっと海のじゃないわね」
「どうせ死ぬのなら身分のある人のように土の下で埋めてもらいたい」

García Márquez ガルシア・マルケス(1982年・ノーベル文学賞受賞)
El mar del tiempo perdido(失われた時の海)コロンビア出身・スペイン語。

紹介

手法はマジックレアリズム。それは現実では起こりえないことも現実というもの。
例えばこの話にある「海からバラの香りがする」という表現も、この物語では現実です。マルケス自身は祖国コロンビアではなく、ヨーロッパに移住して書いたそうです。
「失われた時の海」とは、固すぎる土のせいで、この土地は死体を土に埋めることが出来ないので海に流す習慣があります。
そんな土地の海が三月となると、薔薇の香りがし始めます。その香りについて人々は神のお告げだと言いますし、それは嘘だとも言います。そんな中で、しまうところもない大金に困っているという男、教会建設のためにお金の相談をしにくる司祭(神父)がやってきます。この何とも筋がつかみにくい流れが「現実」というわけです。
「日毎(ひごと)に波が穏やかになり、燐光を放ちはじめた。三月になると、夜はバラの芳香が漂ってくるようになった」とありますが、
 海の燐光とは、夜の月のことでしょう。
その証拠にこの燐光の影響で星を数えるのに苦労するとあります。

登場人物トビーアスは、蟹を殺せず、最後は蟹が静かになるまで寝付けなかった。蟹と月は強い繋がりがある。海外では月の模様は蟹だと言われてるし、星座でいうと蟹座の守護星は月だからだ。月とは太陽の熱や光の影響を受けて存在する、ということは月は自分では熱や光を放てないということでもある。その影響かこの世界の人は自分で熱や光を放とうとはせずに、「死に場所」を探すような話を繰り返す・・・・・・
「この海から遠く離れたところで死にたい、ずっとそう思いつづけてきたんです。ここでバラの香りがするなんて、きっと神様のお告げに違いありませんわ」と、それこそ月の引力のように。
けれどもこの土地は月という形は無いのかもしれない。 月のような淡い光がある海ということだろう。引力だけがある土地、海から離れようとする人達、失われた時の海から離れようとすることは、時を手に入れようとしているのかもしれないが、何も本当のところは分からない。それこそマジックレアリズムの醍醐味かもしれない。
よく登場するバラの香り。
著者の祖国のような赤道が通過する国は 日射量が多い場所で、その土地でのバラは色鮮やかな大輪が育つのだそうだ。色鮮やかなバラの芳香について話しを巡らせては、神父は40センチ程、宙に浮き、この土地に教会を建てようとしたが、お金を集められなかったので諦めてこの土地から離れる。
明瞭とは程遠い淡い話、押し寄せては引いて行く薔薇の芳香が、空想的な死体の印象を残す。
この土地の死生観は「人は死ぬべき時ではなく、そう願った時に死ぬものだと聞いていたので」 というようなもので、
やはりこちらは、私達の現実とは違う 「現実」小説世界は現実世界の関心を、様々な手法や視点によって表現する。例えば「死」「貧しさ」という対象を書くということ、
ガルシアマルケスの死や貧しさは呼吸が軽く感じた。深みはあるが語るほうの呼吸は軽い。特に太宰治の後は 呼吸が軽い。(勝手に私が重くしただけなのか分からないのですが)反動のせいか、ガルシア・マルケスが以前より整理しやすかった。勿論、マジックレアリズムは南米の情勢無しでは語れないようなのですけど、何らかしら置き換えたということは半分以上は想定と想像に委ねていると思う。
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駆け込み訴へ(太宰治)








銀貨30枚を落とすユダ





イエス:「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」

ユダ:いいえ、私は天の父にわかって戴(いただか)かなくても、また世間の者に知らされてなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになって下さったら、それでもう、よいのです。

イエス: 禍害(ワザワイ)なるかな、僞善なる學者(ガクシャ)、パリサイ(ファリサイ)人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど内は貪慾と放縱(ほうじゅう) とにて滿つる(みつる)なり。(マタイの福音書23章25節)

ユダ:「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、
いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。いただきましょう。


私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ(略)
はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」


駆け込み訴へ(訴え)( 1940年 )―――太宰治 
(誰の台詞か分かるように人物名を入れました)


はじめに


「駆け込み訴へ」はイエスという名前は一度も出てこない。全編を要約すると、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴なのです」誰か分からない語り手から話は始まります。ペトロやヤコブへの悪口、文語訳の聖書の引用によって、読者は次第にこの語り手がユダではないか、あの人とはイエスではないかと思うようになります。そうして、有名な銀貨30枚を受け取るシーンとなる最後に語り手が「私の名は・・・・・・イスカリオテのユダ」だと名乗ることによって彼が愛して憎んだ「あの人」とはイエスだと確定する。
この作品は太宰の口述を妻が書き取ったものである。妻の証言によると太宰はこれを語る際、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言いなおしもなかったという。(推敲の末)妻はこのことについて、「畏れを感じた」そうだ。
それはまるで ユダに成りすましたと言えるのかもしれない。

聖書の脚色


 私は自分の出版作では、オスカーワイルドの「サロメ」を扱った。これも聖書、新約聖書の戯曲化、脚色であるが、オスカーワイルドは脚色しても良い場所を上手く選んだ。サロメとはマタイの福音書14章で、洗礼者ヨハネを監禁していたヘロデ王が、彼を殺そうと思っていたが世が支持していたため、ヘロデ王はヨハネを殺せなかった。ヘロデ王の誕生日に、ヘロディアの娘が皆の前で踊り、母親にそそのかされ、洗礼者ヨハネの首を盆に載せてくださいと言った。ヘロデはヨハネの首をはねるように指示をし、ヨハネの弟子達が遺体を引き取った後、イエスのところへと報告をした。このシーンをオスカーワイルドが、ヘロディアの娘を「サロメ」とし、洗礼者ヨハネを見つめる視線を恋のように準え、サロメに焦点を当てた。これは単に、「首が欲しくなるほど人に恋をした」と言わせるような話ではない。そんな感想は「思春期」で終わりにして欲しい。
 ヨハネの死の後のマタイの福音書15章、イエスはこれを聞くと、船に乗ってそこを去り、ひとり人里離れたところへと退かれた。私の作品ではこれをイエスの哀しみであり、サロメはイエスの哀しみを作ったのだと登場人物、川村光音の考えとして語らせた。 サロメの素晴らしさは、サロメをいくら語ったところで特に聖書解釈に大きな影響を与えないところだ。 それに加え、手に入れてはならない神秘に人が近づこうとするとどうなるのかというのを痛々しいほど語っている。サロメの影響でマタイの福音書14章から15章をまたぐ際に、私には文字と文字の隙間、虚空とも言える空白にヨハネの死が響いているように見えた。私はオスカーワイルドに脱帽した。オスカーワイルドは自身の癖や痕跡はサロメの台詞に残しつつ、自分自身の声を消すことに成功している。
 それと比べてみると、太宰のユダはサロメのような戯曲(演劇)ではなく「落語」のようなものなのかもしれない。落語は語り手は一人であり、登場人物への感情移入も6、7割程度で、話り手を重視する。そして大体の落語は有名な「饅頭怖い」のように、人間の内面を深く書くことはあまりない。落語の掟であるのなら、この作中のユダの心の内はいくら語れども深みなんか無いという結論になる。後戻りが出来ないような罪を犯した場合、世の声とはそうなるので、調子者、落語調にしたことは秀逸だと思う。
例えばこんな語りがある「ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集まり、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたのなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ」 これを朗読するとするのなら、落語のように少し軽快な喋り方が良い。演劇のように全身で捻くれたユダになりきってしまうと誇張しすぎてしまう。落語まで笑いを取るところまでいかなくても軽快さ、少々そのような調子が必要だと思う。
 確かに、ユダはイエスに期待していたが、イエスはユダが思ったような行動をしなかったのでユダは失望した。そういった心情は聖書からも読み取れるが、太宰のように「馬鹿な奴らだ」と、ここまで語られると、ユダの真の内面を言い当てたと言い難い。やはりこれは「太宰」(語り手)の声なのである。この調子者のような語りが余計に人間の不安定さ、哀れさが表れる。 この「駆け込み訴へ」のユダは太宰治の声であるからこそ、人間各々の不安定さが反映される。そうなると、実はユダらしくなるのでは? と、妙な言い方になってしまうが、今の自分には納得出来るものがある。

