「貴方は思い違いをしているのよ、わたしね、そんなに幸福になる必要がないの。今のままの二人で、充分な幸福でしょう?」
La Porte étroite:André Paul Guillaume Gide
La Porte étroite:André Paul Guillaume Gide
●粗筋
ジェロームは12にも満たない幼い頃に父親を失い、叔父のもとで過ごす。その家に住んでいる従弟のアリサはジェロームよりも二つ年上で、妹のジュリエットは一つ下だった。アリサの母親はたいそうな美人で、この二人の姉妹は母親のようにそれぞれ魅力があったがジェロームはアリサの麗しさに惹かれていた。父親が死んだ二年後にジェロームはアリサに会いに不意に会いたいと思ったので、アリサの母親の部屋を通る。その扉は開いたままだったが、アリサの母が軍服を着た見知らぬ若者に媚態を示しているところを見てしまう。ジェロームがアリサの部屋に入ると、アリサはそのことを知っていて泣いていた。やがてアリサの母は家出する。
ある日の日曜礼拝で牧師はマタイの福音書の言葉である「力を尽くして狭き門より入れ」「これを見出すもの少なし」と語る。ジェロームはこの狭き門をアリサのドアの部屋のように思えた。アリサの母の部屋の扉は開かれていて不快なものを見せたからか、愛するアリサの部屋の扉は狭く、自分が骨を折らないと入れないような神聖なもののように思えた。
ジェロームは決心する。僕はこの狭き門へ通るような人間になってやろう、
そして、幸福のための努力を厭わないこと、これが「徳」ということなのだろうと、「幸福」と「徳」を同一視するようになる。
ジェロームは兵役に出る前に、アリサに婚約を申し出るが「幸福はこれ以上いらない」と断られる。ジェロームが君にとっての幸福とは何かとアリサに聞くと「聖なる心」と返ってくる。妹ジュリエットはジェロームに気があったけれどもアリサとジェロームが相思相愛なことを知ると他の人と結婚する。
ジェロームと離れている間にアリサは次第に衰弱していき、最後には日記を残して診療所で死んでしまう。
アリサの死後、ジェロームはジュリエットと再会した。残されたジュリエットには夫との子どもがいて、「アリサ」と名付けられていた。ジュリエットは、ジェロームが姉のことが忘れられず結婚出来ないことを知って、ある一つの部屋へと導く。それは、嘗てのアリサの部屋を思い起こさせた。
そして彼女はこう言った。「目を覚まさなければ」と。
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●「門と扉」
「狭い戸口から入るように尽くせ」(ルカの福音書13章24節)
「狭き門より入れ……これを見出すもの少なし」(マタイの福音書7章13節~) (自由訳)
Efforcez-vous d’entrer par la porte étroite.
Luc, 13:24.
Luc, 13:24.
Entrez par la porte étroite, car large est la porte et spacieux le chemin qui mène à la perdition, et nombreux sont ceux qui y entrent. Combien étroite est la porte et resserré le chemin qui mène à la vie ! et il y en a peu qui le trouvent.
