なぜ世界は存在しないのか(4-1)

「あなたが望むことを、私も望む。できるかどうか考えず、好きかどうか考えず、求めているかどうか考えず」 マドレーヌ・デルブレル(フランスの社会活動家)
この引用はマルクス氏の本にはありません。
それではいよいよ「世界は何故存在しないのか」の本番に入りたいと思います。その前に
彼の著作に、ハイデガーの名前だけが出てきましたが、これは「世界内存在」と考えて良いでしょう。世界内存在とは、彼が作った新しい造語。それは何よりもまず人間存在の具体的形態をつらぬく根本構造として提示され,とくに従来の主観概念の変革を意味する。人間はいかなる反省にも先立って現に存在し,しかもその多義的な現存を各自的に引きうけることによっていつも本質的に,なんらかの世界の内に,この世界を了解しつつ存在せざるをえない。これが,人間が実存するということの意味である(コトバンクより)
マルクス氏はこの人間が実在するという意味について、こう掘り下げています。
「世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりそれ以外のいっさいに意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、もっと全てを包括する領域である、と。意味の場については前の投稿を見てください。(意味とは対象が現象する仕方のことである)
すると存在する一切のものは、世界の中に存在していることになります。世界こそ、いっさいの物事が起こる領域にほかならないからです。世界の外には何も存在しません。世界のそとにあると考えられるものも、そうかんがえられるものとして世界の中に存在しています。

存在するとは、何かが存在しているとすれば、その世界はどのような意味の場に現象するだろうか、と。世界は意味の場S!に現象すると家庭してみましょう。ここではS!は、さまざまな意味の場の一つです。つまりS1と並んでS2とS3と複数の意味の場が存在しています。他の意味の場とンランで存在しているS1に現象しているとすれば、世界は存在している。このような事は可能でしょうか? 
答えは否です。たとえば目の前に広がる視野を寸分違わず絵に描く才能が自分にあるとしましょう。このとき、私自身の視野を描いた絵を、じっくり見ることが出来るでしょう。けれどもこの絵は、もちろん私の視野そのものではなく、私の視野のなかにあるのに過ぎない。これと同じことが世界に当てはまります。私達が世界を捉えたと思ったとしても、そのときわたしたちが眼の前に観ているのは世界のコピーないしイメージに過ぎない。世界それ自体を捉えることが出来ません(111
ここで私の書いた「なぜ世界は存在しないのいか」に戻ってみましょう。
そもそも世界とは
「世界と一言で言っても多義的な意味がある。宇宙のようにだだっ広い感覚で構築されたものや、心ある生き物達が制約制限を受ける枠のことを言うこともある。哲学に至っては、社会的精神的事象も含める。それらが存在してないということはどういう意味なのか」
と書いてあったが、マルクス氏の世界とは二番目の心ある生き物たちが制約制限を受けている枠の「世界」を主に差しているように思える。厳しいことを言えば、哲学的な社会的精神的現象までたどり着いたのはハイデガーの領域とすべての領域の領域としての世界は無限に存在する。つまり特権的な「世界」は存在しないということには達してないとは思う。が、しかし21世紀らしい、先進国らしさは現れている。
彼の第一の結論はこうです。
「世界は存在しません。もし世界が存在するとするならば、その世界は何らかの意味の場に現象しなければなりませんが、そんなことは不可能だからです。もちろん、この洞察はたんに破壊的なだけではありません。この洞察によって明らかになるのは、期待と違って世界は存在しないのだということではありません。むしろ存在するのかを理解しようとするのであれば、この洞察は生産的なものにもなりうるのです」
第一の引用のマドレーヌ・デルブレルの「あなたが望むことを、私も望む。できるかどうか考えず、好きかどうか考えず、求めているかどうか考えず」という引用も、存在していない世界への祈りを感じています。しかもこれは哲学的な社会的精神的事象も含め、心ある生き物たちが制約制限を受ける枠のような世界、存在の定かではないもの(世界)と存在者(心)との間の関係性が現れている。しかし、心の意思は強く感じるのは何故なのだろうか。
続きは第二弾です。

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カイエについて(1)