太宰とキリスト教



 太宰治も麻薬中毒者でフラつきながら、当時はまだ希少だった「聖書知識」のバックナンバーを借りたいと悲鳴のようなハガキを送ったりしていた。(桜桃とキリスト・長谷部出雄から参照)彼は他の宗教よりもキリスト教のほうに入れ込んでいるところがあった。洗礼は受けていないが、自分は父である主から見られていて、自分の罪は記録されているという意識があった。若い頃からカルモチン(睡眠薬)で自殺を試みる彼は、求めていたのは救済というより、戒律と己を比較して己の心の汚穢(おえ)を見つめていた。
オスカーワイルド「サロメ」との類似点は、人間の不安定な感情によってイエスの光が浮き出るということ、若しくは逆にイエスの光によって闇が濃くなるということだ。太宰のこの話は、ユダが口語体となって、卑しく書かれていることによって、イエスの文語の言葉が輝いて見えるようになっている。
ユダが「あの人」とイエスへとおくる視線は、ユダの心の内が混沌とすればするほどイエスが穏やかに見える。太宰は引用する聖書、マタイの福音書23章を敢えて古い文語訳にし、「禍害(わざわい)なるかな 偽善なる学者、パリサイ人よ」 と、文語ならではの淀みの無いリズミカルな魅力を引き出している。
 作品だけではなく、私生活と並べられて見られることは小説家として名誉なことか不名誉なことか、失礼になってしまいそうだが、この作品はまだ太宰治と妻との共同作業だったことで私は注目した。後に愛人となる太田静子や山崎富栄と出会う前の作品であり、そういった嵐の前の静けさのような作品だったということが私の中では魅力だと思う。夫婦愛に価値を重んじて言っているのではなく、何故、彼がユダを選び取ったのか、彼自身が自分の先を察知しているような魂の予感のように思える。妻はどの程度、夫のことを分かっていたのかは分からないが、それぞれの不安定な魂が人間郡となっている最中、この作品の影響で彼等の人生は文語訳の聖書が一本筋となって流れているように思えた。 

深みが無い哀しみ


  女から見た太宰と、男性から見た太宰、そして太宰と共に情死した富栄の父親から見た太宰、それぞれの証言が残ってしまっているからこそ、彼の発言の中に筋がなく、まるで実体がないように思われる。愛人、静子の子どもに太宰は、本名「津島 修治」の冶(はる)の名前を与えた。その命名と文(フミ)には誠意と謝罪が込められている。山崎富栄はそれに腹を立て収拾がつかなくなってしまったものだから、太宰は、「静子は所詮は「斜陽」(作品名)だけの女で、本当に愛しているのはお前でお前には「修」の名前を残す」と言った。修とは偶然にも、富栄の死んだ夫の「修一」と名前が重なっていた。
二人で死んだ後に、太宰は妻宛てには妻を一番愛していたと遺書を残してある。残された富栄の父親は、太宰とはどんな男だったのかと彼の書いた本を見たら、自殺、心中、薬、女、それだけの話しか書かない男に見え、愕然とした。太宰とはどんな男だったのか、証言が多ければ多いほど実体が分からなくなっている。
ユダは聖書では最後に後悔しお金を返しに行くが受け取ってもらえず自殺を図る。ユダが受け取った銀30枚とは奴隷を買う賃金と一緒だった。
「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、 いただきましょう」
・・・・・・ 「いいえ、ごめんなさい。 いただきましょう」
 
太宰の中のユダはこんな人だった。
 イエスを愛していたユダ、愛するが故に、独占したいが故に、どうせ彼が死ぬ運命なのなら自分がやってしまいたい思う。些細なことでいいのに、あの人は認めてくれない。だったら、売ってしまえ。いいや、私は商人だ。愛? そんな事考えちゃいない。ただ金が欲しかった。
いえ、愛していました。お金を返します、うけっとってもらえませんか、 じゃぁ死にます。 あの人を愛していたのに売ってしまった。 
やっぱり違います、ただ悪いことをしたということが居心地が悪くて死ぬのです。
もしも、太宰のユダが最後まで語るとしたらこんな感じじゃないだろうかと思う。きっとこのユダは愛という着地点につくことが出来ない。ユダの流れ着きたかった場所は何処だったのか、心理学では定立と反定立は共存すると認めていている。人間とは思考があり、神のように「主体」ただ一つではいられない。人間とは自分という主体と他人という客体によって関わりを持つ。主体一つの神と比べると、人間とは不安定な生き物である。
死ぬ気で恋愛しないか・・・・・・「人間失格」「グッド・バイ」

「子は親よりも大事、と思いたい。

子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、
何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ」(桜桃より)

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、

生きていさえすればいいのよ」(ヴィヨンの妻)







 太宰治とは学校でも「走れメロス」以外はあまり薦めない作家だった。それでも日本人としては知ってないと駄目だという暗黙の了解があった。昔は夏になれば「太宰治フェアー」があって、塾の講師が「夏になると、受験生は太宰の人間失格を読んだりする」 なんて冗談を言う。「太宰は自分勝手な人だった」と言う人もいるし、 「太宰は自己愛だけだ」という人もいるし「古事記では自殺した神もいるよ」「賢い人は考え過ぎるから自殺するのよ」と言う人もいた。 過去にまともだなと思った意見は「当時の薬って質が悪いから。薬のせいかもよ」 というものだった。でも、大人になると日本という国だけに限らず、人の生死の価値観は然程そこまで変わっていないように思える。自殺が多い国、少ない国という統計だけを見ても、少ない国が思想が立派で優れているということでもない。
戦前、戦後の時代、作家・芥川龍之介、太宰治、の自殺や情死は若い男女のインテリ層に刺激を与えたようだ。太宰と一緒に死んだ富栄の遺族は彼女の名誉回復のために彼女の日記を公開したが、批判が殺到した。皆、生きるのに必死だった時代に浪漫に翻弄されて好き勝手死んだようにしか思われなかった。それとは反対に太宰と富栄は浪漫の憧れともなった。先月まで当時、本当に自殺をしてしまった17歳の若い男性の日記を関係者から借りていた。彼もまた太宰・富栄のことを気にしている日があったようだ。内容は事情があって触れない。
インクの滲みで潰れてしまって読めない字もある中、日記だけでは実際の行動へと移る因果関係は分からないままだった。文学がそれを誘発したとは言い切れないし、彼等が弱音を正直に語ることによって返って生を見出す人もいる。他人の話を自分のことのように受け取ってしまうことが強い人は 晩年の作品は読まないのかもしれない。
 太宰はダンテの神曲やヴィクトル・ユゴーのノートル・ダム・ド・パリよりも説明することに気を使う。太宰の作品は中高生が読めるレベルの話しが多いが、それはあくまでも読みやすさであって、語るとなると難しい。自分にとっては一番難しい作家なのかもしれない。太宰の場合は作品と私生活を完全に切り離してみても結局のところ、死の欲求については避けては通れない。太宰は病気だったので仕方がなかったとも言えるけれども、やはり自ら生を放棄するようなことを選択するということについて、語るというのは難しい。(というのは、SNS・ブログの限界で、書くとするのなら書籍に粗筋で予め知らせておいて読者に了解を取ってもらったほうが良いという意味である)それでも、私は最後はこの「駆け込み訴へ」で引用されたマタイの福音書の23章を拾おうと思う。
マタイの福音書。23章25節、

