朗報②

日本看護協会出版会の「教養と看護」という特設サイトにて「魂の世話」というテーマで連載をしています瀧本 往人様よりIcon o graphの評価を頂きました。瀧本様は哲学の講師ですので、こちらは哲学的な評価です。お忙しい中、ありがとうございました。とても感動する書評でした。

評価はこちら→

https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing

Icon o graph 案内はこちら→

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

黎明(2016/05/09)


イエスはトマスに言われた。「あなたの指をわたしの手に当てて、あなたの手をわたしのわき腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい」トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」 (ヨハネの福音書 20:27-29)

 私がキリスト教を意識したタイミングを話すと長くなるのですが、恐らく今までで大きな意識なら四回ありました。細かいことをいれると七回ぐらいなのかな? 意識しては忘れての繰り返しでした。今回は二回目の十代の頃の話です。 昔は絵を描いていて、デッサンとかは訓練みたいなものなのですが、自由創作となるとテーマを自分で考えたりします。まだ十代と言っても高校生になる頃になると大人と同じ賞に応募したりしました。

そして頭打ちしたのはテーマと描写力がついていけないということでした。想像力が自分の力量に合わせるしかなくなるのでイメージに妥協が生まれます。それなのに、人間の脳というのはおかしなもので、その妥協が妥協に感じなくなっていきます。絵 に関しては完成と感じたことが無かったのではないのでしょうか。賞を取れたら嬉しいのですけど、思い入れがある作品が無くて毎回戻ってきたものは捨てていました。そういうものがあると、そういう自分に愛着を持ってしまって成長出来ない気がしていました。

よく他の人に「何を考えて描いてるの?」と言われていたのですが、 実際には今と比べるとこの頃は確かなことなんて考えていませんでした。誰かに説明出来ないことや自分でも分からないものを抱いていたもので、対話相手がキャンバスです。「言葉にならないことを書く」ということ、それを才能と捉えるか未熟と捉えるのか、私は後者でした。
そんな私が何か勉強がてらに模写をしようと選んだのが古典作品達で、デッサンの練習のために選びました。画材は木炭と鉛筆で、カラーではなくてモノクロでやりました。モノクロにすると色で目移りしていた情報や錯覚が整理されるので私は好んで練習していました。模写をした中で印象に残ったのはカラヴァッジョの「聖トマスの懐疑」です。よく知らないまま形だけを捉えて描いていたのですが、描いてて楽しかったのはトマス のこの疑っている目でした。

目を見開いて出来た額の皴、描写をすればするほど、私レベルの画力でも彼の目や手に魂が宿っていくことを実感しました。その絵を見ていた人が「贋作師にでもなったら?」と言われるほどでした。それでも全く描けなかったのがイエスです。イエスの俯きの表情がなんとも言えず、上手くいかなかったのを覚えています。この人は痛がってるのか、何を考えてるのか、見た目の表情だけでは何故か捉えられませんでした。それにトマスの腕を握っている手は誰の手なのか分からなかったので、これがどういうシーンなのか少しだけ聖書を読みました。処刑されて復活したイエスに対して、トマスが疑って処刑したときに出来た釘跡、若しくは脇腹(聖痕 に指を入れないと信じないと言うところですが、結局のところ、トマスの手 を握ってる手については謎のままです。 文脈からその手がイエスのなら指を入れてみなさいと力を入れているのだろうし、脚色で弟子の手なら「それぐらいにしておけよ」という感じで手を押さえているようにも見えます。聖書を読まなかったときはトマスが無理矢理入れてるところをイエスが止めてるように見えていました。カラヴァッジョはもしかしたら敢えて分からないようにしたのかもしれません。
絵画を過ぎ去っていく時間と共に見てるだけなら理解したつもりの表情でも、描いてみるとイエスが何を思ったのか分析が必要になってきますし、トマスと弟子達は前屈みになっているので重心の かけかたが分かるのですが、イエスに関してはどんな気分で立ってるのか想像出来ませんでした。トマスと二人の弟子達が小さな洞窟を作るかのような構図、それはとても人間臭いというか分かりやすい感情で描きやすかったですが、イエスに関しては、顔が他の三人の影となってしまって影の中で濃淡が曖昧で難しく、右肩にラフな光の靄を描いたまま描くことが出来ませんでした。イエスの表情が隠れているというより、三人の影によって知る由もないということでしょう。
一体この画家は何を見て描いてきたんだろうなと、カラバッジョは短剣を持ち歩いて気に食わない人がいたら刺していたとか書いてありました。そういった彼の気性の激しさと「信仰」にそのときに少しだけ注目しました。彼等に照らす衣服は私にとってはただの光で、色を似せることしか頭にありませんでした。けれども、本当は違うのです。この光はもしかしたら彼の他の絵にもあ るようにエピファニーなのかもしれません。彼はエピファニー(Epiphany・キリスト顕現、事柄・人物の本質が姿を現す瞬間を象徴的に描写するこ と)、二つの意味を上手く利用していたと思います。  

