夢の話

 三島由紀夫が出てくる夢を見た。第一作の冒頭の詩を誉めてくれた。第二作はまだ読んでないと言った。でも冒頭の「私達は愛の裏で動いていた」というのは非情に美しいと誉めてくれた。第三作の類稀なる誠実な病は「この裏切った神父に手加減した感じがする、もっと洗いざらい書いたほうが面白いのではないか、醜いぐらいに」と言われた。確かに、発売直後に宣伝も全部、手加減をし彼を許してしまった。宣伝方法も変え、神父がどの神父か特定出来ないようにしてしまった。私は言った。「もう彼は悪くないんです、私も悪かったので彼だけを悪者には書けないのです」と言った。それに対して、三島はそれは間違っている、彼はもう存在していないつもりで書いて、作品の完成度だけを見つめていろ。作家として宣伝しろと指摘して、私に出なおしてくるように言った。(2019年04月26日の夢)

意識がしっかりし始めたのは三島の肉声を聞いた後だった。

何が正しいのだろうか。

Pangaea doll 新聞社に紹介される。文学雑誌@bookport(廃刊)に2010年の一番星に選ばれる。千部売り上げる。数々の専門家に評価される。ドゥルーズの器官泣き身体、卵と評価される。ヨハネの福音書 15章18節、他黙示録(乙女と竜)


Iconograph    瀬戸内寂聴、松本准平に楽しんで読んでもらう。キリスト教徒として最初で最後の作品。数々の専門家に評価される。芸術寄り。5千部売り上げる。数々のメディアに紹介される。amazonでも公式ページを作ってもらう。北仙台教会がモデルに一部使われている。他はドイツの教会がモデル。女子パウロ会に評価される。マタイの福音書13章。ヨハネによる福音書14章 


類稀なる誠実な病
 まだ発売したばかり。Kindleのみ。賛否両論別れ、女性層F2に支持されている。男性の醜さを表し、女性の愛さずにいられない性分を表している。堺教会がモデルに使われている。マタイ福音書1820
『二人、または三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである』
紹介youtube再生回数1ヶ月で2万回超える。



Pangaeadoll 
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類稀なる誠実な病

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Icon o graphという理想

  私は4年間カトリックに在籍していた。その間、実はまともな神父に出会ったことがない。「神父から」恋されることも多かったし、断ると口を利いてもらえなくなった。一人、付き合うことになったら、彼は自分の立場が危うくなってくると私を簡単に捨てたので、私は自殺未遂を図る。


 
第一作品目のPangaea dollは特殊な詩的表現が強く、読む層を特定出来ないが、この世から見捨てられたような感覚、主人公の不安定感というのは共感するだろう。

Iconographは主人公の川村光音と、準主役の羽根が理想的な人格を持っている。なので醜さを感じないまま、この世界の透明感を堪能出来るだろう。


第三作目となる「類稀なる誠実な病」は第一作品目の「pangaeadoll」の実際の体験をフィクション世界に転換させ、追求したのとは間逆に、ノンフィクションに寄っている。もしもこの作品に嫌悪感を感じるのなら、これがカトリックだと私は言いたい。だから批判も私にとっては肯定になってしまう。何度も言うがカトリックを選んだ人は善意を捨て、私を捨てた。これが現実だ。私の教区ではこれしか現実がなかった。(酒井司教を除く、彼は善人であり常識人だった)


貴方はどの世界から体験しますか? 


Pangaea doll 新聞社に紹介される。文学雑誌@bookport(廃刊)に2010年の一番星に選ばれる。千部売り上げる。数々の専門家に評価される。ドゥルーズの器官泣き身体、卵と評価される。ヨハネの福音書 15章18節、他黙示録(乙女と竜)


Iconograph    瀬戸内寂聴、松本准平に楽しんで読んでもらう。キリスト教徒として最初で最後の作品。数々の専門家に評価される。芸術寄り。5千部売り上げる。数々のメディアに紹介される。amazonでも公式ページを作ってもらう。北仙台教会がモデルに一部使われている。他はドイツの教会がモデル。女子パウロ会に評価される。マタイの福音書13章。ヨハネによる福音書14章 


類稀なる誠実な病
 まだ発売したばかり。Kindleのみ。賛否両論別れ、女性層F2に支持されている。男性の醜さを表し、女性の愛さずにいられない性分を表している。堺教会がモデルに使われている。マタイ福音書1820
『二人、または三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである』
紹介youtube再生回数1ヶ月で2万回超える。


:カトリックとしては正しいのかもしれない。
善意は働いていない。善の墜落である。


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瀬戸内寂聴様より

 私の出版作「イコノグラフ」をあの仏教で有名な瀬戸内寂聴様に読んで頂けることになりました。感謝感激とはこのこと。とても嬉しいです。

出版作紹介
http://chriskyogetu.blogspot.com/2016/07/icon-o-gprah.html

あと私事ですが体調が良くなってきました。動画をGIFにかえないと載せられないので
すが、少し面倒なので静止画と動画のリンクを。自分なりに目に生気が戻ってきたなと
思います。

動画→https://www.instagram.com/p/BnvDNMGjoEg/

Ophelia

Well,  God yield you!  They say the owl was a baker’s daughter. Lord, we know  what we are, but know not what we may be. God be at your  table.

――ありがとう、God yield you!  フクロウは元々はパン屋の娘、イエスから罰で姿を変えられたの。でもわたくしは違うのよ、こんな姿になってしまったのは。ねぇ、王様。私達は先のことは分かることは出来ないのよ、God be at your table.

–Ophelia

A document in madness, thought and remenbrance fitted.
――侠気にも教訓があるというものか、物を思っても忘れるなとでも言うようだな――

–Laertes

Hamlet 


Act4 Scene4







 私が持っているのは英訳のシェークスピア全集で、触り程度にしか読んでいなかったのですが、最近になって(2017年4月)真面目に読んでいた。和訳版を読んだ人と話していると牧師の話になったが、私は牧師なんて出てきた覚えがなくて再度見てみると、Priest(大体、司祭と訳する)になっている。

一瞬、思考が停止したが「あ。イギリスだから聖公会か」と繋がった。 聖公会の場合はPriestだが、日本語訳は司祭でも牧師でも良いと聖公会の公式ページに解説があった。カトリックとプロテスタントの「中道」だと掲げてる聖公会。他にも和訳ではカトリックのようにミサや聖歌と訳しても良いし、プロテスタントのように礼拝、賛美歌でも構わないらしい。そうは言ってもやっぱりシェイクスピアはなるべくなら英訳のほうが良い気はする。特に頭がおかしくなったオフィーリアの台詞は、古いイギリス英語で読みにくいものはあるけれども、英訳をそのまま飲み込んだほうがイマージュは湧く気はする。