禍害なるかな、僞善なる 學者、パリサイ人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど 内は貪慾と放縱 とにて滿つるなり。


イエスは律法だけを守り、中身が形骸化しているファリサイ派の 人々にと外だけ綺麗にして、内は汚れていると警告しているが、 太宰は引用しなかったが重要な続きがある。
26節、 盲目なるパリサイ人よ 汝まづ酒杯の内を潔めよ、 さらば 外も清くなるべし。


私から言えることは、もしも「物語」の中だとか「小説」世界で、生死の価値観が混沌として辛くなったのなら、この杯の内側も綺麗にせよというのを参考にして欲しい。
 信者なら意味が分かると思うことだし、そうでないのならとりあえず、調べてくれると嬉しいが、言葉から感じ取る自身の共感覚を大事にしてほしい。
人間を表す表現は、一方方向の表現では成し得ない。聖書の中の人間が見た神秘についても同様である。神学や哲学だけがあっても足りない。小説、音楽、落語、様々な表現が必要なのである。イエスの意味を知っている作家は必ず分かっているはずなのだ。どんなに自分の筆が冴えても、イエスの言葉には敵わないということ、作家は神の御言葉が「借りものの言葉」とならないように、それが自分の内面が動いて、自分の個性として、他者にも通じる言語となることを待っている。
常にそのために感性は息づいていて、自分の言葉に息吹が吹かれる瞬間を待っている。
抽象的なものまで整然と言語化し、他人に伝わる言語となるのは容易ではない。
このユダが「あの人」と視線を向けるだけで、光は揺るがなかった。 彼等の心の中にイエスはいたということだ。推敲の末に口述で語れたというのはそういうことだと思う。運命はどうであっても、イエスはどんな人の中にもいる。それを信じるのもまた信仰である。
太宰は、ユダの悪が強ければ強いほどイエスの優しさの光が増すと言っていたようだが、私は少しこれとは違う。 人間が陥る運命に対して、誰かの理解や愛があることによってイエスの優しさが増すのだと思う。人間は主体だけでは生きられないが故、理解が必要なのだ。丁度、本を通して読者が太宰やこの本を好きになるように。深みとは、己のみの深みは孤独になることがある。他人の理解はどんな孤独への深さにでも、慈しみを与える。
「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」


この言葉だって理解無しでは光だと気づかない。ユダは彼をイエスとは一度も言わなかったのだから。私は、そうだと確信があり愛はうごめいたが、もうこれ以上は語れない。
Н. Ге. Совесть. Иуда. 1891(ユダの良心)
 
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Ranpo Edogawa(3) the Caterpillar

 


「今いきますよ。おなかがすいたでしょう」

「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、何ですのよ。これ?」  

「また妬いているのね。そうじゃない。そうじゃない」


江戸川乱歩・芋虫(1929年発表)―――時子

Ⅰ(感想)
  時子の夫「須永中尉」は、陸軍の誇りだと称えられ、軍神のような存在だったが、戦争によって四肢を失ってしまう。夫は顔は傷だらけで、聴力、声帯も失い上手く話せないが、内臓は鈍いながらも動き、男性としても機能する。姿形は「芋虫」と言えるが、芋虫とは幼虫の段階のことであり、性別の判断はほぼ不可能である。話せもしない、男らしさのカケラも感じない、そんな夫への妻の心は、夫でもなく、男性というものでもなく、自分の快楽と鬱憤晴らしや、気持ち悪い存在でしかなくなってしまう。
この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判した。


 この話はまるで一筆書きのように流麗で、伏線という計算を感じさせない。これは単なる奇談だったが現代ではこういった事をQOLの低下と位置づけるのかもしれない。但し、この場合は夫ではなく、妻のメンタルケアに重点が置かれることになると私は思う。妻は情欲の果てに夫の眼を潰してしまうが、この残酷のように思える妻の行動も現代となれば、介護疲れとして妻の立場に立ったケアを重視されるのかもしれない。文学と医療倫理の相性は良いと聞く。 一見、無秩序であるような残酷さは、小説の形態となると共にある種の法則のように整えられる。このように意味のある残酷は人々に何か課題のように見せることがあるのだろう。
 この話は四肢のない状態の人間に対して差別的に思われるような話だが、第三者視点が妻の内観に焦点を当てることによって、身体に問題の無い人間の心に問題があるようにし、アンビバレンスを保っている。

 物語序盤、時子は「茄子の鴫焼き」を一番嫌いだとあった。鴫焼きとは精進料理であり、一説によると肉が食べられない僧侶が歯ごたえや味を鴫に似せるために作られたらしい。この紹介の始まり、今から情欲について展開される予兆として、時子がこの茄子をぐにゃりと噛む食感は色んなことを暗示させるだろう。苦手なものを口にするときというのは舌から全身へと嫌悪感が走る。感触、触感から得られる快楽に拘った乱歩ならではな所も見られる。

 第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。

Ⅱ(物語の説明) 
四肢を失った夫は、意思を表すのに這いずり回るか自分の頭を床にぶつけるしかなかった。何度も何度もぶつけて不満を表し、その度に妻は丁寧に対応する。

「今、行きますよ。おなかがすいたでしょう」
「待ち遠しかったでしょう。すまなかったわね」
「今、ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」

妻は夫に紙と鉛筆を渡すと夫は口に加えて不満を書いて言葉にした。
「オレガ イヤニナッタノカ」(俺が嫌になったのか?) 



妻は頭を床にぶつけてまで自分を求め、姿同様の歪んだ字を書く夫に、
「また妬いているのね」と、あやす。それから自分の接吻一つで安堵をし、一挙一動するものだから、妻にとって それがまた興奮の種となり情欲が湧いてしまう。
妻にとってこの「生態」は興奮する玩具だった。

「あの廃人を三年の年月少しだって厭な顔を見せるではなく、
自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話している。
女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、
出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。今の世の美談だと思っています」


