Anne with an E

「我が人生は夢の墓場」
「感動には大げさな言葉が合う」


不幸を感じないことが

幸せとは限らない。


祈りの言葉を覚える前のアンの想像癖を見てるとそう思う。

次第に彼女が持っている想像力が 本当の意味で生きていくところが良い。


赤毛のアン、アン・シャーリーは 生まれたすぐに孤児になり、小間使いとして転々とし、ずっと不運だった。自分は不運だということを感じなくなる程、彼女の心は想像の世界や、心のお喋りでいっぱいになる。そんなアンがマリラとマシュー兄弟に養ってもらうようになってから、人生を切り開いていく。



「我が人生は夢の墓場」
これは原作の赤毛のアンの

“My life is a perfect graveyard of buried hope”
That’s a sentence I read in a book once,
And I say it over comfort myself whenever 
I’m disappointed in anything.

我が人生は夢の墓場、一度だけ本で読んだことがあるの。 絶望したとき、この言葉を慰めにしているの。

と言うと、育ての親になるマリラは何でそんな言葉が慰めになるのか
分からないと答える。






マリラのお祈りをしなさいと言うことやアニメでもあったマシューの最期の、「でもわしは、1ダースの男の子よりも、アンの方がいいよ。(略)アンは自慢の娘だよ」という台詞が好きだ。マリラとマシューは結婚せず姉弟で過ごしていたので、子どもがいなかった。お手伝い役として男の子を欲しがったが、アンを引き取り、子を育てる充実感を手に入れた。最近、私は死に役ばかりだったせいか、アンが受ける恵みは 生を受ける喜びを感じるなと改めて思った。


お喋りで想像力豊かだったアンは、お祈りの時間は自分の心のお喋りをやめてするようになった。 そのお祈りする自分の部屋で、やがて出来た親友のダイアナと蝋燭の合図を窓辺で送り合う。


ある スペインの修道士の本によると、イエスが来る前は、友情の言及というものは男性同士ならあったけれども女性同士では如何わしいものとされていたらしい。友情というのは一定の平等性が必要とされていて不可能だと思われていたからだ。そこでイエスがやってきて『あなたたちは皆わたしの友人である』と言い、新たな道を開いた」とあった。そう考えると何気無い、アンとダイアナの女同士の友情もイエスあってのこその道のりなのかもしれない。
とにかく アンは可愛らしい。あの駅で、迎えを待つ姿とか何かが始まる予感がよく書けていて、私の心は時めいた。
劇場版とNetflix版でも赤毛のアン
「アンという名の少女」
がやってて、とりあえずNetflix版を見ることにした。
何だろう、競合作品なのかしら?


シーズン1は 牧師夫婦が来なくて
保守的であまり好感が持てない
牧師しか出てこない。赤毛のアンは牧師夫人が出てくる
あたりから確か面白かった記憶がある。

シーズン2があるならシーズン2に期待。 

果たして出てくるかな?

OPは 元からファンだった
brad kunkleのデザインで
ご機嫌だったけど、

こっちは虐めとか、色々脚色入ってて
原作より胸が痛いかもしれない。
人間のコミュニティでいえば必ずある
ような出来事で真新しさは無いけど、
ドラマ版では、

マシューは銃で自殺しようとするし、
(何処かで見たことがある
圧迫感だな、今の流行りかな、
ブレイキングバッドみたい
だな)と思ったら、本当にブレイキングバッド
の脚本家だった。



*画像の著作権は映像元にあります。

The Mirror

「鏡でも見るみたいに他人の生活を見てみるがよい」(テレンティウス・兄弟より)
難しい物語ほど、私に反芻されるデメアスの台詞。

  硝子が水に溶けて色が変色するように、タルコフスキーの「鏡」の記憶の世界は、彼の得意とする水の描写と共に変色しているようだ。鏡は溶けにくいように特殊な加工はされているが、湿気の多い場所や長らく水につけていると色がヤケ始める。廃墟のような部屋、脆い木材、天井が崩れていくこと、これらの映像は美しく磨かれた硝子とはかけ離れていくが、時間の流れにとって物質の衰えは自然なことであって、水によって老朽化を進まさせているとすれば、それはレーテー(忘却の河)を表しているようで、ミュトスとしても美しい。