God yield you! やGod be at your tableは翻訳をせずにそのままにした。

特に“God be at your table”について。私はやはり最期の晩餐をイマージュするが、それがどう聖書の意味が繋がるとかは考えてはいない。理由はオフィーリアは病んでいるからだ。 それでも和訳になると意味が限定されてしまって、侠気に詩情が消失し、ただ現実味が増して虚構にした意味が無くなる気がしてならない。God yield you!は、挨拶言葉では
あるだろうが、直訳すると「神が貴方にもたらした」となる。

 オフィーリアと言えば、夏目漱石の『草枕にも使われたラファエル前派のミレイの「オフィーリア」』の絵画が有名だけれども、私は一度だけ十代の頃に展示会を見たことがある。残念なことに、ラファエル前派に見られる哲学の「見える」ということは「知っているということから離れられない」というのに当てはまるかのように、オフィーリアに散りばめている「野の花」が偶然の産物にしか見えなかった。(解説があったのかもしれないが確実に私は見落としている)

****

 OpheliaとLaertesの台詞を並べたけれども、これは繋がっているわけではない。登場人物の入れ替わり、シーン切り替えはあるが、原作上同じ場面、オフィーリアの侠気への台詞である。オフィーリアのフクロウの台詞は興味深かった。フクロウとは夜行性のせいか視力が弱いと思われがちで、恐らく、シェークスピアの時代はそう思われていたのかもしれない。どちらかというと、フクロウで特徴的なものは「鳴き声」であり、智慧ある鳥という見方と、不浄の鳥という見方がある。古今、作家ではフクロウの鳴き方を死の予言かのように仄めかす話も多い。けれども実際、見え方が違うだけでフクロウは視力が弱いわけではない。弱いのは色の判別であり、遠くのものを見ることが出来て、近くのものが苦手、両眼視と単眼視の性質を両方持っている。この性質と、Laertesの台詞は科学を先取りしたかのように 一致しているということになる。

ミレイの絵画のオフィーリアは赤や青の「ケシの花」を散りばめて水に浸かっている。
 ケシの花、「野の花」で有名な聖書の箇所は詩篇の「野の花のように咲く、風がその上に吹けば、消え失せ、生えていたところを知る者ももはやない」(詩篇:103、15―16)の、地上的、現世的な一切のものの移ろいやすさも意味するし、「何故、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない」(マタイの福音書6:28)の有名な「思い悩むな」というイエスの言葉も意味する。両方、意味するからこそこの、ミレイのオフィーリアの死は一枚の絵画として意味をする。

オフィーリアを死に追いやった一番の原因は恋人のハムレットが自分の父親を誤って殺してしまったことである。そのハムレットは過去に「自殺」について宗教性を意識して思いとどまっているのに対し、オフィーリアはイエスの言葉を抱いたまま侠気へと陥り、水の中へと身投げする。 

ミレイの絵画は思い悩むなといったイエスの言葉が届かなかった死のように見え、移ろい易さという現実味も出しているが、何よりも、「私がフクロウのようになったのは、イエスの罰ではない」と言ったフィーリアの台詞が胸に来る。

それは暗闇の中で鳴くことなのか、本当は見えているということなのか、
それは水底のように届くことのない真実だけれども、
ミレイのこの絵画について、ある人が面白いことを言った。

「どんなときでも、オフィーリアのように身投げした人間にも神の御言葉はついてくる、この絵の草花は聖書の言葉なんだ。人間劇を情熱とか人間の力だけだと思っているシェークスピアファンに言ってやりたい」

この言葉は過激なのかは分からない。プロテスタントだったこの人はもうこの世にいないけれども、あの頃の記憶は薄らいでいて、感覚もこの頃と変わってしまった。きっとその人に似たような話には二度は惹かれないのだろう。

それでも、確かにこの時に調べたイエスについては私の心に残った。 赤や青のケシの花、オフィーリアを囲む名前もよく分からない野の花と共に。

*God yield you!をお陰さまで、 GodやLordをイエスと訳することについて、他の翻訳について。持っている英訳版の解説書に添って訳しました。

(2017/04/02)

top画像→https://www.pinterest.jp/pin/161074124153958774/

Icon o graph 2

セガンティーニ・悪しき母たち

家族が連れ去られた後、私は平然としてセガンティーニの絵画を見に行った。

 本当に平然としていたのだろうか。遺体が見つからないまま、テレビでやっていたこの絵画展の紹介に吸い寄せられた。――――雪の降る町だったから――――。そんな私が目を閉じると繊細で冷たい布が自分を包むようだった。優しくはない布。纏わりつくようで、水を吸ったように重たい。それはまるでこの二枚の『悪しき母たち』の衣装のようだ。まずは青の章、そのブルーは闇のようで、闇になりきれていなかった。太陽の光を失っても青の色に留まり続け、表情を失いながらも女という形を浮かび上がらせる。

女であるということ、その死にきれない光が灯っているように思えた。夜明けの章、ブルーの闇が終わり、日が昇ろうとしている光景、曇り空の雪景色、あの足を降ろしたらどんなに冷たいだろうと私の足を凍らせる。悪しき母は枯れ木に吊るされ、樹形に歪さを与えている。淡い濃淡の中、樹影という移ろう存在に逃げることが出来ず、夜の闇に暈されることもなく露骨に肉体が現れ出る。日が昇ろうとしているのは嬰児殺しの女が赤ん坊に乳を与え、母になったことに対しての赦しだと聞いた。


それでも、この瞬間はまだ、完全に赦されたわけではない。見せしめから、赦される存在になろうとする瞬間、魂が昇天する寸前、天の光が空遠のことではなく、近くまで来ているということ。
 
 赦しとは哀婉――――


(Icon o graph 白夜の章)

本の紹介→

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

販売→https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781976279713




3/11


イコノグラフの舞衣の親が亡くなった震災というのは、時制が近しいのですけれどもモデルは 3/11じゃないとは前にも話したことがある。元々、そういう設定で書いてたまたま被りました。だからこの世界全体がフィクションですね。

モデルはヘルマン ヘッセの
「別な星の奇妙なたより」(メルヒェン)