「どうか気を変えないで面倒見てあげてくださいよ」
 外の人間は、この妻は欲を捨てて夫に尽くしていると思っていて、今の世の美談として、この夫婦に理想すら抱いている。この場合の「欲」を捨ててというのは、世間がこの夫が妻を女として満足させられないと思い込んでいたのだろう。その上に貞淑、献身的に夫の世話をしていることを望んでいる。しかし、実際は少し違っていた。夫は男性として機能が残っていたし、妻は夫をのことを、肥えた黄色い芋虫であり、奇形な肉独楽のように見ていた。
外に行けば時子は 貞淑な妻として、外の空気に合わせる。それは外面だけだとか、悪意や自分から逃げているだけだとは言い難いだろう。
自分を取り巻く世界というのは、馴染みがある世界だ。特に遠出でもしない限りそうだろう。時子を取り巻く人は 時子に対して何らかしらのイメージを持って既に存在している。「知られている」というのは特にそうだろう。
   それをわざわざ崩してまで時子が何を明かさなければならなかったと言うのだろうか?
人は中々、この馴染みがある世界、自分の印象を崩すことは出来ない。それに情欲というものはずっと続くものではない。外に行けば彼女も自然に外に合わせる。
嘘をつくわけでもなく、玄関から外へと出れば時子は貞節な妻として、婉然と微笑んだのだろう。そして家に戻れば、夫の姿の醜さや、その醜さに欲情することを、妻は自分の心が純愛でないことや、秩序立てられない自分の感情に嫌気を差し、自分の情欲、快感と共に恐れも持ち始める。
  客観的に見れば、どんな姿になっても夫に尽くすという誉められるべき姿もあるが、自分の内面、夫が哀れで醜いから欲情するというものが時子に せめぎあう。
  夫も以前は自分の活躍していた頃の新聞記事や勲章を見ていたが、飽きてしまう。夫と行為にあけくれること、この感覚が動物の檻の中の出来事のようで、虚無感があった。そんな中で、自分が貞節の美名に隠れて、恐ろしい女だと見透かされるのではないかと、馴染みがある世界から、指を突き刺されて責められているのではないかと強迫観念に駆られる。実のところ、追い詰めるのは自分を責める時子自身、ただ一人だったが、その解消が色欲と怒りでしかなくなってしまった。それなのに、夫は嘗てのような凛々しさがなく、自分の言いなりだ。けれども言いなりのようで、動けない彼は自分が少し居ないぐらいで呼んでは、結局のところ自分を束縛する。時子の膨らむ感情、時子が夫へと跨るときに内観の描写はここで一旦、静止する。人間は愛おしいという以外の感情が爆発するというのはどんな感情かは表せられないのだろう。
言葉にならない感情、
内観からもフェードアウトした
ような感情、
弱々しい彼への支配力や感情が収拾つかなくなり、時子は夫の眼に手をかけ自分を見つめる夫の眼を潰してしまう。
「ユルシテ」


 目を潰された夫の胸に妻・時子は「ユルシテ」(Forgive me)と何度か身体に書いたが夫は返事をする素振りは見せなかった。妻は段々と夫の置かれている状況の哀れさと、自分の罪への意識に耐えかねられなくなり夫から思わず離れてしまう。そして、戻ってみると夫は居なくなっていて枕元の柱に子どもの悪戯書きのように読みにくい文字を残してあるのを見つける。
妻はそれを「ユルス」と記してあると気づいたが、時既に遅し・・・・・・。夫は身体を這いずり、もたげていた鎌首をガクンと落とし、井戸の中へと落ちて死んでいった。
鎌首をもたげるとは、蛇が首を持ち上げた姿が鎌に似ていることから、戦闘体制に入るときに使う比喩表現である。夫の最期は、軍人としての
死なのか、死に向かうことへの意志の表れなのか、謎は残るが、妻は夫から許されたと確信と共に夫の面影の幻想を思い描いた。
Ⅰ(思索と所感) 

○「ユルシテ」 と改心について。
 時子は夫の眼を潰してしまった後に、夫の胸に「ユルシテ」と指で何度も書いた。 このときの「ユルシテ」について人々はどう捉えるのだろう。乱歩は、これまで妻の内観と共に闇へ闇へ、快楽、恐怖と大抵の読者がそう捉えるように描写を続けていたが、妻がユルシを乞うところから妻の本質の方向性を拡散させている。読者によっては妻が改心をして「ユルシテ」と言っているようにも見えるし、改心なんてしてなくて自分が許されたいがために「ユルシテ」と言っているだけのようにも見せている。
「彼は物を見ることが出来ない。音が聞くことが出来ない。一言も口が利けない。
----------果てしなき暗闇である-----------どんな薄明かりでも構わぬ、物の姿を見たいであろう。
どんな幽かな音でも構わぬ、物の響きを聞き度い(聞きたい)であろう」

 確かに夫の立場に立ったような感情も湧いているが、それと同時に時子は泣き出し、世の常の姿を備えた人間が見たくなり、哀れな夫を置き去りにする。一人に耐え兼ねて逃げ出すその姿を卑怯だと思う人もいるだろう。読者という「審判」が時子をどのような女と見るかによって後半の感じ取り方は変わってしまう。
 日本語の「ユルス」とは、基本は人同士の「許す」と神との間の「赦し」と分かれている。この場合、「許す」というのが適切である。けれども、目も見えない、四肢も無い、
そんな夫に残されているのは、他者には感じているかどうか分からない触感だけである。
日本人なら子どもの頃に、友人同士で背中に文字を指で書いて何て書いてあったのか当てるゲームを一度はしたことがあるだろう。受け取り側は、文字が鏡像状態となって単純な平仮名やカタカナでないと分かりにくい。
 時子は夫の胸に幾度となく「ユルシテ」と書いた。 彼女のユルシテは、人間同士でも、神への赦しも俗さないというのが正解だと思う。(英訳ではforgive you となってるがここは綺麗な翻訳だと思う)偶然から生まれたようなものだが、これはカタカナであるべきなのだ。それから夫は子どもの悪戯書きのような文字を鉛筆で書いて、時子はそれを「ユルス」と見えるが、冷静なことを言ってしまうと実際のところ分からないというのが結論なのかもしれない。実際は夫は何て書いたのか分からない。私はそう思う。 
  妻が書き込まれた文字をカタカナの「ユルス」と見えたとき、すぐに時子にとって「許す」と漢字に変換される。これは妻の中に在った夫の声だと思って良いだろう。まるで声が近くなったようだからだ。長らくずっと聞けなかった夫の声を彼女は漸く思い返したのかもしれない。それが今の現実の夫の声とどれぐらいかけ離れているのか、重なっているのか分からないまま、夫は死んでしまう。
もたげていた鎌首、upraised headについて
英訳版では、ユルシテはForgive meとなっていた。そして、夫からのメッセージは
I forgive you!” と言ってるように見えたとあるが、これは在り得ないのかもしれない。何故なら、夫は四肢がなく口で挟んでしか鉛筆で文字が書けない上に、目も見えなくなっている。「ユルス」という三文字以上のものが書けるということは少しリアリティに欠けてしまう。せめて単語一つ、forgiveのみが良かったのではないかと思う。
英訳版では、この文字を見た後に、時子は涙で頬を伝って、眩暈を感じたとあるが、私が持っている日本語の原作ではこのような事は無い。
 
 Tears immediately welled in Tokiko's eyes, and she began to feel dizzy. 