 物語のオープニングは上手く話せない(吃音症)の少年が女医に合わせて言葉を繰り返すところから始まる。それからタイトル画面が出てきて、物語が始まる。

 主人公アレクセイは母の若い頃の夢を見たと語り始め、映像のように写り込む記憶を見てしまうが、観客も同時に、鏡でも見るみたいに他人の生活を見ることになる。但し、鏡の役割として、鏡を見るということは「私」であるということに留意してもらいたい。己を覗くように、観察するように、無自覚に、『身なりを整えるように』、他人の人生の流れを見ることになる。 

4月4日はアンドレイ・タルコフスキーの誕生日だった。毎年、春になると彼の話をしようと思うのだけれども、語る自信が無かった。実際に「鏡」とは*タルコフスキーの映画の中でも感想や批評が難しい映画だとも言われている。粗筋としては、主人公アレクセイは少年時代に過ごした別荘を思い出しながらモスクワで生活をする。

アレクセイの結婚した女性は何処か母親に似ている。(役者自体同一人物)それと同時に母に苦労をかけていたのではないかと、その思いが詩情となって映し出される。

 モノクロの映像が母親の映像で、カラーが現在と、交互に繰り返される構成で成り立っている。タルコフスキーのこの映画を撮影しているのは (Georgi Rerberg)で、朽ちて行く物質世界に相反して、モノクロ時代からカラー時代へと移ろいながらも変わらず栄えている草花や、貧しさながらにも香り立つ女性美を鮮明に映し出し、素晴らしいカットを数え切れないほど生み出している。

 この映画はアレクセイの母の紹介のようなものだ。しかし母への道案内は、観客に分かりやすく説明しようとしない『私』という信用出来ない語り手である。人の意識の流れ(stream of consciousness)のように、心の深いところを自由な連想と予測不可能な表現であるかと思えば、自己という鏡像を通して母、そして神の赦しの自覚など、心の深い部分を翻訳したかのように、秩序立てて語ろうとする。時々、タルコフスキー自身の声も挿入されているが、この映像は、narrated monologue(物語られた独白)ではなく、やはりnaratted poetry(物語られた詩)なのだと思う。

   先ほど『身なりを整えるように』と書いたけれども、心理の上でも人は他人を見て、他人と比較して自分を知るともある。実際に取材をしている上でも他人を観察しているようで、最終的には自分の隠れていた潜在意識が浮上してくる。

 良い映画を見た後や本を読んだ後は、音に敏感になったり自分を発見したりする。特にタルコフスキーを見た後は、子どもの頃に住んでいた家の軋む床の音が恋しくなったり、注がれる水の音、コーヒーの泡立ち、硝子の変色、草木の揺れ、鳥の鳴き声の強弱によって、鳥が自分の近くに来たかと思ったら遠くへ離れたことが分かる。硝子は薄っすらと自分の姿を映すけれども、硝子を通して外の景色を見ることが出来る。硝子を加工すると鏡となり、鏡になった途端、私を含めて全景色が全反転する。それを細かく切断されたものが私の手鏡(所有)となる。

自分と外の世界の繋がりへの共鳴と、他者の経験の追体験によって地味なことまでもが全て価値があるように思えてくる。だから時々、彼の映画を見ることにしている。

*stream of consciousness (思考の流れ)とは、心理学者 W・ジェームズの造語。西田幾多郎に示唆し、フッサールにも影響を与えた人。

タルコフスキーの映画の中でも感想や批評が難しい映画だとも言われている。→人から聞いた話なので確かなことは知りません。

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

DIE GROSSE STILLE(Into great silence)