身のよだつような不幸、恐ろしい雷、
雨と嵐と大水を伴う地震が三つの村に起きたが、

死者をおおい、その墓地を適当に飾るために必要な花が全くなくなった。

というところ。セガンティーニの絵が来たタイミングも一緒だった。(2011年)
けれども、悪しき母たちは来ていないようだ。現実に近いようでやはり虚構。

鳥の巣

 鳥の巣を拾った。これでコレクションがまた増えた。
鳥の巣は前作でも詩情、哲学、宗教性を込めたモチーフ。
少しづつ世界の一部を摘んで形成していく世界、けれども
鳥の巣の本当の作り方は未だに分からない。それほど精密に
複雑に紡がれている。

そうなのだ。世界の核は未だに分からない。神がかり的だとも言えるし
未知なるものとも言える。

今回のものは、ビニールテープも巣の一部になっていた。

→本の紹介。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

朗報②

日本看護協会出版会の「教養と看護」という特設サイトにて「魂の世話」というテーマで連載をしています瀧本 往人様よりIcon o graphの評価を頂きました。瀧本様は哲学の講師ですので、こちらは哲学的な評価です。お忙しい中、ありがとうございました。とても感動する書評でした。

評価はこちら→

https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing

Icon o graph 案内はこちら→

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

酒井俊弘司教様

去年、出版しました書籍の書評が届きました。今回の紹介はカトリックのオプス・デイ属人区司祭、酒井俊弘様です。酒井様は、俳句で新聞にも載られたことがある方です。私の作品は今回は「世界は鳥の巣」という詩学を選びましたので、鳥が身近なもので巣を作るためのパーツを集めるかのように、詩情、哲学、宗教と集まっていきます。
 
酒井様は、仲の良いYシスターの紹介で知り合いましたが、偶然にも以前、ご一緒した映画監督の松本准平さん(まだ、人間。最後の命。パーフェクトレボリューション)
とも知り合いだそうで驚いています。
 
他の方の書評は既にホームページにも出していますが、また改めて後日紹介したいと思います。
 
今後ともよろしくお願いします。
掲載は全て酒井神父様より許可を頂いております。
 
ChrisKyogetu 
 
 
******
 
ICON O GRAPH〔イコノグラフ〕ChrisKyogetu
 様式や内容によって分類されたものをジャンルという。世の中のすべてのものは、ジャンルによって区分され得るわけだが、ジャンルが先にあるのではなく、個々の方が先に存在する。それゆえ、個々のバラエティーがジャンルにぴったりとマッチするわけではない。例えば、私はカトリックの神父だが、プロフィールを記入する際にはいつも職業欄で悩んでしまう。「カトリック司祭」はもちろん「聖職者」というジャンルが設定されていることはまずないので、「自営業」か「その他」をチェックすることになる。
 
 
ChrisKyogetuの小説ICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕を既存のジャンルに当てはめるとすれば、西暦2020年前後を舞台にしているという点から「近未来SFファンタジー」となるのだろうか。今年のノーベル文学賞受賞カズオ・イシグロを想起させるような、次から次へと場面が入れ替わっていく中に人々の心情が展開されていくスタイルからは「印象派近代文学」とも呼べるだろうし、作品全体に散りばめられているキリスト教的要素からは「キリスト教新文学」と呼べるかもしれない。言い換えれば、既存のジャンルには収まり切らないユニークな文学作品だということである。
 倉島真希の死から始まり、同級生の主人公、川村光音(コウネ)を中心に、羽根洸希(コウキ)、教師の筒井舞衣を軸に、天文時計をシンボルに持つ学校を舞台に物語は進んでいく。登場人物たちの心のひだを繊細な文章で綴りながら、単なる時計ではない天文時計や、フギン(思考)とムニン(記憶)と名付けられた二羽の機械仕掛けのワタリガラスなど、不思議な品々が物語の色彩を深めていく。
全体を貫くテーマは、男女の愛だとも言えるし、一人ひとりの救いだとも言えるだろうが、文学的な評価はその道の専門家に委ねるとして、神父という立場から評するとすれば、著者があらすじで引用する聖書の一節がキーになる。

 「マタイの福音書13章、神の御言葉である種が育つための土地の条件の問いかけ、植物の『生長』への詩情、その生長を摘み取り、物語世界は鳥のように巣を作っていく。」(巻末の「あらすじ」より)
マタイの13章1節から始まる「種まきのたとえ」では、道端や石地や茨の中に落ちた種が実らなかったのに対して、良い土地に落ちた種は成長し、30倍、60倍、100倍となる。イエス・キリスト自身が、その種とは「御国の言葉」であると説明している。
 

 ICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕における「種」は何なのだろうか。死んでいった真希の残したものか、川村光音と羽根洸希と筒井舞衣との間を通い合う心なのか、あるいは天文時計やワタリガラスが暗示するものなのか。それを見つけて、自分の心の中で実るまで育てていくことこそが、読者に求められているのかもしれない。
 
 
キリスト教文学と呼ばれるジャンルの著者たち、たとえば三浦綾子や曽野綾子、遠藤周作や加賀乙彦といった作家が描く作品の中のキリストは、彼らが捉えるそれぞれのキリストの顔が見え隠れする。ChrisKyogetuの描くキリスト像、あるいはキリスト教の姿はどんなものであろうかと言うと、このICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕では、まだまだそれは明晰でない。言わば、いまだ顔のないキリストである。まとまった作品としての処女作であるICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕には、著者が表現したい多くのものがあふれているが、それゆえに、言わば万華鏡のような作品となった感は否めない。けれどもそれこそが、これから著者が紡いでいく作品において、その奥深く豊かな内面世界がさらに研ぎ澄まされて読者の前に展開されることを期待させてくれる所以である。
 
 
2017年11月26日
 酒井俊弘
●あと、何か印象に残った箇所はありますかという問いについての
 酒井神父様からの返信の一部です。
 
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作品の中で一番心に残った箇所…難しい質問です(笑)。書評にも書きました通り、万華鏡のような作品ですから、そのかけらを一つというのは、難しいです。あえて一か所なら、84ページの最後の3行、ことに最後の一文です。
『そうなるとこの部屋は帰る必要がない抜け殻のようになった。』
私は少し俳句をたしなみますので、簡潔平明な言葉遣いを通してどれだけ詩情が伝えられるか、に興味があります。羽根の作った靴だけをもって飛び出した舞衣の覚悟と真実さ、たくさんのものが残された部屋の空虚感が、この短い表現で表されていると感じました。また、聖書の中のエリコの盲人の振舞い、「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た(マルコ10,50)」という場面も思い出したこともあります。
 
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 酒井俊弘 オプス・デイ属人区司祭
(書籍案内)内容はどちらとも変わりません。
窗体顶端
 