シモーヌ・ヴェイユ カイエⅡ
「キリストに対して忠実であるのは困難なことであった。それは真空状態に対して忠実であることだった。ナポレオンに対してなら、死に至るまで忠実であることも、ずっと容易なのだ。まだ、のちの殉教者たちにとっても、忠実であることは容易であった。なぜなら、すでに教会という一つの力、地上での成就の約束をともなう一つの力が存在していたからである。人は強いもののためになら死ねるが、弱いもののためには死なない。今は一時期的に弱くても、力の後光をいただいているもののために死ぬにすぎない。
「まことにあなたは隠られておられる神である」そして同時に、「かれらは、神を明らかに示している世界によって、神を知ることが出来た。」世界は神を明らかに示し、また神を隠す。
 第二作のイコノグラフは教会の良いところ、キリスト教の良いところを手探りで探って書き上げたが、第三作目によってカトリックから距離を置いている。イエスはイデアのようにアイディアの宝庫であるが、キリスト教という組織自体は、どうも哲学や文学にとっては同じ軌道を回っている存在だが、相性が悪いようだ。ヴェイユも同じ気持ちだっただろうなと少し思う。
真空とは空気もなにもない状態のこと、彼女は造語かのようにこの真空についてよく語っている。彼女の言っている真空とは何か、それは彼女の語りに耳を澄ますしか方法がない。
今回の場合、何もない空間に忠実であるべきだったと記されている。見返りも求めず、愛も求めず、何もない場所への忠実=キリストに対しての忠実としている。
それが人は出来ない。少なくともナポレオンのように多少の即物的な対価を
下さる現時点で生きている人を選ぶのが世の常である。
*****
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なぜ世界は存在しないのか(1)

「世界」と一言で言っても多義的な意味がある。宇宙のようにだだっ広い感覚で構築されたものや、心ある生き物達が制約制限を受ける枠のことを言うこともある。哲学に至っては、社会的精神的事象も含める。それらが存在してないということはどういう意味なのか、それはこの本を読んでみることをお勧めするので教えないが、一通りまずポストモダンとは? カント、ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、キリスト教の簡単な歴史、自然主義をおさえてないと何が否定されているのか、何を例えに出されているのか、この人は何を再構築したいのか、意図が全く読めないかもしれない。特に重要なのはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の冒頭の「世界は事の総体であって物の総体ではない」という定義と、ハイデガーのいうすべての領域の領域としての世界は無限に存在する。つまり特権的な「世界」は存在しない、ということ、ヘーゲルがカントの何を否定したのか?ということ、この三点が特に重要となる。

実は私は著名人運だけはいいのかわからないが、友人がボン大学出身で彼のコンタクト先を教えてくれたし、いつでも連絡していいようにしてくれた。(英語かドイツ語のみ) しかし彼に声を何んてかけられるのかすら分からない状況である。世界のベストセラーであるがベストセラーの中でまともなのは珍しい。

(2)以降の更新は熟読後ということになるのでだいぶ先になると思います。

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メタファーはなぜ殺される











私が学生のときに買って読んでいた本。「なぜ殺される」と言っている間はまだ生存が確認出来ていたからこそ言えたことであり、今となっては「文学」によるメタファーは既に死んでしまったように思えるし、長い月日を経て殺され方も見た気がする。メタファーとは本文に限らず、本文が組み立てた構造から脱構築し、本文の内容を汲み取ることでもある。現代日本では、ほぼ直喩とマスメディアのみで、脱構築をし、本文の旨味を引き出そうとする術は減ったし、皆無に等しい。残っているのは社会行動学に関する隠喩であるが、それだけだと面白みがない。とまで言ってみるが、この決定には曖昧性がある。けれども虚妄とも思えず、誰でも思い当たる節はあるだろう。これは「現実的」であるし、規範定義にもなり得る。但し、常に決定と曖昧は連れそうのである。

この決定が出来ないために、実は徐々にメタファーは死んでいるように
思える。本来なら必要がない決定なような気がするのだが。

この本を久しぶり開くと感じたのは「時代」だった。過ぎ去った抵抗。
そして受け入れてしまった死。


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鳥の巣

 鳥の巣を拾った。これでコレクションがまた増えた。
鳥の巣は前作でも詩情、哲学、宗教性を込めたモチーフ。
少しづつ世界の一部を摘んで形成していく世界、けれども
鳥の巣の本当の作り方は未だに分からない。それほど精密に
複雑に紡がれている。

そうなのだ。世界の核は未だに分からない。神がかり的だとも言えるし
未知なるものとも言える。

今回のものは、ビニールテープも巣の一部になっていた。

→本の紹介。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

Confession

私が孤独を書く事で誰かが孤独が癒えるのであれば、
私は惜しみなく孤独を書きましょう。
私が期待を書くことによって、誰かが夢を見られるのであれば、
私は消えたくなっても光を見つけましょう。
私が愛を書くことによって、誰かが愛について深く感じてくれるのであれば、
私は幾らでも告白をしましょう。
常にあなたに隠すことなく
何度も何度も 虚構に混ぜて
あなたに告白しましょう。
*********
円卓を囲って笑っているような信者は私のところに来ないが、外れてしまった信者はよく来る。そして私を知ると、また考え直したいと言われる。私の居場所は其処のようで。教会で笑わないことも、一人でいることも、このように意味があるのだなと思った。
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L’intuition De L’instant.