恐らく、後半の夫のユルシを見越して、翻訳しにくかった箇所をそのように書いたのだろう。本当にここで夫が許し、妻が肉体的苦痛と共に改心したとするのなら刹那であるが確かな夫婦愛すら感じる。それも一つの捉え方として間違っていない。先ほども言ったように、夫の眼が潰れた後からは乱歩自身が色んな捉え方でもなるように妻の本質を拡散させているからだ。ただ、時子に涙を浮かばせてしまったら一つの答えが決まってしまう。それは一つの美徳に偏ってしまって少し残念なことだ。
 男女の間に起こる刺激は常に秩序によって整っているわけでは無い。何処までが愛情だといえて、何処からが単なる刺激なのか簡単に説明出来るものではない。
男女の間では、演繹的に「愛」だと確信出来ることもあれば、帰納的に「男女だから」としか言えないときがある。(もっと感覚的なものだが敢えて言うとするのなら) どんな男女でもこの両方を兼ねているだろう。乱歩自身は
「夢を語る私の性格は現実世界からどのような扱いを受けても一向に痛痒を感じないのである」
(政治的意味について・wikipediaより)


と言ったようだが『芋虫」は実のところ人間離れした、夢の話とも言えないだろう。理想の倫理から離れているだけであり、人間の作り上げることが可能な感情世界である。
夫婦の愛には望まれるものに「持続」というものがある。愛は持続を求めるが、時の流れや、状況の変化や、パートナーの変化や自分の変化、様々な要因が二人の間を蝕んでいく。この二人は無自覚にも、意図的にも「持続」の最中だった。
どんな馴れ初めで出会ったのか、元々恋愛関係であったのかどうかも知らない。夫婦の異常にも見える営みも、本来なら正当な「持続」である。他人にとって模範的でなくても、本人達にしか分からない「持続」があれば充分なのかもしれない。 特に、家庭というものは社会一般的や、他人の理想である必要は無いだろう。
 それでも人は何処かで植物の成長かのように筋の通った成長や秩序や法則を求めてしまう。そうじゃないと不安になり、恐れを持つようになる。少なくともそういう人間もいて、「時子」もその一人だった。肉体的な盲目と精神的な盲目、肉体的な盲目は夫だけだったが、精神的な盲目は二人とも抱えていた。時子はその恐れと共に闇へ闇へと落ちていった。夫は最後は「ユルス」と書き残して死んだようだが、最期の、鎌首をもたげたというものが引っかかる。先ほども言ったように、鎌首をもたげた(もたげていた鎌首)というのは戦闘体制への比喩表現である。軍人らしい死に方とは言えるが、確かなことは分からない。 捉える人から見れば「妻へ」かもしれない。
英訳版ではupraised headのみで、
「蛇のように」という一言が無かったことが残念だった。 これだと、彼には首と胴体だけしかないのだから、古井戸に吊るされただけのようにも見える。これは夫の世への怒りの象徴でもあったと思うからだ。私はそう思う。
ただ、事実はどうであれ、妻は「許された」と思っている。この全ての解答は妻のものになった。 この話は一見、世間が美談だと思っているような話の裏事情のようにも見せているが、推理小説を書いていた乱歩は錯視の天才だったようにそれが生きている。
許し、許された、夫婦愛、


このキーワードがこの二人の間に本当にあったのかを期待する人もいれば、無かったということに期待する人もいるだろう。人は愛にも虚無にも夢を抱くことがある。
二人の情念は「愛」「恵み」とは蚊帳の外のようなものだった。妻の五感は良くも悪くも、彼への執着へと感情が埋まっていく。希求は何度もしたのかもしれない。それでも妻は夫と闇の中にいることを選んでいた。それは快楽が故だったが、女としての喜びもまた妻としての喜びでもあっただろう。喜びと嫌悪感を繰り返し、皮肉なようだが、これも一途だったといえるのかもしれない。
「一途?」
乱歩は私のことも錯視へと陥らせる。わたくしの語りの着地点を何度も悩ませた。
「芋虫」という奇談、夫の許し、軍人としての死、それらを香らせ
最後まで「美談」という一本筋を通したような話だった。
今の世の美談だと思っています「どうか気を変えないで」

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Ranpo Edogawa (2)

 何故 、ハサミかというと

時子の夫は 戦争によって四肢を失い、まるで
芋虫のようになってしまったが、
以前は軍神とも言える活躍ぶりだった。
それで、そのときの活躍の新聞の記事を切り抜く
時に使ったものとして、ハサミをイメージしました。
カッターナイフは日本では1950年代に
登場しているので、芋虫は時代設定的に
それよりも前なのでハサミかもしくは別の切れるものと
なるのかなと思い、私は ハサミにした。

知人はこのデザインを見て、 十字架に見立てたかと思ったと言ったので 中々察しが良いなと思った。 真相は教えませんが。

時子の夫は四肢を失った後、 自分の活躍していた頃の新聞や勲章を眺めていたが、
そのうち飽きてくる。この飽きて夫と妻は情欲だけの時間を過ごしていくのが それも次第に気怠くなっていき、2人はどんどん身体が重たくなっていく・・・・・・

では詳細と 続きはまた今度。

Ranpo Edogawa (1)

江戸川乱歩の芋虫をイメージして作ってみました。
三回ぐらい分けて更新します。

「お前さんの貞節は、あの廃人を三年の年月少しだって
厭(嫌)な顔を見せるではなく、自分の慾をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。————————
————–今の世の美談だと思っています。

だが、まだまだ先の長い話じゃ。
どうか気を変えないで面倒を見て上げて下さいよ」

江戸川乱歩 「芋虫」より。


————————————。
何も復活祭前後で「芋虫」の朗読の練習しなくてもという感じでしたけど、今年は違った春を過ごせて、色んな事を知れた気分です。次は「芋虫」について書きたいと思います。

****

今回は江戸川乱歩先生を想って作った(笑)デザイン画から先に。何パターンか色々作ったのですけど、とりあえず今回は4枚まで。

江戸川乱歩・谷崎潤一郎は日本語のほうが綺麗なのですよね。
英訳だと状況を説明しているだけに過ぎない表現になってしまってるところがある気がしますが、それは彼等が望んだ日本の美のような気がするのですけどね。
綺麗な分、日本語でデザイン画にするとグロテスク感、強迫観念が増すので、それがかえって耽美というものから離れてしまう気がしたので、(私の場合は)イメージ画像に使う文字は英語にしました。人によっては物足りないと思うかもしれませんが・・・・・・。
使ってる引用箇所は本題に入れば分かるかと思います。

私はRanpo Edogawa にしましたが、
Rampo Edogawaというのもありますね。

Hamlet

by thy intents wicked or charitable.
thou com’st in such a questionable shape that I will speak to thee:

I’ll call thee Hamlet, King,father,royal Dance. O O answer me.



Hamlet-act1 Scene4 

画像元→http://hamlet.barbican.org.uk/


*特にハムレットについて解説や感想はありません。



ハムレットと言えば
“To be, or not to be: that is the question”の台詞が有名ですが、
「汝よ、人の形として表れたのなら、私の問いに答えてくれよう」のほうが私は印象に残った。
理由はバルザックのセラフィタで、例え話として人の形をした天使を見た登場人物が、
見たものを説明している姿について、「まるでハムレットのように亡霊を見たようだ」「ハムレットのように混乱している」と第三の語り手が語るシーンがあったのですが、セラフィタ・セラフィトスという存在を恐らくこの『人の形として表れたのなら』と重ねたのだろうと思った。
英語のshapeは亡霊とか幻影が現れたときに使ったりもする。イメージとして
空気のようなものから寄せ集めて形になったときに使うような気がする。
脚本にすることを考えなかったら大して気に止めていなかった
箇所だったのですが、こんなにも面白いとは。具体的にどう面白かったかは
語るのはまたの機会になるけれども、