駆け込み訴へ(太宰治)








銀貨30枚を落とすユダ





イエス:「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」

ユダ:いいえ、私は天の父にわかって戴(いただか)かなくても、また世間の者に知らされてなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになって下さったら、それでもう、よいのです。

イエス: 禍害(ワザワイ)なるかな、僞善なる學者(ガクシャ)、パリサイ(ファリサイ)人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど内は貪慾と放縱(ほうじゅう) とにて滿つる(みつる)なり。(マタイの福音書23章25節)

ユダ:「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、
いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。いただきましょう。


私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ(略)
はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」


駆け込み訴へ(訴え)( 1940年 )―――太宰治 
(誰の台詞か分かるように人物名を入れました)


はじめに


「駆け込み訴へ」はイエスという名前は一度も出てこない。全編を要約すると、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴なのです」誰か分からない語り手から話は始まります。ペトロやヤコブへの悪口、文語訳の聖書の引用によって、読者は次第にこの語り手がユダではないか、あの人とはイエスではないかと思うようになります。そうして、有名な銀貨30枚を受け取るシーンとなる最後に語り手が「私の名は・・・・・・イスカリオテのユダ」だと名乗ることによって彼が愛して憎んだ「あの人」とはイエスだと確定する。
この作品は太宰の口述を妻が書き取ったものである。妻の証言によると太宰はこれを語る際、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言いなおしもなかったという。(推敲の末)妻はこのことについて、「畏れを感じた」そうだ。
それはまるで ユダに成りすましたと言えるのかもしれない。

聖書の脚色


 私は自分の出版作では、オスカーワイルドの「サロメ」を扱った。これも聖書、新約聖書の戯曲化、脚色であるが、オスカーワイルドは脚色しても良い場所を上手く選んだ。サロメとはマタイの福音書14章で、洗礼者ヨハネを監禁していたヘロデ王が、彼を殺そうと思っていたが世が支持していたため、ヘロデ王はヨハネを殺せなかった。ヘロデ王の誕生日に、ヘロディアの娘が皆の前で踊り、母親にそそのかされ、洗礼者ヨハネの首を盆に載せてくださいと言った。ヘロデはヨハネの首をはねるように指示をし、ヨハネの弟子達が遺体を引き取った後、イエスのところへと報告をした。このシーンをオスカーワイルドが、ヘロディアの娘を「サロメ」とし、洗礼者ヨハネを見つめる視線を恋のように準え、サロメに焦点を当てた。これは単に、「首が欲しくなるほど人に恋をした」と言わせるような話ではない。そんな感想は「思春期」で終わりにして欲しい。
 ヨハネの死の後のマタイの福音書15章、イエスはこれを聞くと、船に乗ってそこを去り、ひとり人里離れたところへと退かれた。私の作品ではこれをイエスの哀しみであり、サロメはイエスの哀しみを作ったのだと登場人物、川村光音の考えとして語らせた。 サロメの素晴らしさは、サロメをいくら語ったところで特に聖書解釈に大きな影響を与えないところだ。 それに加え、手に入れてはならない神秘に人が近づこうとするとどうなるのかというのを痛々しいほど語っている。サロメの影響でマタイの福音書14章から15章をまたぐ際に、私には文字と文字の隙間、虚空とも言える空白にヨハネの死が響いているように見えた。私はオスカーワイルドに脱帽した。オスカーワイルドは自身の癖や痕跡はサロメの台詞に残しつつ、自分自身の声を消すことに成功している。
 それと比べてみると、太宰のユダはサロメのような戯曲(演劇)ではなく「落語」のようなものなのかもしれない。落語は語り手は一人であり、登場人物への感情移入も6、7割程度で、話り手を重視する。そして大体の落語は有名な「饅頭怖い」のように、人間の内面を深く書くことはあまりない。落語の掟であるのなら、この作中のユダの心の内はいくら語れども深みなんか無いという結論になる。後戻りが出来ないような罪を犯した場合、世の声とはそうなるので、調子者、落語調にしたことは秀逸だと思う。
例えばこんな語りがある「ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集まり、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたのなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ」 これを朗読するとするのなら、落語のように少し軽快な喋り方が良い。演劇のように全身で捻くれたユダになりきってしまうと誇張しすぎてしまう。落語まで笑いを取るところまでいかなくても軽快さ、少々そのような調子が必要だと思う。
 確かに、ユダはイエスに期待していたが、イエスはユダが思ったような行動をしなかったのでユダは失望した。そういった心情は聖書からも読み取れるが、太宰のように「馬鹿な奴らだ」と、ここまで語られると、ユダの真の内面を言い当てたと言い難い。やはりこれは「太宰」(語り手)の声なのである。この調子者のような語りが余計に人間の不安定さ、哀れさが表れる。 この「駆け込み訴へ」のユダは太宰治の声であるからこそ、人間各々の不安定さが反映される。そうなると、実はユダらしくなるのでは? と、妙な言い方になってしまうが、今の自分には納得出来るものがある。

太宰とキリスト教



 太宰治も麻薬中毒者でフラつきながら、当時はまだ希少だった「聖書知識」のバックナンバーを借りたいと悲鳴のようなハガキを送ったりしていた。(桜桃とキリスト・長谷部出雄から参照)彼は他の宗教よりもキリスト教のほうに入れ込んでいるところがあった。洗礼は受けていないが、自分は父である主から見られていて、自分の罪は記録されているという意識があった。若い頃からカルモチン(睡眠薬)で自殺を試みる彼は、求めていたのは救済というより、戒律と己を比較して己の心の汚穢(おえ)を見つめていた。
オスカーワイルド「サロメ」との類似点は、人間の不安定な感情によってイエスの光が浮き出るということ、若しくは逆にイエスの光によって闇が濃くなるということだ。太宰のこの話は、ユダが口語体となって、卑しく書かれていることによって、イエスの文語の言葉が輝いて見えるようになっている。
ユダが「あの人」とイエスへとおくる視線は、ユダの心の内が混沌とすればするほどイエスが穏やかに見える。太宰は引用する聖書、マタイの福音書23章を敢えて古い文語訳にし、「禍害(わざわい)なるかな 偽善なる学者、パリサイ人よ」 と、文語ならではの淀みの無いリズミカルな魅力を引き出している。
 作品だけではなく、私生活と並べられて見られることは小説家として名誉なことか不名誉なことか、失礼になってしまいそうだが、この作品はまだ太宰治と妻との共同作業だったことで私は注目した。後に愛人となる太田静子や山崎富栄と出会う前の作品であり、そういった嵐の前の静けさのような作品だったということが私の中では魅力だと思う。夫婦愛に価値を重んじて言っているのではなく、何故、彼がユダを選び取ったのか、彼自身が自分の先を察知しているような魂の予感のように思える。妻はどの程度、夫のことを分かっていたのかは分からないが、それぞれの不安定な魂が人間郡となっている最中、この作品の影響で彼等の人生は文語訳の聖書が一本筋となって流れているように思えた。 

