「少年の日の思い出」


盗みを犯してしまったという気持ちよりも、自分が壊してしまった美しい蛾の姿に苦しめられていた。
そうそう、君はそういう人なの

ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」

 蝶のように生物の標本とは、生の実体ではないが本質として残る。研究としての資料でもあり、嗜好品としても存在する。ハインリッヒにとっては嗜好品だったといえるだろう。この話は日本の教科書にも載っているほど有名な話だが、ヘルマン・ヘッセSchmetterlinge「蝶」の短編集Das Nachtpfauenauge(クジャクヤママユ)」(1911年)の章である。邦題は「少年の日の思い出」となっている。一人称「私」のお客さんがハインリッヒ・モーアであり、物語の殆どがその男の思い出話である。ヘルマン・ヘッセの蝶と蛾を主題とした散文九編、詩十一編、編者Volker Michelesのあとがきによって構成されている。

 蝶の採集を始めたハインリッヒは、二年目の十歳で虜となる。蝶を見るだけで恍惚状態となり、採集をするが彼は古いボール箱に保管するしかなかった。しかし、友人達は標本用の綺麗なガラスケースに入れてくるので、彼は次第に友人らに見せるのを止めて、妹だけに見せるようになる。彼は珍しい「コムラサキ」を捕ることに成功する。展翅し、ボール箱の標本を完成させる。彼は隣の少年、エーミールに見せたいと思った。その少年は、庭を隔てたところに住んでいる学校の先生の息子だった。標本の数自体は少ないが、ハインリッヒとは違って、彼の標本は美しかった。そして彼は標本作りや修復の高度な技術を持っていて、ハインリッヒは彼を妬ましいと思いながらも、感嘆としていた。

ハインリッヒは、エーミールにコムラサキを見せたら、最初は褒めてくれた。しかし、色々と管理が杜撰なことを指摘される。それ以降、彼はエーミールに標本を見せなくなった。やがてエーミールが二年後、「クジャクヤママユ」を採取したと、耳に入る。それはハインリッヒが恋焦がれていたものだった。彼は隣の家に行ってノックをしたが、エーミールの返事がなかった。そしてあの蛾を見たいと勝手に部屋に入って、「クジャクヤママユ」の美しさに忘我し、盗んでしまった。すぐに良心に目覚めて、引き返して蛾を戻したが、蛾は形を失ってしまった。壊れてしまったのだ。

 家に帰り、母親に打ち明けると怒鳴って怒ることはなかったが、エーミールに謝罪するように言われる。ハインリッヒはエーミールの家に戻ったら、エーミールはクジャクヤママユが何者かによって壊されたと騒いでいた。彼はクジャクヤママユを最善の修復を施そうとしていたがダメだった様子が伺えた。

ハインリッヒは謝罪をするが、エーミールは彼を許すとも怒ることもなく、

「そうそう、君ってそういう人なの」

と言って軽蔑的な目で見る。

エーミールは、ハインリッヒの杜撰な蝶の管理が彼の本質かのように語った。

帰宅後、ハインリッヒは母親に優しくはされたが、今まで集めて来た蝶や蛾の標本を指で潰していくのだった。

蝶や蛾の標本は、形がある間は本質として存在していたが、壊してしまうことで本質と現象が渾然とする。概念、思惑の中に蛾の面影が溶けていった。標本のようなものは、存在でしか意味がない。エーミールの指摘は本質観取だった。気持ちや、情熱だけで保存された蝶の標本は存在価値が無かった。「美しくなければならない」ハインリッヒはまざまざとその意味を理解する。何故なら、蝶と蛾は二度死ぬのだ。標本のための死、それからハインリッヒのエゴによる死、ハインリッヒは一度目の死を生かすことすら出来なかった。それが収集家であった彼の自尊心が削られる。

観念連合の集まりが寄生という形で精神に住み着いては、成長しても精神の中で切り離されて孤立する。ハインリッヒは蝶の収集は恐らくそれ以降することはなかったようだ。エーミールの標本を壊す前、家に勝手に入る前、エーミールに声かけなかったとすれば、少年の心には純粋に蝶を採集する姿があった。あの当時の情熱に純粋に返ることも抽出することも出来ない。一度壊したものは戻らない。蝶・蛾への情熱、ハインリッヒにとっては、本来なら愛される人格の一つだった。けれども愛される少年の人格は、エーミールの軽蔑によって罪深いものとなる。誰かの許しがないという状態は、失ったのは形だけではなかった。思い返される度に、自分の過去の醜態が表れる。しかし、人間は大人になるということはそういう積み重ねである。潰された蝶や蛾は、何処へ行ったのか。鱗粉の感触を残しながら、現象は羽ばたいて、一人の人間に語られる形無き存在、形而上学になった。

それこそ標本のように。

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哲学のテーマ 「本質」と「現象」

コンプレックスへの参照:ジャンマルタンシャルコー

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