シェークスピアは占星術等を扱ったヘルメス主義者(Hermeticism)だったと誰から聞いたか、その話は置いておいたとして、
軍神マルスの例えを熱弁するハムレットの姿を見て確信がついたことは
この物語の動きは太陽星座の「牡羊座」のようだ。まず、牡羊座は軍神マルスを
表す火星を守護に持つ。リーダーの素質があるが、人がついてくるかどうかは無頓着。
亡き父の亡霊を見て「問い」の思考の暴走に走った、ハムレットそのもののように見える。
極めつけが、「オフィーリア」の存在。John Everett Millaisの絵画で有名なオフィーリアの狂死について、牡羊座が好調だと相性が悪い星がある。

それが「金星」(ヴィーナスや愛の星)や土星(時間厳守)である。ハムレットの勢いが増せば増すほど愛は育たず死んでしまうこと、ハムレットは恋人の死を知らずに、
生死の時の流れを混濁させたかのように墓から掘り起こした髑髏を見つめる。
**
 舞台は影こそが自然であると私は思う。 特にシェークスピア(四大悲劇)はそうじゃないだろうか。神の光やクリスチャン的な理想、二元論は人の心の中で問いとなって彷徨っているが、入れ子状態で舞台の光とはならない。舞台の光は計算された光、影だけが自然にセットから伸びる。
その代わり人間の醸し出す熱意や光が浮き出る。その光から主を見出すこともあるけれども、基本は舞台とは人間劇なのかもしれない。 
そんな中で、神秘の啓示が強いバルザックの「セラフィタ」はどう面白くなるのだろう。
冷めた言い方をすれば所詮は、天使に恋焦がれる人間の話、
明確な影も野望もない物語の中で、闇や影をどう表そう。やはりこれは小説向きで
舞台は不向きだとは思う。 

画像元→ https://500px.com/dorotagorecka
photo: Dorota Gorecka


使用した書籍→The RSC Shakespeare: The Complete Works
*****

オスカーワイルドは聖書から「サロメ」をよく見つけたと思う。
イエスの光が続く限り、サロメを永遠の闇の乙女にした。
人間劇を装いながらも、揺るがない光と、影を生み出した。
サロメを見つけたこと、誠に羨ましい。
セラフィムについて
サロメについて
Benedict Cumberbatch版のhamletについて→ http://www.ntlive.jp/hamlet.html

・私の心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな工合(具合)になったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れる云う訳に行けしませんのに、これも「神様の思召し」やろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもうたことはみんな夢とあきらめよと(園子)


・「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇りに感じる。何でや云うたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当たり前や、女で女を迷わすことが出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあ云う気いして、嬉してたまらん」 (光子)

谷崎潤一郎「卍」より 

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朗読の感想

 ある役を演じてみるとするのなら、心理分析は欠かせない。私の課題は「光子」だった。甘え上手で人々を虜にする美しい光子、それは男性だけとは限らず、主人公「園子」とも関係を持つようになる。原作も映画も話し手や視点の中心は主人公・園子であり、この美しい光子という女性は園子の記憶の中の者となる。なので、心理分析するとすれば、台詞や所作等からの想定となる。
園子は美術学校に通っていて、観音様を描くが、校長先生にこの観音様はモデルに似ていない、誰に似せたんだと執拗に問われ、反論をする。園子は無自覚で徳光光子に似ている観音様を描いていたことに気づく。それを機に、会うようになる園子と光子・・・・・・。
園子の視点から語られる光子はギリシャ神話でいえば男性からも女性からも愛される美形のナルキッソスであり、園子はナルキッソスに恋をしたエーコーのようなものだ。エーコーは自分で考えて言葉を発せず、ナルキッソスの言葉を借りて繰り返すことしか出来なかった。そのためナルキッソスに見捨てられ、哀しみのあまりに木霊となる。この状況に対して罰を下したのがネメシスだった。 ネメシスのこの行いはギリシャ神話のコアなテーマでもある「ヒュブリス」である。
ただ、卍の場合はヒュブリスまでに至るところまで考えないほうがいいだろう。人を道連れにして死んだ光子、取り残された園子のことを考えると、エーコーは哀しみのあまりに木霊となったまま時間が止まり、光子は水面に映る自分の姿に惚れ込むほどナルキッソスになりきれなかったとイメージしたい。
映画(1964年)では光子(若尾文子)は園子(岸田今日子)に真剣な話をしているようでコンパクトを見ながら話す。私は、真剣な話をしているとき、自分の身の上話をするときは鏡を見ながら話すなんてことはしないので気になったシーンだった。
心理的に自分の映る鏡像が気になる、鏡を見ながら話す人の心理というのは、ナルシストか、自分に極端に自信がないか、というところらしい。
光子はどちらだろうと、やはり自信がない方なのかもしれない。光子は園子の夫とも関係を持ち、園子と夫はずっと「肌があわない」関係だったが、漸く「光子」を所有するという共通点を持つようになる。自信がないというのは、そんな状態になっても光子は夜になると、園子と園子の夫に必ず睡眠薬を飲ませないと気が済まなかったからだ。
園子は「自分じゃなくて夫を選んで裏切るんじゃないか」という疑いを持ち、夫のほうも「これが愛の形か?」と不安になりながらも、光子の言うことを聞いて睡眠薬を飲み続ける。光子は光子で、睡眠薬を飲むのをためらう二人を見て「あんた等、あて(私)欺しててんなあ」と泣き出す。
 人を想いのままに操れるようになった光子は女帝のようになった。しかし女帝としては非力でか弱い。
 終盤の三人の心中は実に滑稽なことかもしれない。この心中は近松門左衛門の曽根崎心中ほど現世で幸せになれないから、あの世(来世)でというような切羽詰ったものがない。収入源だった夫が仕事を続けられなくなって光子が「死の」(死にましょう)と言ったら二人とも了承する。「光子観音」と園子と夫は光子を崇め、光子を真ん中に仲良く死にましょうと三人で薬を飲むが園子だけが何故か死ねなかった。園子は、夫と光子を失うことになるが、最後まで光子を疑いながらも、愛しいと、涙を流す。
****
この作品の魅力は、道徳や倫理感では図れない。何か、現代の慈悲的な感覚で三人を捉えたらこの世界観を崩すことになるだろう。 読書というものは、本と読者の内面との垂直関係であるので自由な捉え方も保障されているが、分析するとなると別になる。柔らかい大阪弁での会話は次第に憎悪が渦巻いていると実際に演技を交えながら朗読していくと分かってくる。この話を測るときに、キリスト教的な解釈の「人の弱さ」ギリシャ神話のヒュブリス、空を飛ぶ鳥のような俯瞰視点が似合わない。例えば園子を本当に愛してるから園子だけに毒を加減したとする、そんな美談、装飾(言葉)を入れようものなら、この話は破綻してしまうのだろう。卍は左旋回を使用しているので「和」の元である。何処までを和といえるのか、難しいところだが最後にバランスを取って三人で死のうとしたところなんかは皮肉なようだが近い気がする。
この作品を簡単に言えば異常ということなのだろうが、本来なら生き残れたということは卍の印の由来でもある「瑞相」(めでたい出来事として起きる前触れ)であるべきだろう。それでも、園子は最後は第二の人生を考えているのか、それも
定かにしないまま、ただ泣いて終わる。園子にとっての吉兆の印とはやはり光子との
出会いだったのかもしれない。
 この作品の魅力は括弧たる日本語で、「綾模様」を作ったことであり、その儚い模様が美しく、卍という記号のビジュアルイメージだけで雁字搦めというほうが適切なような気がする。本来の意味よりも視覚によって人が左右されるとするのなら、卍という重なりの記号を持ってきたことは一種の戦略だと思う。
哲学者・ドゥルーズは、ものごとは様々な線からなる多様体であるという。これを私は日本語の「綾」のようなものだと思っている。子どもの頃やった綾取り(あやとり)と聞けばイメージしやすいが、彼に言わせれば物事は、様々な性質を持つ線の絡み合いから出来ている。そして、思考は侠気のような何かに衝突し、生が死のような何かに衝突するような場所はいたるところに存在する。この「卍」は世界から見ればそんな「交わり」であり、「平行線」である。それらの緊張の糸は、紐解かれる間に心中というものさえも善だとか悪だとか、簡単には言えない価値観へと突入する。
一人の女性を夫婦が取り合うという構図、
バルザックのセラフィタも夫婦になる運命の二人が
両性具有の天使に恋をする。
(セラフィタの脚本について)
 今、書いている脚本、バルザックのセラフィタと構造が似ているので研究用に選んだ一冊だった。構造は似ているけれども決定的に違うのが、卍は光子という存在の裏に潜むものが無限遠点という架空の概念であるのに対して、セラフィタは、人間二人はセラフィタを手に入れようとしたがるが、下されるものはヒュブリスではなく、牧師でさえ図れなかった神秘であり、最後はイエスは父への至る道に沿っていこうと導きがあるところだ。 
セラフィタというものを表すのはミステリアスでありながらも
無限遠点ではなく「神」という明確性だ。
卍の光子は、外見の美しさよりも動かしたものは、人それぞれが抱く欲であり、人々の積み上げであり思い焦がれる「観音様」であって、歪んだ仏心による「美」だろう。セラフィタの場合は、元々人々が崇めなくても天使として「存在」している美しさだ。
セラフィタと卍、