カトリック教会の中でも特に戒律が厳しいカルトジオ会に属するフランスの男子修道院、グランド・シャルトルーズの内部を、初めて詳細にとらえたドキュメンタリー。ドイツ人監督フィリップ・グレーニングが1984年に撮影を申請、それから16年の歳月を経て許可がおり、音楽・ナレーション・照明なしという条件のもと、監督ひとりだけが中に入ることを許された。監督はカメラを手に6カ月間を修道院で過ごし、俗世間から隔絶された孤独な世界で決められた生活を送りつづける修道士たちの姿を、四季の移ろいとともに映しだしていく。(大いなる沈黙へ・解説引用) 

音がないからこそ、聴こえてくるものがある言葉がないからこそ、見えてくるものがある(解説書より)

  • 感想

何故、「それ」を美しいと思うのか。美しいとされるものの一つに「黄金比」がある。黄金比が隠されているものは、計算を知らなくとも、人は知らず知らずのうちに惹かれることがある。 黄金比は何処に潜んでいるのか、貝や美術品、建築物等は分かりやすい例だろう。イエス・キリストもヘブライ文字に対応する数を合計すると、(イエス888+キリスト1480=2368)これら三つを並べると3:5:8と黄金比に相当する(近似値)。こういった数字のことを神聖数と言うらしい。聖書でこういった神聖数を研究している人達もいる。他にも物語を書く者であるのなら、聖書にある物語論の構図は、話の基礎が詰まっている。この中には物語り上の黄金比というものがあり、軽視は出来ないということに気づくだろう。

ただ、そうは言っても何故、「惹かれるのか」「美しいと思うのか」ということを黄金比の例を出したからといって万人に通用する説明とはならない。黄金比に限らず、何故美しいと思うのかということに関して説明することは難儀なこともある。

度々、この映画で出てくる
「主よ、あなたは私を誘惑し、私は身を委ねました」のこの誘惑という翻訳に戸惑う人が多いのかもしれない。そうなると現代の誘惑と意味が違うのだろうと処理をする、もしくはもっと詳しく分析をする人が出てくるとは思うが、私の意見としてはこの監督の心の内だと思う。

この映画はほとんど監督の主観的な要素は少なく、この修道院生活をそのまま観客に見せていることになるが、それでも作品と言うのなら何らかしら必ず本人の意思が無ければならない。この修道院は同じように沈黙を守るシトー修道院やトラピスト修道院と違って、個人の自由は保障されているらしい。この監督も撮影のために修道士達と共にしていたのだから、内的なものは自由に捉えていたのだろう。

“Ich bin der Ich bin”ドイツ語だけで考えると、「私は在りて在る者」、であるが、出エジプト記では神がモーセに言った「わたしはある。わたしはあるという者だ」という有名な箇所になる。これも監督の心の内から選び取った一節だと思う。

****

  • 「誘惑」について。

小説にも言えることだが、映画なら尚更、こういった作品を作ることは中々許可が下りないものだ。この撮影は映画祭、コンペティション部門以外で出品と修道院から出された条件があった。

コンペティション、それは競争という意味がある。芸術家は感性を持ち、個性的であり、新しいことを創りながらも、人に受け容れられる「商品」としても意識しなければならない。芸術家は個性を必要とされながらも、他人に受け容れられなければならないというジレンマもある。他人に受け入れなければ消えていくだけという現実もあり、受け容れられれば「祝福」という見方もある。

それには競争も避けられない。それでもこの修道院から出された条件で撮りたいと思うことは、世間(コンペティション)が正解だとするのなら、これは一種の「誘惑」に相当したのではないのではないだろうか。

私はその「誘惑」が少しは分かるのでそう捉えたのかもしれない。それは周囲の声を他所に確かなる「黄金比」に惹かれることに近い。盲目の修道士は世間を憐れむように語るが、私達は修道院の外で生きなければならない。そのために、自分の世界を表現するものは、正しいと思った道でも多くの共感を得なければ「象牙の塔の中にいる」と皮肉を言われることもある。象牙の塔(tour d’ivoire)とは美しい言葉で、本来なら悪い意味ではないが、大体が皮肉の意味で使われる。