深みが無い哀しみ


  女から見た太宰と、男性から見た太宰、そして太宰と共に情死した富栄の父親から見た太宰、それぞれの証言が残ってしまっているからこそ、彼の発言の中に筋がなく、まるで実体がないように思われる。愛人、静子の子どもに太宰は、本名「津島 修治」の冶(はる)の名前を与えた。その命名と文(フミ)には誠意と謝罪が込められている。山崎富栄はそれに腹を立て収拾がつかなくなってしまったものだから、太宰は、「静子は所詮は「斜陽」(作品名)だけの女で、本当に愛しているのはお前でお前には「修」の名前を残す」と言った。修とは偶然にも、富栄の死んだ夫の「修一」と名前が重なっていた。
二人で死んだ後に、太宰は妻宛てには妻を一番愛していたと遺書を残してある。残された富栄の父親は、太宰とはどんな男だったのかと彼の書いた本を見たら、自殺、心中、薬、女、それだけの話しか書かない男に見え、愕然とした。太宰とはどんな男だったのか、証言が多ければ多いほど実体が分からなくなっている。
ユダは聖書では最後に後悔しお金を返しに行くが受け取ってもらえず自殺を図る。ユダが受け取った銀30枚とは奴隷を買う賃金と一緒だった。
「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、 いただきましょう」
・・・・・・ 「いいえ、ごめんなさい。 いただきましょう」
 
太宰の中のユダはこんな人だった。
 イエスを愛していたユダ、愛するが故に、独占したいが故に、どうせ彼が死ぬ運命なのなら自分がやってしまいたい思う。些細なことでいいのに、あの人は認めてくれない。だったら、売ってしまえ。いいや、私は商人だ。愛? そんな事考えちゃいない。ただ金が欲しかった。
いえ、愛していました。お金を返します、うけっとってもらえませんか、 じゃぁ死にます。 あの人を愛していたのに売ってしまった。 
やっぱり違います、ただ悪いことをしたということが居心地が悪くて死ぬのです。
もしも、太宰のユダが最後まで語るとしたらこんな感じじゃないだろうかと思う。きっとこのユダは愛という着地点につくことが出来ない。ユダの流れ着きたかった場所は何処だったのか、心理学では定立と反定立は共存すると認めていている。人間とは思考があり、神のように「主体」ただ一つではいられない。人間とは自分という主体と他人という客体によって関わりを持つ。主体一つの神と比べると、人間とは不安定な生き物である。
死ぬ気で恋愛しないか・・・・・・「人間失格」「グッド・バイ」

「子は親よりも大事、と思いたい。

子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、
何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ」(桜桃より)

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、

生きていさえすればいいのよ」(ヴィヨンの妻)







 太宰治とは学校でも「走れメロス」以外はあまり薦めない作家だった。それでも日本人としては知ってないと駄目だという暗黙の了解があった。昔は夏になれば「太宰治フェアー」があって、塾の講師が「夏になると、受験生は太宰の人間失格を読んだりする」 なんて冗談を言う。「太宰は自分勝手な人だった」と言う人もいるし、 「太宰は自己愛だけだ」という人もいるし「古事記では自殺した神もいるよ」「賢い人は考え過ぎるから自殺するのよ」と言う人もいた。 過去にまともだなと思った意見は「当時の薬って質が悪いから。薬のせいかもよ」 というものだった。でも、大人になると日本という国だけに限らず、人の生死の価値観は然程そこまで変わっていないように思える。自殺が多い国、少ない国という統計だけを見ても、少ない国が思想が立派で優れているということでもない。
戦前、戦後の時代、作家・芥川龍之介、太宰治、の自殺や情死は若い男女のインテリ層に刺激を与えたようだ。太宰と一緒に死んだ富栄の遺族は彼女の名誉回復のために彼女の日記を公開したが、批判が殺到した。皆、生きるのに必死だった時代に浪漫に翻弄されて好き勝手死んだようにしか思われなかった。それとは反対に太宰と富栄は浪漫の憧れともなった。先月まで当時、本当に自殺をしてしまった17歳の若い男性の日記を関係者から借りていた。彼もまた太宰・富栄のことを気にしている日があったようだ。内容は事情があって触れない。
インクの滲みで潰れてしまって読めない字もある中、日記だけでは実際の行動へと移る因果関係は分からないままだった。文学がそれを誘発したとは言い切れないし、彼等が弱音を正直に語ることによって返って生を見出す人もいる。他人の話を自分のことのように受け取ってしまうことが強い人は 晩年の作品は読まないのかもしれない。
 太宰はダンテの神曲やヴィクトル・ユゴーのノートル・ダム・ド・パリよりも説明することに気を使う。太宰の作品は中高生が読めるレベルの話しが多いが、それはあくまでも読みやすさであって、語るとなると難しい。自分にとっては一番難しい作家なのかもしれない。太宰の場合は作品と私生活を完全に切り離してみても結局のところ、死の欲求については避けては通れない。太宰は病気だったので仕方がなかったとも言えるけれども、やはり自ら生を放棄するようなことを選択するということについて、語るというのは難しい。(というのは、SNS・ブログの限界で、書くとするのなら書籍に粗筋で予め知らせておいて読者に了解を取ってもらったほうが良いという意味である)それでも、私は最後はこの「駆け込み訴へ」で引用されたマタイの福音書の23章を拾おうと思う。
マタイの福音書。23章25節、

禍害なるかな、僞善なる 學者、パリサイ人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど 内は貪慾と放縱 とにて滿つるなり。


イエスは律法だけを守り、中身が形骸化しているファリサイ派の 人々にと外だけ綺麗にして、内は汚れていると警告しているが、 太宰は引用しなかったが重要な続きがある。
26節、 盲目なるパリサイ人よ 汝まづ酒杯の内を潔めよ、 さらば 外も清くなるべし。