私の想像力は上書きされては捨て去って行く。それを忘却と人は言うのかもしれないが、私は瞬間と呼ぶ。残された過去情景はまるで永遠を夢見ているようだ。撮影は10年前、私が現象学を選ぶ写真となった。レンズとフィルム設定だけで偶然撮れたこの写真は、こうなると予見をせずに、香りが奮い立つように、花々が私の目の前に現れた。私が接近しないと、世界というものは私の意識内に形成されることがないのに、出来上がりは私の意識を超越していた。
まるでカメラが感覚質を持ったように、心を持ったようになったのだ。
此処には私自身の記録が無い。私がどんな格好をしていたのか、何を考えていたのか、どんな表情をしていたのか。覚えているのは杖をついていたことだけだ。杖が煩わしく、視線が今よりも低い。私が居ないことによって、私らしさとなった。人は瞬間に嘘をつくから、無理して笑うから、本当に記録を残したかったら、自身を消してしまうべきだ。
虚飾の無い純粋さが其処に生まれる。
L’intuition De L’instant.
I didn’t edit the photo these.




2018/02/17

It was love at first sight. At last sight. At ever and ever sight.


一目見 たときから愛していた、最後に見たときも、そしていつ見るときも、永遠に

ナボコフ「ロリータ」
香水のような描写。


恋の絶頂を表現した香水、香りで恋をどう表現したのだろうと作家として気になり、イブサンローランのモン・パリを試してみた。甘くて シャネルと違って女性を美しくするというより、空間を演出する、ムードを演出する香りだった。夜につけるのがお勧めかもしれない。イブサンローランのスモーキングジャケットがイメージのボトル。

香水は頂き物

朗報②

日本看護協会出版会の「教養と看護」という特設サイトにて「魂の世話」というテーマで連載をしています瀧本 往人様よりIcon o graphの評価を頂きました。瀧本様は哲学の講師ですので、こちらは哲学的な評価です。お忙しい中、ありがとうございました。とても感動する書評でした。

評価はこちら→

https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing

Icon o graph 案内はこちら→

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

Offret-Sacrificatio

「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」
 タルコフスキー・「サクリファイス」
*******
 物語の始まりは、アレクサンデルが細い木を植えるところから始まる。このときの彼の幼い息子への語りはこうだ。「正教会の修道院の僧が枯れかかった木を山裾に植えた。ちょうどこんな木だ。そして同じ修道院の若いヨアンに、この木が生き返るまで水を与えなさいと言った。ヨアンは毎日、山を登り水をやった。そして三年後に見事にこの木に花を咲かせた。一つの目的を持った行為はいつかは効果を生む。儀式のように順序よくやれば、
いつかは世界は変わる」と。
アレクサンデルの息子は口が利けない。
 アレクサンデルは死についてもこう語った。「死なんて存在しない。あるのは死に対しての恐怖だけだ」その後に友人で医師であるヴィクトルの家を訪ねる。そこで色々と語っている間に核戦争の非常事態の知らせがくる。死を自覚したヴィクトル家はパニックに陥る。まるでアレクサンデルが独白した通りのことが次々と起こってくる。その後に一番パニックになった夫人が落ち着いた後に言った「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」が今の私には胸に響いた。こんな死の淵に立たされても生きている限り、人間は常に為すべきことを意識しなければならない。
この台詞が生きてくるまでの映像表現が素晴らしかった。

物語の進行と共に、口を利けない息子が突然いなくなり、呼んでも返事が出来ないという恐怖の複線が秀逸。タルコフスキーの作品を見るときは見失わないために、名前と人格をよく覚えておくことだ。そして、この世界は夢現の境目がないように時制もあってないようなものである。前半の出来事が複線を引いてくることがあるので意識しておくと、見やすいだろう。
 昔のブルーレイ化されてくる中で、名作と呼ばれたハリウッド映画のセット感が目立つようになった。そんな中でタルコフスキーは最新の技術を使ってリマスターしても常に鮮やかに美しい。それは彼が根気強く自然の力を利用したところにもあるだろう。DVDも買ったのに、ブルーレイでも買いなおしたいという監督は少ない。