他に調べてみると風景画を描いている日本画家も出家した人とかも多いわけで、出家したのに遊郭通いの人もいましたが一応はそういう心を知った上で描くことに関心を覚えていく わけです。『伊藤若冲』は出家はしていませんが、若冲の号は居士号で、僧侶と同じ扱いを受けています。 (居士とは出家はしないけれども家庭の中で仏教の修行をすることです)

仏教の学校(高校)に通っていたので当時知っていたことは、キリスト教の場合は私達の世界は神の被造物という結論があるのに対して、仏教の場合は 本質は「空」で本当のところは分からないということ。 キリスト教をモチーフにした絵画は必ず「神は存在する」ということが含まれていました。それが自分に とってはどんな感覚なのか分からなかったし、とにかく閃きやアイディアを欲していた自分にとっては持っていなかったものでしたので憧れを持ちました。
多様な解釈が許された現代の中でも揺るがないものが「在る」ということ、それに惹かれるわけです。
それでも、アイディアに腕がついていかなかったように、予感に思索というものがまだこの頃はついていけず、トマスが未完のイエスの腹部に指を入れて、小さな闇を見つめたままで終わりました。
  今なら分かることは、恐らくこれはイエスの手だということです。より鮮明な画像を見てみると分かったのはトマスの手に対してこの手は綺麗です。 カラヴァッジョは聖人を人間臭く描くことを選んだ人で、聖人を労働者のように描きました。当時の教会からは聖人は綺麗な服を着せるべきだと批判も受けていま した。けれどもカラヴァッジョの場合、聖人は人間臭く描いたとしてもイエスや天使に関しては感情の掴みどころが難しい表情を描いたと思います。(聖マタイと天使)若しくは、イエスや天使の感情を勝手に考えられないという私自身が想像を拒否をしているのか分かりませんが、写実的だからこそ精密度が必要になり、余計に彼の解釈やイメージが謎 になりました。イエスのことを考えてるのか、カラヴァッジョのことを考えてるのかよく分からなくもなってきました。これはあくまでも模写をした感想ですし、もっと画力が上がれば掴めるものだったのかどうなのか分かりませんでしたが、私はこのとききっとこの 先も分からないだろうと思いました。
カラヴァッジョは非常に良い一瞬を自身のイメージと共に切り取り取ったと思います。トマスが指を入れて見つめてる先をイエスの表情や照らす光ではなく、この穴の中をトマスの指の隙間から私達は見ることが出来ません。ですので、 「私を見たから信じたのか、見ないのに信じるものは幸せである」 というイエスの言葉が深くなるのではないのでしょうか。トマスのこの疑いの目は美しいとは言えないこと、肉を開くその指をその緩めなかったことは、この言葉のためにあるように思えます。 