このフィルムの中は、すぐに分かるようなドラマがあるわけでもない。誰かが事件を起こし、それを追うとか、ある人の感情が多く語られることもない。観客を置いていくような企画は現代からすれば本来ならタブーなのだ。

それでも、どのショットでも、美しいものがあった。 私はそれらが何故美しいと思うのかは説明はしない。自分が価値観からこの映像を説明することは、無意味に相当するからだ。理解するなら、この映像を見るしかない。恐らく、それで美しいと思うだろう。そして、この監督は「象牙の塔」を撮影してきたのに過ぎないのだろうか? 修道院の中は確かに隔絶されているが、カメラを持ち出し、彼が映したものは内なるものだけだったのだろうか? 例えば、修道院には自然光が差込み、四季折々の風情は閉鎖されているだけではないという証拠ではないのだろうか。そして、この人達は神父達と違って祈り専用の方々なのだそうだ。世界で平安な場所や時が少しでもあるとすれば、この人達の祈りとは関係ないという証拠も取れない。

・There certainly must be some who pray constantly for those who never pray at all.
(決して祈らない人々のためにも、祈る人々がいる)
Victor, Marie Hugo—–Les Misérables

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このように本来なら企画の段階で懸念されてしまう静寂を成功させた人がいる。
この作品は数多くの賞を受賞し、創作者として、この作品は希望を与えている。

◎本気の解説はDVDの特典であるのでそちらへ。
◎DVDで鑑賞。2016年11月25日到着・28日視聴。

1984年、撮影許可を求めるが「まだ早い」と断られる。16年後「準備が整った」と突然連絡が来る。

これより誠実に独居房の生活をおくり、その他の修道会の戒律に従いなさい。絶え間ない祈りと改悛の喜びに満ち、孤独と静寂の中で神のみのご意思に従うのです。

画像元:(c)a philip Groning FilmPoroduction.

追記: ヘブライ文字に直す計算は、ある書籍によるものだが最近は少し違和感に思えている。

イエスキリスト(ישוויקיפדיה
イエス10 + 300 + 6 = 316
キリスト (המשיח) = 5 + 40 + 200 + 10 + 300 + 400 = 955
合計すると、イエスキリストの数値は 316 + 955 = 1271
この数値は、黄金比の数列 1:φ:φ^2 (1:1.618:2.618)の中で、2番目の項(φ)に近い?

The Childhood of a Leader①

映画に行った感想/ネタバレ含む)

「シークレットオブモンスター」
The Childhood of a Leader.2016年11月25日公開

「私」が認識している「私」と、他人から見られる「私」、主にこの「虚構世界」は他人の眼差しから構成された「私・少年」だった。大人達はよくこの少年を「お嬢さん」と間違える。

サルトルの基本を少しでも読めばこの構成にはすぐに気づくはずだ。でもこの気づきはきっと入門に過ぎない。

観客にとって少年の主観に関する情報は「ママがいなかった」という夢、時々現れる歪んで焦点の合っていない景色、女性家庭教師のドレスから透ける胸、と少ない情報である。元々、現代知識として分かっていたことは、独裁者(指導者)のような人間が形成される因果関係は完全にはまだ分からないということだ。

現代人はそんなことは既に分かっている。

それを虚構でもいいので突き止めたいという人にはこの映画は向かないのかもしれない。この話は何か特別な非情さや残酷さもなく、情念も愛欲の熱もない。時々、母親が母性を見せ、少年が笑顔を見せるがすぐにすれ違いが生まれ、噛み合わず、人の肌の温もりが長く続かない。

それは体温が無い映像ということのだろう。

少なくともこの映画は、体温が無いということに関しては成功しているのかもしれない。

****

 外では戦争があるというのに、この家庭は古典絵画世界のような安定や均衡が保たれ、貧しさもなく、高価な家具や調度品に囲まれている。確かにあるのはこの美しい静物達である。