******

「お知らせ」

カミュの「異邦人」についてなのですが、9割は出来ましたけど出来かかったところで、サルトルも入れたほうがいいと言われ、また時間がかかることになりました。

ウェブのアクセス数が多い順、5番目ぐらいまでが書籍化されますので、気に入った作品があったら見ておいてくださいね。今のところダントツで、太宰治と三島由起夫となります。三島に関しては書籍用に掘り下げますが。







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現象学と巣

去年に出版したイコノグラフは私の想像と経験の結晶ですが、蓄積となった書籍はこんな感じ。現象学は、主にフッサール。ハイデガーは遅れてのスタートだった。日本語だと難解な言葉が多いことから、ドイツ語版、英訳版のみで連想を重視した。日本語版ではあまり持っていないものが多く、作品に登場したウンディーネとサロメもそうだったりする。フランス語版、日本語版と両方手に入れたのはシモーヌヴェイユぐらいかもしれない。
ベルクソンは日本語ですね。他の書籍は
Kindleに入っているので紹介は全ては
難しい。
一体、何の書籍を紹介すれば自分の作品がより分かるのだろうと、探していたら
今年の8月に、丁度良い本が出ていたので
購入した。
今作は、キリスト教要素を散りばめながら、私の思考の糧となったのは「現象学」だった。
あまり言い過ぎると、読者を混乱させるかもしれないのであまり言えないところだけど、
この一冊は今作の哲学要素を深く知りたい方にはおススメかもしれない。
「現代現象学」
経験から始める哲学入門
富山 豊・ 森 功次 著。
新曜社
ただ、わたくし
やはり小説家なので、詩情を優先に、
「鳥の巣」に魅入ったということしか
言えないものですね。
現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)https://www.amazon.co.jp/…/4788515326/ref=cm_sw_r_cp_api_SV…

カイエ

シモーヌ・ヴェイユの「カイエ」は二巻と四巻を持っている。中古のみの販売で、一巻と三巻は数万円まで高値がついてしまって買えない。安くても一万円は超えている。
フランス語か英語で探しても、新品でも一冊五千円はいくので、送料も考えるとなかなか手を出せないが、近いうちにフランス語は買おうかと思う。
 カイエとは、フランス語でノートという意味で、特別な意味は無い。ヴェイユが書籍になる予定なんて無い状態で書いたノートで、有名な「重力と恩寵」は、ギュスターヴ・ディポンの手によってカイエから纏められてある。
とりあえず欲しかったのはキリスト教考察で、丁度それが二巻と四巻だった。労働が一巻で、哲学と神秘神話が三巻のようで、
日本という国に感謝なのか、 キリスト教の濃い部分が安く買えたし、古いけど新品同様に読み込まれたような跡が無くて綺麗だった。
(元々一冊、六千円の本を三千円)
カイエにはカイエの良さがあって、重力と恩寵も纏められているから良い部分もあるかな。ノーカット版の映画と、編集後の映画を
見るような感じ。

Étant disciples de Jésus, les vrais chrétiens comprennent la nécessité d’être humbles.





「鳥は 道具を持たない 労働者である」
By. Jules Michelet (ジュール・ミシュレ)
*******
漸く、鳥の仮剥製を手に入れた。遠いフランスからやってきたクロサバキヒタキ(Oenanthe leucura) ツグミの一種で生息地は主にアフリカとスペイン。1930~40年製。
仮剥製は観賞用とは違って、学術用や研究用に作られた剥製なので、目などには生気を装うような細工はなく、死を残し、死を纏っている。
生きている姿を知っていると、それは悲しいことですが、仮剥製から出会うということは、死から始まっているので期待でしかない。 特に大事な人の死を数人経験し、愛犬が死んだ後は、この寂しくない死に惹かれずにはいられなかった。だからいつかは手に入れたいと思っていたので、漸く念願が叶う。

担当の書評にもあったように、悲劇の側にイエスがいるだけで読みやすくなるということが私の作品を通して分かったとあった。その事を思い出し、何気にロザリオやメダイを置いてみると、確かに安らぎを感じました。
次の作品は、詳細はまだ出せませんが鳥の仮剥製が出てきます。だからどうしても一羽欲しかったのです。 今度は殺人などの様々な罪に象徴詩学を重ねて、福音書に入りたいと思う。イコノグラフの軸でもあったマタイの福音書13章の種まきについて、(酒井神父様の書評)
マタイの福音書を読んだ人が、鳥の巣の話もマタイだったんだと、繋がりを感じてくれたりするので、私の仕事はそういうところなんだとは思う。