Matthieu,7:13~
Matthieu,7:13~
物語冒頭にはルカの福音書の 13章「狭い戸口」から始まりますが、実際にジェロームが惹かれたのは「狭き門、これを見出すもの少なし」のマタイの福音書7章ということになります。
この二箇所の福音書の引用は教えとしては似ていますが、マタイの場合はイエスは山上の説教で弟子達に話しかけ、ルカの福音書の場合は、十字架の受難が待つエルサレムへの最後の旅の途中で、町の人々へと語ります。マタイの狭い入り口とは「命に通じる門」、ルカの場合は「神の国」と、話の場面や軸は違いますが、門も扉もイエスのことでもあり、ヨハネの福音書の14章、「イエスは父に至る道」とも繋がります。天には住まいが沢山有り、天へと通じる道は沢山あるが、イエスを通らなければならない。イエスという存在は色んな人を受け入れる優しさもありますが、イエスでなければならないと言われると狭くも感じるのかもしれません。
その門や扉は狭いと大体の意味は同じですが、ルカのほうが悔い改めの要素が強く、「ご主人様から扉を閉められて、開けてくださいと言っても、お前たちが何処のものか知らないと言われるだろう」と、狭い扉と同時に主人から扉が閉じられているというイマージュ(image)があります。日本語だと戸口と門となるとイマージュも意味も違いますがフランス語の場合の、“porte”は門も扉も意味をします。ですので、フランス語タイトルである“ la porte étroite”とはフランス語の場合はマタイもルカも同じになります。
ジッドがそこに目をつけたのはフランス語の仕組みが故でしょう。
冒頭は読者へ向けるという意味で町の人々へと語ったルカの福音書から扉は常に閉められているようにイマージュを与え、 ジェロームには弟子達に話した「狭き門」を、彼の体感をイエスへ近い存在へと読者へと意識させます。La porteとはLaがつくので女性名詞です。ですのでジェロームが愛する女性と狭き門を重ねたのもイマージュとしては繋がります。
この世界、ジェロームの視える範囲では扉は常に開かれています。アリサの母親の不貞やアリサの部屋は開かれていて、鍵ですらも脆いのです。これは読者にとってはイマージュ世界となりますが、小説世界にとっては現実です。
この『現実世界』は常に扉が開かれているのに対し、神(主)への至る道では扉が狭く、閉じられているというイマージュがあります。どうして聖書世界というイマージュ世界は扉が狭いのか、私達はその意味を考える必要があります。 それはキリスト教の厳しさも表していて、その厳しさが神聖にも感じるのでしょう。 それと同時に、イエスの愛や優しさもわかるようになります。この相反したものは自分で感じ取るしか他に道はありません。イエスの厳しさと優しさの間をどう感じるのか、その程度も人それぞれなのです。だからこそ形の無い神秘なのだと思います。ジッドはどの程度それをわかっていたのかは分かりませんが、最後のアリサの妹が「目を覚まさなければ」と言ったことは、宗教の酔いからの目覚めにも、反対に光への目覚めにも見えます。それでもこの部屋に無垢な子どもが最後に居たことに意味があったと思います。
何故なら、天の国で一番偉い人についてイエスが小さな子どもを真ん中に立たせたからです。(マタイの福音書18章)
心を入れ替えて子供のようになる人が、天の国でいちばん優れているという。これは子どもの体温と共に感じるイエスの温もりでしょう。
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● アリサという盲点
この物語の語りは主にジェロームという男性で、アリサと結婚したいと思う男性です。 アリサも彼がとても好きで相思相愛でした。アリサはまずは母親の自分の不貞や、自分の妹もジェロームが好きだということを知ること、妹が自分に遠慮したように他の男性と結婚してしまうこと、ジェロームは兵役に行ってしまうこと、それらの状況がより彼女の繊細な心へと響いていき、アリサの神への愛への言葉や、ジェロームへの愛の言葉が、次第に他人にとっては病を仄めかすような言葉へと変容していきます。
著者、アンドレ・ジッドはこれは小説ではなくて「Récit 」(物語)と線引きをしました。それは神話や童話のようにあらゆる時を超えて一人の心と「応対」するということになります。例えばギリシャ神話を読みながら、人は現代や自分の状況に照らし合わせたりします。何故、そうなるのかといえばそこには普遍的な課題や理想があるからです。この作品はプロテスタントへの反骨精神とも言われていますが、「物語」と言ったということは彼は普遍性を睨んでいたように思います。
それはアリサを説明する際によく出される「神への愛に焼き尽くされる女性」というのはアリサに限らず古い記録にもありますし、昔からイエスは美形に描かれることが多く、聖人の記録にも神と結婚したと同等の女性がいたそうです。けれども私にとっては、アリサは本当に天上への愛とジェロームを天秤にかけたのかというのに疑問が残ります。私にはジェロームのほうが天上への愛とアリサを重ねたように思えます。彼は狭き門に準えただけではなく、