①その中で少年の味方だったお手伝いさんを母親が勝手にクビにした。

②少年は自分の部屋に閉じこもり、勉強する。

③少年は自分を叱った女性家庭教師をクビにした。

④少年は部屋の中で内面世界を維持しようとするが、
それでさえも、「叱るため」に父親はこじあけようとする。

それから、少年が大勢の食事の席で椅子の上(座)に立ち、

「もう祈りなんて信じない」と何度も叫んだシーンは
少年の居場所は他人達の視線、時代の思潮によって椅子のように狭くなっていたことを表しているようだった。

私はそこで「可哀想」だと思った。けれども私のこの「可哀想」という眼差しはその少年を説明するものでは無い。

私は視線ではその少年を追えるけれども、その少年を語れない。

「私」がこんな少年を見たのなら、それも正解だと言える。

恐らくこれも正解ではあるけれども「感想」というものが、いつまでも本質に近づかず、その本質を掴もうとすると、曖昧というのは拭い去れない。 

「あそこのシーンで泣いたね」「少年はかわいそうだったね」なんて単純に語り合えない。

分かち合う、語り合うとそれだけで理解による熱が生まれる。そうすると、一瞬でこの話の冷たさという本質が変わってしまい、この話から離れていってしまうような気がしてならない。

可哀想だと思った少年は、結末として指導者になった。その可哀想という感情はすぐに虚構世界の終わりと共に消えなければならない。

追記

公開から時間が経ったので、
新しい感想を書きました。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/02/blog-post_5.html

****

感情を持つことによって、話の本質から離れてしまいそうな気になる。私のこの感情は話を読み解くための味方なのか、邪魔なものなのか、この「問い」。この感覚が駆け巡ることが非情に面白いと思った。

映画館で見てよかったなと思う。

◎サルトル著、指導者の幼年時代は読了済み。

◎映画館で一度見た感想なので、原作と比較して本当は色々気づいたことがあったけれども確かかどうか分からないのでこの程度で。

◎この映画は原作から着想を得たということなので、原作を匂わせる箇所は
ありつつも、違う話。(まず主人公の名前が違う)

◎不満を言うと、映画館の椅子が痛かった。

◎スコットウォーカー(Scott Walker)の音楽が良かった。

独裁者になる条件とか因果関係というのは私は答えは出ないと思っている。ジョハリの窓でいえば「未知の窓」(他人にも自分にも知られていないこと)がどのように表現されているかだと思う。登場人物、観客も含めて具体化出来ない闇の映像表現がよく出てて凄かった。

◎サルトルは父親が早く死に、抑圧が無かったために天使のような子だったという。
恐らく、原作共に自伝的な話なんだろう。

画像:https://www.google.co.jp/search?q=The+Childhood+of+a+Leader&espv=2&biw=1920&bih=1012&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjHoPDtmdzQAhXLGpQKHSlIAB8Q_AUIBygC

memo201604

前回のゴッホついでに
映画「気狂いピエロ」(Jean-Luc Godard)で
「ゴッホが耳を切る決心をしたカフェを見た」
というのがあったのですが、実際のところ夜のカフェテラスという絵画はそういう場所だったのでしょうか?誰かご存知の方は教えてください。
ゴッホは独立した点や短い線を連ねて描くのを好んでいて、彼が一筆づつ細かく筆を重ねたのは色が混ざらないようにしただけではなく、精神の高揚を伝えるためだった(E・Hゴンブリッチ)そうです。
彼がアルルから出した手紙に、「時に感情があまりにも昂ぶり、絵を描いているという自覚がなくなってきている」というのがありますが、この一文は私も十代の時に何かで読んで、作品を作っているときって(この時は絵画)そうだという実感があって、今でも(小説)変わらないかもしれない。