次回作は話は全く違えども、象徴には繋がりがあり、前作では肯定していたものを正反対の使い方をしてクロスさせる。担当からは、私のこと好きな人はそれを待っていると言われる。
この子の名前は フランスから来たので
ミシュレの言葉の「鳥は労働者」とあるように、哲学者、シモーヌ・ヴェイユの名をつけようかな。
それとも、映画「禁じられた遊び」のミシェルっていう名前にするか悩み中。

ちょうど良いボロボロな感じで、本当に愛おしい。

ロザリオも偶然にもスペイン製の1930年もの。
********
→生きているクロサバキヒタキの画像

→酒井神父様書評

→担当書評


心の中を流れる河

「しかし兄さんはそうはお考えにならない。それは兄さんが気が弱くて、臆病だからです。自分が臆病だから、ペテロまでも臆病者にしてしまうのです。(略)
兄さんのお説教を聴いて魂をゆすぶられたなら、わたしは悦んで洗礼を受けましょう。信じられたら、こんな『為合せ』(しあわせ)なことはないと、もちろんわたしだって考えています」
福永武彦 「心の中を流れる河」

********
  これは小品なので簡単に紹介するほうが良いと思う。
 門間良作は牧師であり、ペテロと自分を重ね、共感を寄せては、自分はペテロ以下だとペテロに拘る牧師だった。その理由は、戦時中に憲兵から教会を閉鎖しろと言われ、彼は教会を閉鎖することを選んだことにある。それでも信者達が閉鎖された教会に集まってきてしまったのだ。その度に憲兵に連れていかれるのは牧師である門間良作だった。
やがて、彼は牧師としては戻ることが出来ず終戦まで工場で働かされることとなる。そのときの弱さや、信者を残してしまったこと、その後悔を礼拝の場でペテロの話を準えながら語る。このシーンだけでも文学として読む価値がある。

 ペテロとは、主の教えに熱心に従い、イエスに「あなたは、メシアです」と初めに言った使徒だった。イエスは弟子達に自分の死が近いことと、彼らが主を見捨てると予告した。その中でもペテロは絶対に貴方を知らないとは決して申しませんと言ったが、最高法院でイエスが裁判を受けている間に三度イエスのことを知らないと言ってしまう。彼は、最愛のイエスを裏切ったことが悲しくて、激しく泣いた。その後、イエスの復活後にペテロはイエスに罪を赦された者として生きる決意をし、初代教会における有力な指導者となる。
  今回の引用は門間良作の妹、梢(こずえ)の終盤の台詞である。もしもこの作品を読むことがあるのなら、ここにも注目してほしい。省いてしまったのだが、「キリスト教の信仰は、本当はもっと強いものなのでしょう」と、洗礼を受けていない梢の強さと、キリスト教徒としての弱さを知らない言葉が色んな読者の胸を突き刺してくる。梢は洗礼を受けていない立場でありながらも、「ペテロが赦しを受けた者として導いたのだから、兄さんもそうしてよ、貴方の今のままの態度だったら、ペテロは弱いままよ」というメタファーを混ぜてくる。それは梢の意識とは関係無く、聖書世界の物語による秩序である。彼女は信仰を「幸せ」ではなく「為合せ」と使った。けれども、これが音として入るとするのなら、門間牧師の耳には「幸せ」と聞こえてしまったのかもしれない。何故、彼女は兄の説教を聞き、魂が揺さぶられるとするのなら「幸せ」ではなく、「為合せ」と使ったのか、為合せとは、自分がすることと、他人がすることが合わさることである。彼女にとってのこれは洗礼を受けていないながらも、確信している信仰なのだろう。