私から言えることは、もしも「物語」の中だとか「小説」世界で、生死の価値観が混沌として辛くなったのなら、この杯の内側も綺麗にせよというのを参考にして欲しい。
 信者なら意味が分かると思うことだし、そうでないのならとりあえず、調べてくれると嬉しいが、言葉から感じ取る自身の共感覚を大事にしてほしい。
人間を表す表現は、一方方向の表現では成し得ない。聖書の中の人間が見た神秘についても同様である。神学や哲学だけがあっても足りない。小説、音楽、落語、様々な表現が必要なのである。イエスの意味を知っている作家は必ず分かっているはずなのだ。どんなに自分の筆が冴えても、イエスの言葉には敵わないということ、作家は神の御言葉が「借りものの言葉」とならないように、それが自分の内面が動いて、自分の個性として、他者にも通じる言語となることを待っている。
常にそのために感性は息づいていて、自分の言葉に息吹が吹かれる瞬間を待っている。
抽象的なものまで整然と言語化し、他人に伝わる言語となるのは容易ではない。
このユダが「あの人」と視線を向けるだけで、光は揺るがなかった。 彼等の心の中にイエスはいたということだ。推敲の末に口述で語れたというのはそういうことだと思う。運命はどうであっても、イエスはどんな人の中にもいる。それを信じるのもまた信仰である。
太宰は、ユダの悪が強ければ強いほどイエスの優しさの光が増すと言っていたようだが、私は少しこれとは違う。 人間が陥る運命に対して、誰かの理解や愛があることによってイエスの優しさが増すのだと思う。人間は主体だけでは生きられないが故、理解が必要なのだ。丁度、本を通して読者が太宰やこの本を好きになるように。深みとは、己のみの深みは孤独になることがある。他人の理解はどんな孤独への深さにでも、慈しみを与える。
「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」


この言葉だって理解無しでは光だと気づかない。ユダは彼をイエスとは一度も言わなかったのだから。私は、そうだと確信があり愛はうごめいたが、もうこれ以上は語れない。
Н. Ге. Совесть. Иуда. 1891(ユダの良心)
 
酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

アマゾン→https://www.amazon.co.jp/Icon-graph-Chris-Kyogetu/dp/153493037X/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1512118298&sr=1-2

紀伊国屋→https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781976279713

Hamlet

by thy intents wicked or charitable.
thou com’st in such a questionable shape that I will speak to thee:

I’ll call thee Hamlet, King,father,royal Dance. O O answer me.



Hamlet-act1 Scene4 

画像元→http://hamlet.barbican.org.uk/


*特にハムレットについて解説や感想はありません。



ハムレットと言えば
“To be, or not to be: that is the question”の台詞が有名ですが、
「汝よ、人の形として表れたのなら、私の問いに答えてくれよう」のほうが私は印象に残った。
理由はバルザックのセラフィタで、例え話として人の形をした天使を見た登場人物が、
見たものを説明している姿について、「まるでハムレットのように亡霊を見たようだ」「ハムレットのように混乱している」と第三の語り手が語るシーンがあったのですが、セラフィタ・セラフィトスという存在を恐らくこの『人の形として表れたのなら』と重ねたのだろうと思った。
英語のshapeは亡霊とか幻影が現れたときに使ったりもする。イメージとして
空気のようなものから寄せ集めて形になったときに使うような気がする。
脚本にすることを考えなかったら大して気に止めていなかった
箇所だったのですが、こんなにも面白いとは。具体的にどう面白かったかは
語るのはまたの機会になるけれども、

シェークスピアは占星術等を扱ったヘルメス主義者(Hermeticism)だったと誰から聞いたか、その話は置いておいたとして、
軍神マルスの例えを熱弁するハムレットの姿を見て確信がついたことは
この物語の動きは太陽星座の「牡羊座」のようだ。まず、牡羊座は軍神マルスを
表す火星を守護に持つ。リーダーの素質があるが、人がついてくるかどうかは無頓着。
亡き父の亡霊を見て「問い」の思考の暴走に走った、ハムレットそのもののように見える。
極めつけが、「オフィーリア」の存在。John Everett Millaisの絵画で有名なオフィーリアの狂死について、牡羊座が好調だと相性が悪い星がある。

それが「金星」(ヴィーナスや愛の星)や土星(時間厳守)である。ハムレットの勢いが増せば増すほど愛は育たず死んでしまうこと、ハムレットは恋人の死を知らずに、
生死の時の流れを混濁させたかのように墓から掘り起こした髑髏を見つめる。
**
 舞台は影こそが自然であると私は思う。 特にシェークスピア(四大悲劇)はそうじゃないだろうか。神の光やクリスチャン的な理想、二元論は人の心の中で問いとなって彷徨っているが、入れ子状態で舞台の光とはならない。舞台の光は計算された光、影だけが自然にセットから伸びる。
その代わり人間の醸し出す熱意や光が浮き出る。その光から主を見出すこともあるけれども、基本は舞台とは人間劇なのかもしれない。 
そんな中で、神秘の啓示が強いバルザックの「セラフィタ」はどう面白くなるのだろう。
冷めた言い方をすれば所詮は、天使に恋焦がれる人間の話、
明確な影も野望もない物語の中で、闇や影をどう表そう。やはりこれは小説向きで
舞台は不向きだとは思う。 

画像元→ https://500px.com/dorotagorecka
photo: Dorota Gorecka


使用した書籍→The RSC Shakespeare: The Complete Works
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オスカーワイルドは聖書から「サロメ」をよく見つけたと思う。
イエスの光が続く限り、サロメを永遠の闇の乙女にした。
人間劇を装いながらも、揺るがない光と、影を生み出した。
サロメを見つけたこと、誠に羨ましい。
セラフィムについて
サロメについて
Benedict Cumberbatch版のhamletについて→ http://www.ntlive.jp/hamlet.html