どちらが素晴らしいのか、どちらが本当に美しいのかと優劣はつけられないが、人間の有限性というものが儚いとするのなら、その儚さを躊躇することなく表現出来たのは

卍だろう。

綿貫に関する記載は、重要な人物でありながらもこの記事の全体のテーマ、ブログでの読みやすさを考えた上で省かせてもらいましたが、男性として機能しなかった綿貫の議論からも引用を。

元政上人は男子の男子たる印あったら邪魔になるのんで、灸すえた云うやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そない云うたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現してあるのんやし、観音さんや勢至菩薩の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性や云うこと分かってる


本→新潮文庫
映像に関するcopyright →角川書店

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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Toward a narrative

   

「この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、時のしわざだし」(第三章)

「こんなふうにして、いつも大聖堂の型にはめられて成長し、その中で生き、眠り、ほとんど外に出ず、四六時ちゅう建物の不思議な圧力を身に受けているうちに、とうとうガジモドは、少しずつ建物に似てきた」


「カタツムリが殻の形に体を合わせるように、彼は大聖堂に体をあわせたのだ。
(略)この建物は彼の住居であり、巣窟でもあり、外皮でもあった」
(第四章)

ヴィクトル・ユゴー著 
ノートル=ダム・ド・パリより。


*簡単な粗筋*

 主人公、カジモドは赤ん坊のとき捨てられ、当時まだ助祭長だったフロロに拾われる。月日を経てフロロは司教補佐へ、カジモドはノートルダム大聖堂の
鐘つき男となるが、音が聞こえないため鐘の音は聞こえない。彼の外見は醜く、人々からバカにされる存在で広場で晒し者にされるが、美しいジプシー娘のエスメラルダに助けられる――――。

醜いカジモドのことをユゴーは第4編でカタツムリの殻に例えた。

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カタツムリの殻というものには以前話した「黄金比」(黄金螺旋)が隠れている。人類が発見した黄金比、新約聖書の神と共にある「言葉」(ヨハネによる福音書1章)というものはギリシャ語ではロゴスと言うが、「比」という意味もある。他にもアリストテレスは「命題」をロゴスと呼んでいたし、神の言葉に匹敵する比とは「黄金比」だと一部の数学者や神秘数字を愛する者からよく語られる。このカタツムリの殻とは「命題」でもあり、そして「黄金比」という答えでもある。

元々、ノートルダム大聖堂自体、建物の比率が長方形の黄金比となっている。設計自体も聖書の数字を彫刻等に散りばめられていて、荘厳なる大聖堂である。けれども、ユゴーは長方形の黄金比としてではなく、カタツムリのような地味な生物の殻に潜む黄金比を大聖堂に例えた。ガジモドの体をその渦巻き上の「黄金比」に押し込め、全ての歪さを上手く表現する。その歪さ中には障がいを持つ者、ジプシーへの根深い差別、そして神を外皮のようにしか扱えない者への冷静な視線が表れている。

大聖堂に捨てられていた赤ん坊のガジモドは20歳ぐらいになるが、外見は醜かった。最期は愛する同じジプシー女性の亡骸と共に白骨化するまで眠り続けて砕け散った。 眠りから死の境界線はいつ越えたのか、その「時」は読者には知らされない。憎悪と欲、ノートルダム大聖堂を取り囲む長い長い人間劇は「時」のつけた傷に過ぎず、最期の白骨化があまりにも切なく、この死に方が幻想と現実の区別をつかなくさせる。

ユゴーのノートル=ダム・ド・パリの完訳版を再読したが、まるで大聖堂の建築を様々な思考を持ちながら細かく見ているようだ。この作品は、著者自身がノートルダム大聖堂を訪れたとき、大聖堂の片隅に「宿命」と刻まれた文字を見つけ、その文字が上から塗りつぶされて消されたころから着想を得ている。この本の帯も「この世は劇場の緞帳です」とリルケの言葉を使っていた。このように「緞帳の裏」「隠している事実」に焦点を当てることで明かされる告白、著者自身もそれを望んでいるように思える。ただ、その隠しているものとは国民全体で考えると、本当は知られたくないものだったりすることも多い。

例えば、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(映画)になりますが、この話しもフランコ政権の検閲を逃れるために色々と置き換えた「詩」と囁かれているが、スペイン国民自体はフランコ政権を知ってもらおうなんて思っているわけでもないようだった。
この映画を好きだということがあるのなら、純粋にアナという少女について、
見えている映像世界についての感想と感情を述べることが望ましいだろう。あの映画は大声の主張ではなく詩であり「ささやき」なのである。

ノートルダムに話を戻すと、人間劇で見ると人間の「罪」や「欲」は「時」の流れの一つに過ぎず、小説を読めば分かるようにそれはノートルダム寺院の壁に傷をつける「時」のようなものなのだ。無宗教を選択したユゴーにとってそういう解釈のほうが自然のような気がする。ジプシー娘のエスメラルダは原作では絞首刑になるが、ディズニーアニメではカジモドに助けてもらって生き残り、このシーンは感動的だった。

何故、殺さなかったのか。子ども向けだからという単純なことでもあるかもしれないが、
90年代アメリカは、短期就労目的の非移民も増加した。こういった時代背景も反映していたのかもしれない。国家というのも人格を持った信念でもあるので、多少、国の時代に合わせて変更すること、意味のある変更は私は嫌いでは無い。

どんなに「時」が流れてもジプシーについては謎が多く、あまり取り上げられないし、ジプシーそのものはスペイン歴史同様に取り上げられることを望んでいないところかもしれない。原作ではホロメスの「イーリアス」の説明もしている。ホロメスの作品は物語世界の外にいる語り手が、他の誰かについての物語を語ることが多い。聖書でもこの方法が大半である。このような手法を取ることを全知の存在とも言うが、「物語」の場合、作家は執筆途中で実況にはなりえないという事、作家は果たして本当に自分の作っている作品に対して全知であるのか? そういう疑いを持つようになっていく。

作家・アンドレ・ジッドはMise en abyme(深淵の状態にすること)、物語りには大きな舞台の中に小さな舞台があることに気づいた。ユゴーは既にジッドの前にこの存在に気づいていたという。恐らく、このノートルダムドパリも入れ子状態の中にある深淵を、哀しみを作り上げたと言えると私は思う。

深淵は 深淵のままなのか、目に見えた残酷な
話は残酷なままなのか?