「アリサといえば、福音書が教えてくれた高価な真珠のようなものだった。私はそれを獲るために自分の全てを売り払う男のようだった」
(マタイの福音書・45節~46節・また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである、のこと)
と、アリサの存在を高めています。ジェロームの視点がメインなので、アリサは実際は何を望んでいるのかということが、登場人物にも読者にもよく分からない位置に立っています。「聖なる心」が欲しいものと答えたアリサの思考と言動は、言葉で言った通りが本人の意思かどうか分からない薄弱性も出しています。それは物語後半に登場するアリサの日記にもよく出ているかと思います。彼女は死ぬ直前までジェロームの名前を口にしていますし、この日記は他人にも理解されない整理されていない文章です。誰かに見せるような目的で書かれていない文章、それがよりアリサの混沌を表しています。
物語の中で明確に分かることは、●ジェロームは信仰と共に忠誠をアリサに誓いたかったこと、● アリサは、愛するからこそアメジストの十字架をジェロームに与えたかったということです。
愛し合う男女の目的や欲求は、手を取り合うには時期や話し合い、理解しあうことが必要なときがあります。愛し合っていても、これらが適わないような擦れ違いはどうしたらいいのでしょう。
このような擦れ違いは今の時代でも普遍的にあることです。相手の幸福を願うこと、自分の幸福について考えること、愛があるが故に身を引きたいと思うこと、愛があるからこそ一緒になりたいということ、人の意思は様々で、常に他人を求めています。人間は愛する人で頭がいっぱいになりますが、愛している人が一番良く見えるとは限らないのです。
何故、アリサは婚約よりもアメジストの十字架を与えたいと思ったのか、アメジストは「酒に酔わない」というギリシャ語の意味から来ていて、キリストの受難も表すともありますが、象徴だけを手に持ち、何故それを彼に与えるということに拘ったのか、彼が他の女性と結婚することに拘ったのか彼女の思考に論理性や法則性は見当たりません。
私はアリサという存在を「盲点」と捉えています。盲点という意味は、ある一点に集中しすぎて見えなくなること、それと反対に、気づいているはずなのに見えなくなることと二つの意味がありますが、アリサの場合はこの二つの意味を持つでしょう。登場人物や読者にとっての彼女は「盲点」です。だから、彼女がよく見えないのです。それが魅力と思う読者もいますが、彼女は正解を持たないイマージュのような存在へと移ろいます。
それはアンドレ・ジッドもよく分かっていたことだと思います。何故ならアリサのモデルはジッドの妻であり、妻は敬虔な信者だったことから妻には性的な欲求は無いのだろうと思い込んで彼女に触れなかったそうです。ジッドはアリサを最も苦手な女としました。その切捨てが更にアリサという盲点を 生み出したのだと思います。
アリサに待ち受けていたのは物語後半の日記にあるように、幸福追求による「苦悩」です。それは、愛するジェロームに対しての祈りだったように思います。常に彼女はジェロームのことを想っていたことが日記から分かります。彼女は自分一人天上への愛に胸を焦がしていたのではなく、ジェロームの幸せを彼女は祈っていたのでしょう。
この話に出てくる人は皆それぞれ人の幸福について考えています。その幸福は愛であったり、登場人物や読者でも困惑するような「幸福」でした。その中で他人の幸福を願うと同時に自分の幸福を目に見える形にしたのは、結婚し、子どもを生んだアリサの妹のジュリエットということになります。それでも彼女もアリサの死が悲しみで、一つの不幸を背負っています。彼女は最後は泣くのですから。幸福とは笑顔でいるだけではなく、手探りで、責任もあり重たくて悲しみも含めているのです。
アリサは愛するジェロームと話し合ったパスカルに対して窮屈に感じているようでしたが、実際の彼女の生き方はパスカルで言う所の「我々人間は考える葦(あし・草)」とも言えるのでしょう。彼等はすべて「考える葦」であり、音も立てず季節を過ぎ去っていくようでした。聖書世界の狭い扉と門とイマージュ、それは物語りの中で混沌を表すのではなく、イマージュの秩序を与えました。福音書の引用はこの文章世界の中での唯一の確立されたイマージュです。 箱のような部屋に取り残されたジェロームや、ジュリエットや子ども達から離れ、私達の意識の外、もっと計り知れない外に、一つの疑問が文章世界から離れて見えるはずです。
アリサは狭き門を通れたかどうか・・・・・・それは誰もが答えられませんが、信じようとする隠れたもう一つの希望としておきましょう。
目を覚ますと共に。
*(参考)
L’homme est un roseau pensant. L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.
人間は一本の葦に過ぎない。それは自然の中で最も弱き存在である。 しかし、それは考える葦なのだ。(パスカル)
*聖書の引用について、ジッドの邦題が「狭き門」と文語体であることから文語体寄りの自由訳に統一しました。現代では聖書ではこの訳は「狭い門」となっています。