門間牧師は、その言葉をどう受け止めたのかは明確なことは分からないが、二人の帰り路は門間牧師の祈りへとなった。
*****
好 きな作家は?影響を受けた作家はと聞かれると、日本人の作家なら「福永武彦」だと答える。福永武彦と言われても分からない人が多いので、池澤夏樹の父親ですと付け加える。大体7割の人は池澤夏樹は知っている。そしてこれも付け加える。「私はでも、池澤夏樹は全くタイプが違うのです」と。
ただ影響を受けたといっても違うのは何度も読み込んだというわけではないことだ。彼の作品との出会いは予備校の模試の「現代文」の問題だった。そのときに出題されたのは数ページの「忘却の河」、私は初めて文学というものに心を打たれた。問題は回収されるタイプの模試試験で、私に残されたのは解答のみで、ずっと記憶の中で彼の文章が薄れながらも反芻していた。
彼の小説を買おうと思ったが、廃盤になっていて当時は買えなかった上に、ずっと長らく受験生だったので小説は後回しにしていた。(大学受験→司法試験の準備)彼の本を初めて買ったのは、一作品目を出版した後だった。
たった数ページしか見ていないだけではなく、彼の文章を覚えていたわけでは無かった。残っているのは印象のみで、それからインスピレーションを受けて私は私として成長させた。
後で、照らし合わせてみると彼との共通項は不思議と多かったことに気付く。神話、哲学、心理学、そしてキリスト教。 違うのは彼が福音派で、私はカトリックを選んだということだ。
だからこそ、読むときは集中して読むが、1年以上は間隔をあけて読まないようにする。変にコピーロボット状態になってしまうと困るからだ。けれども、彼と私は似ているところがあるのか、原稿をチェックする人は近しいということに気付いてくれる。
決定的に違うのは、私が現代人ということ、彼が「死」を語る作家なのなら、私は「生」の作家だということらしい。それでも、まだ私の姿は色んな人によって色々な印象を与えるようだ。心理テストでよくある自分と他人が認識する自己像の10項目は一致することが多いのだが、それ以降は色々。福永に似てないと言われればそれまでだし、似ていなくても別に構わない。
*
 武彦が意図して書いたのかは分からないが、この小品には文学者として
語れる範囲と、牧師や神父しか力を持たないものと分かれている。文章の表現の豊富さは文学者のほうがあるのは当然だが、「赦し」に関しては牧師や神父でないと力が無い。私もこの壁にはよくぶち当たる。この話は牧師は自信を失い、信者でない者が理想(あるべき姿)を語る。その意味に読む側としては気付いてほしいところだ。

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Dekalog episode8

「デカローグ」

第8話「ある過去に関する物語」
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」(訳は私)
私が、脇役のこの学生の台詞の意味が分かるのは、キリスト教徒になった後だった。