私はこの映画のゴッホの台詞が印象的で、感想としても、この男女が最初は協力し合っている愛し合っている男女のようなのですが、最後は女性が裏切るので混ざり合わない関係だなと、ゴッホの絵みたいだなと思います。アンナ・カリーナが細くて美しいので綺麗な一筆の色みたいだなと思えるところがあるかもしれません。
****
あと、個人的なメモですがゴッホの人生ってモーツアルトのK550の曲のようだなと思うのです。甘い旋律と情熱的な音の印象だけれども、ト短調の中に隠せないペイシズム。自分にとってはゴッホってこんな感じなんて思います。(ゴッホの世界観とモーツアルトの貴族のような音とは相反しているようなのですが)完全にこれは音だけで選んだ選曲なのですが、K550の成り立ちを見てみるとそこまで間違っていない気がしました。


是非、興味がある方は調べてみてください!
あとは「envie(望み)にはvie(人生)がある」とは
気狂いピエロの台詞です。envieとはどちらかというと
「欲しい」という意味じゃないかな?
皆様、良い週末を。
K550
https://youtu.be/2HbMzu1aQW8

(C) 1965 STUDIOCANAL IMAGE./ SOCIETE NOUVELLE DE CINEMATOGRAPHIE / DINO DE LAURENTIS CINEMATOGRAPHICA, S.P.A. (ROME) – ALL RIGHTS RESERVED.

Bruno Schulz, "Sanatorium pod Klepsydrą"

(c)KADR Film Studio(digitally restored)
*原作と映画の感想*
次回作に向けて話をしていく前に、たまには自分とは違うジャンルの話でもしようかなと。
ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の「砂時計」というこの映画はブルーノ・シュルツ原作「砂時計サナトリウム」の映像化で、小説同様一回見たぐらいじゃ何が起きているのかすら掴みにくいのですが、シュルツ作品の中では比較的筋が見えやすい話ではないかとは思う。この監督は父親がユダヤ人、母親はカトリック信者ですが、本人は不可知論者のようで、
こういう作品を語るとき必ず外せないのが「幻想」という言葉です。幻想とは現実にないことを思い描くことであるが、日本語の幻想とは元々はhallucination(幻覚・妄想)の訳語だったらしく病んでいる意味あいが強かったようです。
***
幻想物語とは心地が良い夢物語や英雄に仕立てることもあるけれども、敢えて現実と共通している無秩序でもありカオスにも目をつけ、現実の例え話のように仕立てる幻想もあります。彼は意図的かどうかは知りませんが後者のほうでしょう。
時々芸術家は自身の心象や夢想を自分の心と和解せずに抱き続けては増幅させ、自分の世界の中で再構築しますし、
自分の心で見ているものをあらゆる表現によって外に曝け出すということもします。
***
この主人公のヨゼフという男は二つの時間へとそれぞれ分裂したように歩き出します。それが分身か、本体かという区別はなかなかつかなくなりますが、この映画の映像美に惹かれて何となく最後まで見れてしまう。この世界は体調が悪いときに見る夢のようです。私の感想としてこの作品(小説)から感じ取ることは、彼の世界にはマニアックでありながらも「愛着」がないように思えます。彼の幻想世界は嗜好性の集まりのようで、実際にはそういう偏愛を感じない。凝った描写に隠れている真実は、このタイトルの「砂時計」のように一瞬一瞬通り過ぎていくだけの事象です。
シュルツの人生はゲットーに収容されながらも一時期は画家として雇われますが、射殺されます。彼の人生は小説世界よりも
残酷な最後でしたが、作品は彼という本体や時代考察という運命共同体的なものから離れて、純粋に残っています。
*** 
色々彼の時代背景等、外堀を話していきましたが、
物語は事実と関係無く純粋にその世界の時間を持っています。けれども質が高い作品であればあるほど、
著者の隠れた心が見えてきます。偏愛のように見えるこの世界の裏には著者の戦争中の苦悩が詰まっていて、現実に愛着を持てなかったことが正直に表れていると思います。
文章世界というのは、書いてあることよりも書かれていないことが浮かび上がってくるものです。ですので嘘がつけないのが作家の心です。人によって読者は小説だけではなく著者の心を愛することがあります。
この監督はこのシュルツ作品の愛読者なんだそうで、短編であるはずのこの作品を二時間ものへと脚色し、療養所の暗さは深遠を匂わせています。この監督はこの作品に愛着を持っています。
世界に愛着を感じさせない原作と、その世界に愛着を持った者から見た感性、私はそれらの交差する視線を楽しめました。