それはイエスが描けなかった私にも言えることだったのではないのでしょうか。
*「聖トマスの懐疑」はカラヴァッジョが殺人を犯して逃亡生活をする前の絵画です。逃亡生活中、死ぬ直前で描いた作品が今、(2016年)日本に来ているそうです。http://caravaggio.jp/
*カラヴァッジョって、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョで名前はミケランジェロなんですね。ピエタのミケランジェロと区別するためにカラヴァッジョってなったのかな? それともやっぱり罪人だから天使の名前では呼ばれなかったのかなミケランジェロの名前の由来はミカエルのことですので。
これは2016年の記事です。

カイエ

シモーヌ・ヴェイユの「カイエ」は二巻と四巻を持っている。中古のみの販売で、一巻と三巻は数万円まで高値がついてしまって買えない。安くても一万円は超えている。
フランス語か英語で探しても、新品でも一冊五千円はいくので、送料も考えるとなかなか手を出せないが、近いうちにフランス語は買おうかと思う。
 カイエとは、フランス語でノートという意味で、特別な意味は無い。ヴェイユが書籍になる予定なんて無い状態で書いたノートで、有名な「重力と恩寵」は、ギュスターヴ・ディポンの手によってカイエから纏められてある。
とりあえず欲しかったのはキリスト教考察で、丁度それが二巻と四巻だった。労働が一巻で、哲学と神秘神話が三巻のようで、
日本という国に感謝なのか、 キリスト教の濃い部分が安く買えたし、古いけど新品同様に読み込まれたような跡が無くて綺麗だった。
(元々一冊、六千円の本を三千円)
カイエにはカイエの良さがあって、重力と恩寵も纏められているから良い部分もあるかな。ノーカット版の映画と、編集後の映画を
見るような感じ。

Nativity of Jesus

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者達が東の方からエルサレムに来て言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」
マタイの福音書 2章1節〜2節
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を送り物として捧げた。
マタイの福音書 2章9節〜11節
みなさま 素敵なクリスマスを。

心の中を流れる河

「しかし兄さんはそうはお考えにならない。それは兄さんが気が弱くて、臆病だからです。自分が臆病だから、ペテロまでも臆病者にしてしまうのです。(略)
兄さんのお説教を聴いて魂をゆすぶられたなら、わたしは悦んで洗礼を受けましょう。信じられたら、こんな『為合せ』(しあわせ)なことはないと、もちろんわたしだって考えています」
福永武彦 「心の中を流れる河」

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  これは小品なので簡単に紹介するほうが良いと思う。
 門間良作は牧師であり、ペテロと自分を重ね、共感を寄せては、自分はペテロ以下だとペテロに拘る牧師だった。その理由は、戦時中に憲兵から教会を閉鎖しろと言われ、彼は教会を閉鎖することを選んだことにある。それでも信者達が閉鎖された教会に集まってきてしまったのだ。その度に憲兵に連れていかれるのは牧師である門間良作だった。
やがて、彼は牧師としては戻ることが出来ず終戦まで工場で働かされることとなる。そのときの弱さや、信者を残してしまったこと、その後悔を礼拝の場でペテロの話を準えながら語る。このシーンだけでも文学として読む価値がある。

 ペテロとは、主の教えに熱心に従い、イエスに「あなたは、メシアです」と初めに言った使徒だった。イエスは弟子達に自分の死が近いことと、彼らが主を見捨てると予告した。その中でもペテロは絶対に貴方を知らないとは決して申しませんと言ったが、最高法院でイエスが裁判を受けている間に三度イエスのことを知らないと言ってしまう。彼は、最愛のイエスを裏切ったことが悲しくて、激しく泣いた。その後、イエスの復活後にペテロはイエスに罪を赦された者として生きる決意をし、初代教会における有力な指導者となる。
  今回の引用は門間良作の妹、梢(こずえ)の終盤の台詞である。もしもこの作品を読むことがあるのなら、ここにも注目してほしい。省いてしまったのだが、「キリスト教の信仰は、本当はもっと強いものなのでしょう」と、洗礼を受けていない梢の強さと、キリスト教徒としての弱さを知らない言葉が色んな読者の胸を突き刺してくる。梢は洗礼を受けていない立場でありながらも、「ペテロが赦しを受けた者として導いたのだから、兄さんもそうしてよ、貴方の今のままの態度だったら、ペテロは弱いままよ」というメタファーを混ぜてくる。それは梢の意識とは関係無く、聖書世界の物語による秩序である。彼女は信仰を「幸せ」ではなく「為合せ」と使った。けれども、これが音として入るとするのなら、門間牧師の耳には「幸せ」と聞こえてしまったのかもしれない。何故、彼女は兄の説教を聞き、魂が揺さぶられるとするのなら「幸せ」ではなく、「為合せ」と使ったのか、為合せとは、自分がすることと、他人がすることが合わさることである。彼女にとってのこれは洗礼を受けていないながらも、確信している信仰なのだろう。