(解説と感想)
 物語の始まりは、一人の少女が大人の手に引かれて暗がりの中に連れていかれるところから始まる。キェシロフスキ関連の書籍によると、戦後のポーランドは、ユダヤ人の移民一世からは元凶であるナチスドイツよりも、ユダヤ人を見捨てた国として厳しい目で見られていた。
大学で哲学・倫理学の教鞭を執るゾフィアには、第二次大戦中ユダヤ人少女を匿うための洗礼の立会人なることを、「偽証してはならない」を理由に断ってしまった過去を持つ。
学部長のところに、自分のポーランド語の英語翻訳を担当している女性がアメリカから来ていて、
彼から、この女性がゾフィアの講義を聴衆したいと伝えられる。
彼女とは二度目の再会だった。
その女性がいる目の前で、ゾフィアは「人間は感情に捉われている限り、最も善きものを見て最も悪しきことをなす」と、スピノザの引用を語る。
一区切りがついた後、ゾフィアは生徒にテーマを出させる。
一人目に選ばれた女学生は、ある夫婦の話をした。”夫は癌で死にかけて子どもを作れない状態だったので、妻はどうしても子どもが欲しくて他の男との子どもを作った。妻は医者に何度も夫は本当に死んでしまうのかを問うが、この医者は敬虔なカトリック信者で「死の宣告」が出来ない。
妻は、夫が助かるのであれば子どもは堕ろすが、夫が駄目なのであれば産みたいと。なので、医者の死の宣告が赤ん坊の命を左右することになる”
(この話はデカローグの第二話に収録されている。)
それに対して、ゾフィアもその妻には子どもが生まれたという結末を知っていると話す。
「子どもが生きている、それが最も重要」と語ることに、エルジュビエタは強い反応を示し前に来る。
次の発言は、エルジュビエタだった。
エルジュビエタはあるユダヤ人少女の話をし始めた。
①その六歳の少女は、あるポーランド人宅の地下倉庫に匿ってもらっていたが、その家がゲシュタポに接収される。なので、大人達がその少女のための新しい隠れ家を探さなければならなかった。
②あるポーランド一家に受け入れが見つかるが、キリスト教徒になることが条件だった。そして洗礼をしたという証明も求められた。
③ 洗礼の名付け親(立会人)となる夫婦として、敬虔な信者である若い夫婦が選ばれる。そのための神父を外に待たせ、急いで事を済ませようとするが、妻は「偽証をしてはならない」という理由で断る。
その話を聞いて、一人の女学生が、
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」
と言うわけですね。
キリスト教徒じゃなかった頃は、法のようなものにも生じる矛盾だと思っていたのですが、これが結構な意味を持ちます。
**十戒とイエス**
イエスは十戒で定められていた安息日を守らなかったり、姦淫の罪を犯した女性を許したり、解放的な面がありました。
イエスといえば第一に重要なのは神への愛、第二に隣人への愛と二翼の翼となっていて、片方だけでは成り立ちません。やはり隣人への愛ありきなのです。
ですので、キリスト教徒なら恐らくこのへんを重視するはずですが、(戦時中は分からない)
この妻、ゾフィアは十戒の「偽証してはならない」を選んだ。確かにこれも重要ではあるが、断る第一の理由にしては説得力に欠けるし、違和感を覚える。この不可解なところはエルジュビエタも感じていていたのかもしれません。何故なら後に彼女はキリスト教徒となったようでしたので。(それは定かにはしていない)
やがて、真実を問うとゾフィアはあの当時、誤報に惑わされていて、その少女もゲシュタポ関連者だと知らされてあった。 洗礼に立ち会えば自分達も捕まると思ったと、漸く「偽証してはならない」は本心では無かったということが分かります。
それで結局、ゾフィアは「偽証」してしまったのです。ゾフィアは敬虔な信者だったが、「神という言葉はもう使わない」と、教会にも通わなくなり、哲学・倫理学の教授となった。心の中にいる善意を知っている一人さえいればいいと語る。 
彼女は罪を背負って今まで生きてきていた。子ども命が重要だと言うのも、この流れでエルジュビエタへの贖罪のように思える。
エルジュビエタは祈りの時間を作るほどのキリスト教徒となり、ゾフィアを許す。そしてまた自分と関わった人へ話に行く。
戦時中と戦後の善悪の基準の変化、感情に支配されてしまうと見えなくなる恐ろしさと、感情があるからこそ生まれる許しや、贖罪の念がこの55分の短いフィルムで、人間標本のように収められている。
この冷静と静寂の中に、時を超えても人々に想像される感情が詰まっている。
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「デカローグ」とは。
映画監督の巨匠、クシシュトフ・キェシロフスキが、旧約聖書の「十戒」をモデルに戦後のポーランドを舞台にドラマ化。ただし、十戒の正解に合わせたり、問いを生み出しているわけでもない。これはポーランド人が直面した倫理や道徳、哲学的問題に取り組んでいる。(1988年)
私は 命題の作り方とかは彼から学んだのかもしれない。

画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。


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酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

vision

(vision)
The wing veins are for the butterfly, its organ, nerves and also its bones. 
When drawing a butterfly, its wing veins must be drawn with precision, otherwise,
 it will only represent a butterfly unable to fly. 
Belief and philosophy are for me like wing veins. 
Creation is for me all about soaring.


Soaring is freedom predetermined by wing veins. 
There cannot be any other freedom.
*******  
蝶にとって翅脈とは器官や神経であり、骨である。蝶を描くとしたら翅脈は、正確に描かなければ飛べない蝶になってしまう。私にとって、信仰や哲学というものは翅脈である。私にとっての創作とは、飛翔によって成り立っている。
飛翔とは翅脈有き自由であって、それ以外の自由は在り得ない。 
——–
 飛翔と翅脈の組み合わせによって生まれるものと矛盾、この命題は蝶のように飛ぶ場所は決められないということ。私達、文学者はそうなのではないか。 

*7年前から決まっていたvisionを手直ししました。



オオルリアゲハの標本。角度によって青からグリーンにかわります。

         

Domine, quamdiu aspicies

In ipso [Deo] enim vivimus et movemur et sumus:
――我らは神の中に生き、動き、また在る。――
Acts 17:28(使徒言行録17:28)

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 バルザックのセラフィタで引用されていた箇所で、
意図的だったのか誤りなのか定かではないのですが、バルザックはこの箇所をラテン語で順番を逆にしていたようです。

In Deo sumus movemur vivimus.
(我らは神の中に在り、動き、また生きる)
何か一つ、これについて詩のような簡潔な台詞を添えようと思ったのだけれども、これだけでも完成されたような美しさがあるので、受け入れるばかりで何も閃きませんでした。
もう少し何か経験を積んだら私の言葉として動くのかしら。