Salome

(facebookでの記載をそのまま掲載しています。出版本・Icon o graphを読まないと
分からないようになっています)
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Icon o graphの中で使われたオスカー・ワイルドの「サロメ」のイメージ画像を実は作ってあったりします。(完全に自分の趣味用なのですが)中央のサロメとヨカナーンは有名なオーブリー・ビアズリーの絵を使用しています。上が私の趣味用制作で、下がビアズリーのサロメとヨカナーンです。
「サロメ」という作品の私の解釈(主に宗教的解釈)は小説の中にありますのでここでは書きません。
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 オスカー・ワイルドのサロメに出会ったのは17歳のとき。オーブリービアズリーの画集で知りました。ワイルドの原作も読みましたが月の描写が印象的でしたが、当時はヨカナーンが洗礼者ヨハネだと知らなかったし、そもそも「洗礼者ヨハネ」とは何者かとよく知らずに惹かれた話です。
何か道徳的な教えがあるわけでもなく、官能だからとか興奮するとかそういう理由でもありませんでしたが、何故か惹かれたのです。
****
一つ、この戯曲の魅力を語ると「演武」を彷彿させることでしょうか。 私は少しだけ子供の頃に合気道をやっていた事がありまして、「受け」に関しては自分なりに色々考えたことがあります。痛くない競技とは聞いていても大人相手となると、やはり痛いときもあったので、何かを考えていないと人前で泣きそうだったのでしょう。
**
柔道の勝ち負けがある「試合」と違って、「演武」である合気道は
初めから投げる側と受ける側と役割が決まっています。ですので、特に目立つメリットもなくて影が薄い存在で、子どもの頃の私はあまり好きじゃありませんでした。
技をかけられている間は、痛いこともあるというのは変わらないけれども、「受け」として姿勢や表情を整えていくようになります。
投げられるときも気を抜けず、倒れるときに、如何に綺麗に倒れられるのか、自分が倒れて床を叩くときに如何に良い音がなるかどうかというのを意識していきました。 倒れたときの起き上がり方、しまいには自分の横顔や髪の動き、袴を触って皴を整えるところまで気を張るようになります。
泣くとしたらトイレで泣いて、また静かに稽古に戻ってきて、弱さや疲れを体捌きで出さないようにします。
思い返してみれば、秩序の中で呼吸を合わせることを覚え、勝敗という結末以外で自我や闘志を表すことを探すことが演武だったのではないかと、私は思うのです。
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作中のように女優が「サロメ」を演じるということは、「演武」のようなものだと私は捉えています。舞台全部とは言えませんが、「サロメ」は特にそうだと捉えています。
ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)の頭部を手に入れてしまった彼女には処刑しか待っていません。サロメはイノセントなのかもしれませんが、女優はその運命を知っていて「美しき受け身」を維持出来ることが私の理想です。 
その運命をどのように理解するのか、それをどう身体で表現するのかというのは、女優の才能にかかっています。彼女は小説の登場人物はサロメの元となった聖書の背景をよく理解していましたし、「サロメは永遠の闇の乙女」だということにも抵抗を見せませんでしたし、現代の乙女心や、現代の自由恋愛にも当てはめることもしませんでした。(インタビューの間)彼女はサロメは殺されるべき運命というのを心で理解していたのだと思います。 処刑を言い渡されたときに必死に抵抗したり、無秩序(カオス)の快楽主義に走ったりすると、恐らく挿絵のビアズリーの黒(闇)に近づけないでしょう。
サロメを演じるのなら、如何に美しく痛みを体現出来るかというところにかかっています。女優は全てを知っているはずなのに、サロメとして無邪気に振舞う。それは全て演武のように、「秩序」の中に成り立っているのです。
だからこそサロメのヘロデ王に見せた舞は侠気で、異常であり、
光(イエス)を知らずにして死んだサロメの死は現代となっても
「闇」なのではないのでしょうか。
****
*ずっと長らく原作者、オスカー・ワイルドは異端とか官能の作家扱いとして聞いていたのだけれども、実はカトリックにでも惹かれていたんじゃないかと気づきました。何故なら、サロメ世界の秩序は何が光であって闇であるかということに厳格だったからです。一見、無秩序のように見えてサロメの死でそこに気づきました。 それで後から調べなおしたら、オスカーワイルドはカトリックに惹かれていて年を取ってから改宗していました。  当時はワイルドが生まれたイギリスは聖公会が主流だったので、(記載によってはプロテスタント) 改宗が許されなかったのだとか。
*オスカーワイルドは「幸福の王子」の原作者でもあります。これは、すぐにキリスト教的だなと分かりやすいとは思います。

Agape

    
  Icon o graphについて。

キリスト教映画プロデューサーからお褒めの言葉を頂いたところです。「構造上、アガペーを持ち込むには難しいところを大したものですね」と言われました。
そうなのです。アガペーから離れていくような難しい構造を作りながら私は物語中盤にマタイの福音書の13章を選びました。(各自調べてください)
マタイの13章、神の御言葉(蒔かれた種)が育つための条件とは……小説の中の少年はこの章の朗読の説明(説教)の途中で教会を出てしまいますが、その時の司祭は少年の存在に気づいています。
                   *
時々、日本人はこんな事を言います。「日本ではキリスト教は育ちにくい」と。確かにそうかもしれません。今となっては「現代では失われている」と世界中で言われているかもしれません。それは組織としての大成が難しいというのはありますが、やはり司祭の何気ない視線のように、愛は注がれていると私は思うのです。
現実世界では神への夢想や、イエスが通り道だということを知らなくても、イエスを知る者も各々の「自覚」いうものは「真実」とは別にその人の体系の中に形成されています。現実世界で言葉や誰かの権威で神を消すことも出来ませんし、また同様に神を皆に理解されることは不可能でしょう。
小説の中というものは作家の意思(意志)次第で神を消すことも虚無も生み出すことも出来ます。現代の小説は読者の自由が約束されながらも、神の有無は著者が決められることです。それなのにどんなに決めていながらも、読者は著者の決定には従えないものです。(時々、キリスト教を批判している作家の作品でさえも研究者は本当は聖書からヒントを得たんじゃないかと、関係無さそうな文章を分析したりするのですから)
結論として、小説家は言語だけでは神の有無の「存在」を操れないと知るでしょう。
                   *
 言語とは気分と感情によって読まれるものです。気分と感情が無ければ読むことが出来ません。けれども、それらによって話の重要度が人によって変わってしまいます。それに更に感じる勘であったり、推測であったり心理を読もうとすれば言葉以上に事実に近づくこともあれば、離れることもあります。 そこが面白いところでもあり、中身が理解されないところなのです。
小説は心で読むとも言われたり、特に感情に加わり、その人の想像によって読まれることが多く、読者はその独自の想像力によって文章を読み進んでいきます。それを知りながらも私は、一見アガペーを持ち込むことが難しい話を書きました。 その設定としてフィクションでは凡庸になってしまっているテーマを集めました。恋の設定も死の設定もその一部でしょう。更に、ギリシャ神話、大覚醒時代の文学、問題作品扱いとなった文学、天文時計と外界(人の歴史として)に在るものを用意しました。
 それから現実の「私」について。私は確かにイエスを信じていますし、アガペーも自覚があり、それなりの神秘体験があります。イエスを通して、私の感性は成長し、哲学の歯車は動いているでしょう。それはあくまでも私の内部世界であり、それを取り巻く思索や思考なのです。 これが正しいと人に押し付けたら社会性を疑われるでしょう。このように仮にも「私は知っている」という事実があったとしても、世界にとっては一個人の内部なのです。
(私は洗礼を受けてから二年程度しか経っていませんが)信者同士だからと言っても感情の共有の絶対性は約束されていません。教会に行けば良い出会いもあれば残念な出会いもあります。そして信仰とは弱い人が助けを求めるために入ると思われがちですが、実際に弱かったらやっていけないということです。助けもあれば自立も必要とされます。盲目の模様、嘘つきの模様、そして美しい模様、教会には様々な模様を描いている岩のようにあるのです。私は、そこで静観することを覚えました。そしてそれでも「在る」と感じるものを瞬きと共に知ることが出来ました。(岩とは私の詩情です)
 私が避けたかったのは、物語の中で登場人物の一人だけが信仰を持ち、その人の内部を見つめる傍観者を作ることです。それとイエスを知らない者が悪人になったり、非情になったりするというのも避けましたし、登場人物達を神学や哲学の傀儡にしないように気をつけました。今後の作品ではどうなるか分かりませんが、今回はそうするべきだと思いました。
それにキリスト教徒ならこれは強く持たなければなりません。知らないところでも、神の愛は育っているということです。自分の「覚知」以上の世界を自覚することです。ですので私は敢えて宗教色を強くしようともしませんでした。
私の内部世界がどう思索や思考、そして想像力への動力となり、外に触れることが出来るのか、毎回私は試されます。私の作品は常にそうだと思います。 