門間牧師は、その言葉をどう受け止めたのかは明確なことは分からないが、二人の帰り路は門間牧師の祈りへとなった。
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好 きな作家は?影響を受けた作家はと聞かれると、日本人の作家なら「福永武彦」だと答える。福永武彦と言われても分からない人が多いので、池澤夏樹の父親ですと付け加える。大体7割の人は池澤夏樹は知っている。そしてこれも付け加える。「私はでも、池澤夏樹は全くタイプが違うのです」と。
ただ影響を受けたといっても違うのは何度も読み込んだというわけではないことだ。彼の作品との出会いは予備校の模試の「現代文」の問題だった。そのときに出題されたのは数ページの「忘却の河」、私は初めて文学というものに心を打たれた。問題は回収されるタイプの模試試験で、私に残されたのは解答のみで、ずっと記憶の中で彼の文章が薄れながらも反芻していた。
彼の小説を買おうと思ったが、廃盤になっていて当時は買えなかった上に、ずっと長らく受験生だったので小説は後回しにしていた。(大学受験→司法試験の準備)彼の本を初めて買ったのは、一作品目を出版した後だった。
たった数ページしか見ていないだけではなく、彼の文章を覚えていたわけでは無かった。残っているのは印象のみで、それからインスピレーションを受けて私は私として成長させた。
後で、照らし合わせてみると彼との共通項は不思議と多かったことに気付く。神話、哲学、心理学、そしてキリスト教。 違うのは彼が福音派で、私はカトリックを選んだということだ。
だからこそ、読むときは集中して読むが、1年以上は間隔をあけて読まないようにする。変にコピーロボット状態になってしまうと困るからだ。けれども、彼と私は似ているところがあるのか、原稿をチェックする人は近しいということに気付いてくれる。
決定的に違うのは、私が現代人ということ、彼が「死」を語る作家なのなら、私は「生」の作家だということらしい。それでも、まだ私の姿は色んな人によって色々な印象を与えるようだ。心理テストでよくある自分と他人が認識する自己像の10項目は一致することが多いのだが、それ以降は色々。福永に似てないと言われればそれまでだし、似ていなくても別に構わない。
*
 武彦が意図して書いたのかは分からないが、この小品には文学者として
語れる範囲と、牧師や神父しか力を持たないものと分かれている。文章の表現の豊富さは文学者のほうがあるのは当然だが、「赦し」に関しては牧師や神父でないと力が無い。私もこの壁にはよくぶち当たる。この話は牧師は自信を失い、信者でない者が理想(あるべき姿)を語る。その意味に読む側としては気付いてほしいところだ。

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

Vincent Willem van Gogh2

庭のマルグリット・ガシェ(1890年頃)

悲しみの女(1882年)
残念ながら、私が行ったゴッホ展ではマルグリット・ガシェはなかった。彼が晩年に恋をしたと言われるマルグリットは、担当医だったポール・ガシェの娘である。この二人は今度の映画(ゴッホ・最期の手紙)で登場するので、楽しみですね。マルグリット役は、シアーシャ・ローナンなので更に楽しみなところです。