そう思うと、この深淵に対する光かのように
私は聖書の「目が見せもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙2章9節)が思い浮かんだ。*パウロの言葉に鳴り響いているもの、その否定の連続の後に高揚した表現があるが、これは人智を超えた神の霊による啓示について語られたものである。

ノートルダムではカジモドが一心不乱で自分では聞こえない鐘をつく間、物語りには書かれなかったがその鐘の音に全く意味が無かったわけではない。傷が在る外皮の中に祈りはあり、現実としては争いもあり、小さな愛は沢山在った。 

ディズニーアニメのカジモドは外見は醜いが、心優しい青年に描かれ、大聖堂のアーチから溢れる光、日の光が照らす街へと夢を見る。原作では孤児だったカジモドはアニメの中では“Sanctuary, please give us sanctuary”と母に守られたという過去を持つように加えられた。

そのように情を持ち始めたのは、ユゴーが絶望的に書いた「時」が作り上げた、現代の私達だ。その時、差別されていた存在を愛されるような存在で描こうとした人間がいて、現代では作品に対してカジモドへの同情は耐えない。

全員がそうだとは言い切れないが、この作品は「時々」愛読されている。世の深淵は深いが時々、愛は在る。どのようにこの理解が育ち、未来で人の愛が育ったのか、この形成はどう説明出来るのだろう。

  人の記憶と同様、世界は記銘と、保持と、想起によって「貝」のように形成される。けれどもそれを把握したからといって全知とは言い難い。はかれない深淵と、神の光、人がこの世に存在する限り深淵は深く、人が愛を識る限り、必ず神(fate)を意識する。 もしも悲劇の物語を見たとしたら、それに悲しむ自分の奥底に
愛があり、神と繋がりがあるのかもしれない。物語の中でその一滴の情があればこの話は違ったということ、それは神のいつくしみに似ているということは、言いすぎだろうか? 

砕け散ってしまった白骨、

私達は物語の外。

心で溢れた感情は、深淵から「時」を経て浮上した愛の一部。

***

*コリントの信徒への手紙の説明「否定の連続の後に高揚した表現」について。オットー(聖なるもの)より引用。パウロに関しての説明は正式版で。

*神をfateとしましたが、訳を当てはめたわけではありません。 
*世界は貝のようにとありますが、この作品に合わせて書きましたが私自身「巣」だとしています。矛盾かもしれませんが
*ユーゴと表記することが良いらしいですが、持っている本がユゴーでしたので
ユゴーで統一しました。

画像:http://www.iamag.co/…/the-hunchback-of-notre-dame-90-origi…/

http://disney.wikia.com/wiki/Notre_Dame_de_Paris

(批評:簡略版)

Seraphim

The beautiful unfamiliar words and prayers to God that you chant–those are words to God that are rarely chanted today.When a beautiful person like you narrates, I get blinded by the beauty. Am I a sinner?
聞きなれない美しい言葉、それは唱えることが減ってしまった神への言葉。貴女のような美しい人が語ると、人はその美しさに眩んでしまうのです。私は罪人でしょうか?
Seraphim(Chris Kyogetu)
*****
私は今、バルザックのセラフィタ(Serafita)という原作を元に脚本を書いています。セラフィムを調べてもらえれば、どれ程の位の天使なのか分かるかと思います。この話のセラフィムは人間の血に天使が混ざっていて、女には美男子に見え、男には美女に見えます。人間の男女がセラフィムの美しさに恋をして手に入れようとしますが、セラフィムは沢山の神秘を語り、最期は昇天します。男性に見えるセラフィトスは哲学的であり、女性に見えるセラフィタの台詞は旧約でいえば雅歌のようです。それが次第にセラフィムとして統一していくかのように、新約であり、「天国のような言葉」へとなっていくところも見所かと思います。
そのセラフィムは「たった一つの愛で心を満たす」話をします。その愛とは天国であり、神への愛です。
*****
牧師にはセラフィムのことが 少女にしか映らず、自分のことを天使と勘違いした可哀想な子と思われています。そんな牧師に「本当は貴方は神を信じていないのよ」とセラフィムが語るシーンがあるわけですが、それがより効果的になるように色々と駒の進め方を考えている段階ですね。また何か書くことがあったら紹介したいと思います。 このメモは不定期で更新するつもりです。 
(英訳紹介は少々内容を変えています)
*****
アガペーやエロース、フィリアー、もしくは翻訳出来ない「愛」についてのロマンと哲学の深さは見物だと思いますし、神への愛、人への愛を識別させ、これらが重なることによって最大のロマンが生まれると知った私の原点です。バルザック自身、これはイエスに見惚れる天使の像を見て思いついた話であり、当時、結ばれるはずもなかった公爵夫人のために書いています。(後に夫人の夫が亡くなり、バルザック達は結ばれます)
これも神秘の閃きと許されるはずの無い愛があってこそのものですので、難解とは言えども理解出来る部分はあるかと思います。
ただ、大枠は変えないとしてもほぼ登場人物が静止している状態で話し込んでいるシーンが多いのと、退屈と思われてしまう難解な箇所、台詞にしては長い箇所が多いので、意訳したり理解しやすいように大幅な変更はあります。ですので出すとしたら「セラフィム」となるかもしれません。勿論上の台詞も私のオリジナルですが、内容には添っています。
*****
元々、小休止のつもりで貰った提案です。
作品を書いていて面白いのは、役作りなのか自分が設定した世界の中で思考を働かせていると、その通りに現実も動いていくことです。 この前もこの話しをある人にしたらアガペーに関して、天国に関して閃きを貰いました。イマージュが「現実」として実現化していくこと、それはとても素晴らしい収穫でした。作品が無事完成するように祈っていてください。
(English ver)
I am writing now a script based on the original work called “Serafita”of Balzac. I think that you understand if I refer to Seraphim that it is the best angel’s story. Seraphim of this story is mixed with angel and human ,it looks like a beautiful boy to a woman, and a beautiful woman to a man. A man and a woman of human being fall in love with the beauty of Seraphim and try to get her/him. However, Seraphim speaks so many mysteries as to wake up the two, and finally ascends to heaven. Seraphim says, “fill my heart with only one love.” That love is heaven and love for God. In order to write emotions impossible for humans, I feel the same way as playing that role. It may be so that I am playing this role unconsciously.
peace of lord.

from Chris

info

①”What is extracted from inside of us in front of mystery?
 Is it a pure heart? Or is it a reflection of ugliness of ourselves?
 I really fear the latter mystery.
(omit)
 I want to be happy and satisfy my mind.”
***
②“Your answer has always some deep meaning. 
When I am with you, I understand everything. 
I feel as if I am freed.”
by Chris Kyogetu
***
今、書いている脚本(舞台用)の一部を少し英訳。
ある原作を元に制作しているのですが、少し紹介。
①完全オリジナル台詞 ②元々ある台詞を一部変更
どの作品なのか、
また纏まったらホームページに載せます。
では皆様、良い週末を(まだ木曜日ですが)

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