* *但し、前半部分からアガペーはあります。小説として明確であるか無いかの違いです。

nest

―――鳥の巣の営みを人間の例え話(詩情や比喩に)使おうとすることは早計である。鳥の営みと人間の生活とはまるで違うからだ。よく巣を観察すること……
そして、断言出来ることは
現象学者は必ず鳥の巣に
惹かれるだろう。―――
*****
これはあるフランスの哲学者の話(仏語版・訳は掻い摘んでいます)です。
最初にこれを読んだときは入院中のときで、心には来なかった。それなのに数年後、書きかけの自分の小説と繋がることになる。気がつけば、彼の予言通りに私は鳥の巣に惹かれることになった。

自分の信仰とは別に、色んな人の話を聞いて回った。聞いただけではなく、「経験」という小世界を形成してきた。そんな自分が目指すのは、「原稿」であり、小さな生命を育てている。まるで自分は鳥の巣を作る鳥のようだと気づいたのだ。そしてこの小世界は鳥の巣と同じように永遠では無かった。
営みと言ってもすれ違ってしまったこと、
愛であると疑いたくなかった繋がり、
そういったものもあった。
人間の営みは
鳥の営みに例えることは確かに早計なのだ。

鳥の巣の成り立ちは神学と哲学、世界の内面を繋ぐとき、人間の感情や言葉では足りないものを上手く纏めてくれていると私は胸を時めかせた。

「鳥の巣」これこそ人々が重ならないものを固めた「詩情」なのだと私は疑わなかった。
鳥の巣はあまりにも精巧に作られていて人間が似たような草木を集めただけでは作ることは恐らく出来ないでしょう。いつも図鑑や非売品のショーケースから見つめるだけだったけれども、漸く本物の鳥の巣を手に入れることが出来ました。(イギリスから来たそうです)
*****
今回の小説は「営み」や「愛」を結論とすることは容易ではない
テーマを選びました。だからこそ、この鳥の巣の営みと人間の例え話を並べることが出来ないということに結びついたわけです。
心臓部分となるものは冒頭にあるとおり「愛の裏」であり
造語までした「栄巣」ということです。
*****
*羽はカラスの羽です。(ワタリガラスではありませんが)完成してから数日後、木の葉が揺れる音と共に空から降ってきたのを取ったものです。とても嬉しくて、必ず取らなければならないような気がして、私はヒールで走って手を伸ばしました。
*暫くは少しだけ動物の匂いがしましたが、今はもうしません。
壊れやすそうなので気をつけて撮影しました。どんな風に撮影するのか実はまだ良いアイディアが無くて、とりあえずこんな風に。
あんまり出したりすると壊れそうなので、もっとアイディアが纏まったときに新しく撮影するかもしれない。(巣:セキレイ)
◎鳥の巣を買った店→http://www.piika39.com/

走った靴(プラットフォームパンプス8~9cm) 
この記事は作品を読まないと分からないように書きました。




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「走れる靴と、走れない靴

私たちは愛の裏で動いていた」

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amazon.co.jpでも取り扱いになりました。
(旧バージョン)
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(新バージョン)
https://www.amazon.co.jp/Iconograph-Chris-Kyogetu/dp/1976468949/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1512298868&sr=1-1


紀伊国屋
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781534930377

barnesandnoble

http://www.barnesandnoble.com/w/icon-o-graph-chris-kyogetu/1124114276?ean=9781534930377

あらすじ(英語版のみ 後書きつき)

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzWTRoU1RCb0JtNEE/view  (Japanese)

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzbXB6Y2hBZUF1X1U/view (English)

試し読み

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzNXB3QVRlcEQwbkk/view


(keyword) 走れる靴と走れない靴、時を知らされない部屋と、時に決められた部屋。生の飛躍、 自由な魂、ウンディーネ、青を知らない女の子、QOL、祈りのための茨の棘、自己犠牲、悪しき母たち、 赦し、生長、変容、白夜、落ちた巣、天文時計、シモーヌ・ヴェイユ、占星術師達、 魅惑に満ちた混乱、最高の現象、時が人格を持つ、神話の実現、最先端医療、 不在への期待、オーディンの渡鴉、ベツレヘムの星、修理士、選ばれた部品、ロザリオリング、 栄巣、営みへの期待、刺繍、サロメ、硝子盤、羅針盤、解放、詩情のようで現実
(順不同)

「生かされていることや生きていること、信じていること、私達それぞれ違うこと、それらが一致を夢見て、離れてはお互いに締め付けながら、茨のように締め付けあいながら巣を作る」

栄巣(p278)

栄巣とは造語です。 

(2)→http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/icon-o-gaph2.html



オプス・デイ
酒井 俊弘神父様より


https://drive.google.com/file/d/1IWf3mKShI53901pN2mijLoOATJsu77CH/view

担当より(ネタバレ注意)

https://drive.google.com/open?id=1RpeFu9kzV4oSVVIAQmRiF_FpEH00NdcD


瀧本 往人様(哲学)

https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing


松本准平様(映画監督)

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/blog-post_16.html


女子パウロ会

http://chriskyogetu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html

瀬戸内寂聴様

保留+好評価


皆様の感想
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/blog-post_15.html



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