The Childhood of a Leader①

映画に行った感想/ネタバレ含む)

「シークレットオブモンスター」
The Childhood of a Leader.2016年11月25日公開

「私」が認識している「私」と、他人から見られる「私」、主にこの「虚構世界」は他人の眼差しから構成された「私・少年」だった。大人達はよくこの少年を「お嬢さん」と間違える。

サルトルの基本を少しでも読めばこの構成にはすぐに気づくはずだ。でもこの気づきはきっと入門に過ぎない。

観客にとって少年の主観に関する情報は「ママがいなかった」という夢、時々現れる歪んで焦点の合っていない景色、女性家庭教師のドレスから透ける胸、と少ない情報である。元々、現代知識として分かっていたことは、独裁者(指導者)のような人間が形成される因果関係は完全にはまだ分からないということだ。

現代人はそんなことは既に分かっている。

それを虚構でもいいので突き止めたいという人にはこの映画は向かないのかもしれない。この話は何か特別な非情さや残酷さもなく、情念も愛欲の熱もない。時々、母親が母性を見せ、少年が笑顔を見せるがすぐにすれ違いが生まれ、噛み合わず、人の肌の温もりが長く続かない。

それは体温が無い映像ということのだろう。

少なくともこの映画は、体温が無いということに関しては成功しているのかもしれない。

****

 外では戦争があるというのに、この家庭は古典絵画世界のような安定や均衡が保たれ、貧しさもなく、高価な家具や調度品に囲まれている。確かにあるのはこの美しい静物達である。

①その中で少年の味方だったお手伝いさんを母親が勝手にクビにした。

②少年は自分の部屋に閉じこもり、勉強する。

③少年は自分を叱った女性家庭教師をクビにした。

④少年は部屋の中で内面世界を維持しようとするが、
それでさえも、「叱るため」に父親はこじあけようとする。

それから、少年が大勢の食事の席で椅子の上(座)に立ち、

「もう祈りなんて信じない」と何度も叫んだシーンは
少年の居場所は他人達の視線、時代の思潮によって椅子のように狭くなっていたことを表しているようだった。

私はそこで「可哀想」だと思った。けれども私のこの「可哀想」という眼差しはその少年を説明するものでは無い。

私は視線ではその少年を追えるけれども、その少年を語れない。

「私」がこんな少年を見たのなら、それも正解だと言える。

恐らくこれも正解ではあるけれども「感想」というものが、いつまでも本質に近づかず、その本質を掴もうとすると、曖昧というのは拭い去れない。 

「あそこのシーンで泣いたね」「少年はかわいそうだったね」なんて単純に語り合えない。

分かち合う、語り合うとそれだけで理解による熱が生まれる。そうすると、一瞬でこの話の冷たさという本質が変わってしまい、この話から離れていってしまうような気がしてならない。

可哀想だと思った少年は、結末として指導者になった。その可哀想という感情はすぐに虚構世界の終わりと共に消えなければならない。

追記

公開から時間が経ったので、
新しい感想を書きました。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/02/blog-post_5.html

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感情を持つことによって、話の本質から離れてしまいそうな気になる。私のこの感情は話を読み解くための味方なのか、邪魔なものなのか、この「問い」。この感覚が駆け巡ることが非情に面白いと思った。

映画館で見てよかったなと思う。

◎サルトル著、指導者の幼年時代は読了済み。

◎映画館で一度見た感想なので、原作と比較して本当は色々気づいたことがあったけれども確かかどうか分からないのでこの程度で。

◎この映画は原作から着想を得たということなので、原作を匂わせる箇所は
ありつつも、違う話。(まず主人公の名前が違う)

◎不満を言うと、映画館の椅子が痛かった。

◎スコットウォーカー(Scott Walker)の音楽が良かった。

独裁者になる条件とか因果関係というのは私は答えは出ないと思っている。ジョハリの窓でいえば「未知の窓」(他人にも自分にも知られていないこと)がどのように表現されているかだと思う。登場人物、観客も含めて具体化出来ない闇の映像表現がよく出てて凄かった。

◎サルトルは父親が早く死に、抑圧が無かったために天使のような子だったという。
恐らく、原作共に自伝的な話なんだろう。

画像:https://www.google.co.jp/search?q=The+Childhood+of+a+Leader&espv=2&biw=1920&bih=1012&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjHoPDtmdzQAhXLGpQKHSlIAB8Q_AUIBygC

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