Into Great Silence

見たいなと思う映画。 沈黙だからこそ見えるもの、聞こえるものというのはあるなと予告だけでも共感した。フェルメール風の
光がまたいいですね。


→感想・(2016年に更新)http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/11/die-grosse-stilleinto-great-silence.html



Чебурашка

そういえば、私
Twitterのアプリをチェブラーシカで使っていますが
これが優秀で、さほど落ちることもないし使いやすいです。

http://journal.mycom.co.jp/news/2011/01/06/098/index.html

最近はチェブラーシカをよく見かけるようになりましたね。
チェブラーシカって旧ブログでも言いましたが、昔は
キャラクター存続の危機に陥っていて、以前の日本で
チェブラーシカの版権(グッズを販売したりする権利)を持っていた人の話だと、昔の小汚い感じのままでの存続は難しいと言われていたようですが、ファンとしてはどうにかこのままでと活動を続けていたそうです。
しかし、今はこのように最近のアニメーションのようにしてもらい、それまでにリメイクには反対もあったのかもしれませんが、
この前、ローソンで
小学生の男の子が「チェブラーシカ、チェブラーシカ」って歌いながらグッズを見ていたので、これでよかったんだろうなと勝手に思ってしまいました。最初っからチェブのハードルが高いのならまずは分かりやすくリメイクし、後からハマる人はどうせ過去まで遡ります。ムーミンも、私は好きなので、あの綺麗に整えられたアニメ(平成の)から原作、古いアニメまでとありとあらゆるムーミンを愛しています。こうやって、きっかけづくりになるのなら賛成かなとか思いました。キャラクターは消えてしまっては終わりですからね。
チェブラーシカのフィルムの監督はカチャーノフですが、原作者はエドゥアルド・ウスペンスキーです。彼が日本に権利を与えたときにロシア中から批判されたらしいですが、彼は日本に任せて間違いは
無かったと言っていました。ムーミンの原作者も日本のアニメをかなり信頼しているように、日本のアニメーションの信頼がそれほど高いのと、日本人のキャラクター好き、キャラクターに愛着を持つ傾向は古代より一神教ではなく自然などにそれぞれの神が宿ると信じてきた流れを感じさせます。(私は)神というものまでは意識しなくても、そういう一つ一つのものに愛着を持つ姿は何処か日本人らしさを感じるからですね。
チェブラーシカ、私は旧バージョンのDVDしか持っていませんが
「バッタリ倒れ屋さん」と言っていたのを思い出しませんか?
この由来は、原作者であるエドゥアル・ドウスペンスキーが
友人の娘さんにコートを買ってあげたときに、あまりにもブカブカで
襟が大きくまるで耳のように見え、ちょっと歩くとバッタリと
倒れてしまった。チェブラハッツア(バッタリ倒れ屋さん)
この思い出が元になっているそうです。
続きはたたみます。

ゲーナが歌っていた曲のCD
これは数年前「きつねのはなかさ」さんのお店で買いました。
ロシアの雑貨など可愛いのが揃ってますよ~♪
でもごめんなさいだけど、古いほうのチェブは最近、たのしんご に似てるような気がする。
私はこのゲーナが動物園で仕事しているシーンが好きです。
古いバージョンに馴染みがありますが、勿論新しいバージョンも
見ます。可愛いのには変わり無いですよね。

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