私が見れたのは、この娼婦の素描ですね。1882年、ゴッホ29歳の頃のものでゴッホはこの身寄りがない妊婦の面倒を見て関係を持つ。ゴッホはデッサン力が無いように思われますが、素描を見るとそこまで無いわけではありません。パブロ・ピカソの少年時代の素描を天才とするのなら、ゴッホの素描の評価は分かれるところですけれど、昔関係を持った女性の素描は、晩年に描いたマルグリットよりも意識が鮮明だったように思える。マルグリットに関してはピアノを弾いている姿と、この絵画しか知りませんが、特にこの絵画のときにゴッホの女性への愛し方が変化したように思えます。見ているのは女性の身体ではなく、別の視点というのか、プラトニックなものを感じさせます。「庭のマルグリット・ガシェ」は目立つところがないとか、下手と言ってしまえばそれまでなのですが、より印象に近づいたとも言えますし、愛の変化なのか、病の進行によるものなのか、色々想像力を掻き立てますね。いつか本物を見てみたいです。

マルグリットとの関係は実際どうだったのかは分かりませんが、ゴッホは愛していたようです。けれども、マルグリットの父、ポール・ガシェはゴッホに親切でしたが、その愛に関しては受け入れませんでした。彼女と結ばれる見込みが無かったことはゴッホの自殺の原因の一つと言われています。

Let’s take a break.

小休止

作品紹介じゃなくて申し訳ないのですけど、

ロベール・ブレッソン 監督シリーズも色々丁寧に見たい。
ドストエフスキー原作の作品ばかりで

女性の表情とか美しいなと思う。

紹介動画を見てると、この前アルコール度数20度
のカクテルを 舐めながら飲んだけど、
気持ちよかったことを思い出した。

私、お酒と併用したらいけない
薬を頓服で飲んでるから 中々お酒の
タイミングが分からないけど、
お酒でいつもより思考が停止したら祈りの言葉が出て来た。

そんな自分に少し安心する。

無意識なのか、
そんなところにまで浸透してるのが 嬉しかった。

桜桃







・子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。

・私は疲労によろめき、お金のこと、道徳のこと、自殺のことを考える。

・私は悲しいときに、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。

・人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけの読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。

・しかし、父は大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べて種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事。
桜桃―太宰治。(1948年5月)


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◎はじめに

われ、山にむかいて、目を挙ぐ。(文語訳)

(目を挙げて、私は山々を仰ぐ・新共同語訳)
詩篇、第121

 旧約聖書の詩篇の引用から始まる。この続きは「わが扶助(助け)はいずこよりきたるや」と続く。(文語訳)意味は、「わたしは山に向かって目をあげる、わが助けは、どこから来るであろうか」(角川春樹事務所文庫より)
「子供より親が大事、と思いたい」と始まることによって、何て薄情な親なんだと思うか、共感を生むのか、もっと他の意味があると読むのか、様々な読者の「立場」をひきつける。桜桃は短い作品で、この中の父親の名前が著者である「太宰」となっていること、長男の障がいのあること等の一致、妻子を置いて、愛人と心中事件を起こす約一月前に書かれた『桜桃』は私小説扱いでもある。この父親である「私」(太宰)は人を楽しませることや、人の期待に応えようと自分を追い込んでいく。死にたいと思うこと、長男の障がいについて父親は一緒に死にたいと思うことがあると独白で語る。そして贅沢なものでもある桜桃(サクランボ)を子どもに与えず、自分だけがまずそうに食べては種を吐く。

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◎感想

 日本語では「うそつき」を「嘘吐き」(ウソハキ)と書くことがある。この最後の桜桃(サクランボ)を食べては種を吐き、食べては種を吐きというのは、嘘吐きのことをあらわしてるのだと思った。私は(わたくしは)まずそうに演じたということは嘘をついたと同等だとし、 嘘とは種に纏わりついた彼の唾液のことだとする。そうなると、何かを実ろうとする小さな種が彼の口から落とされるイメージがすぐにできる。「嘘とは唾液」とは、「吐いた唾は飲めぬ」と、一度口から出した言葉は取り消すことができないということと、私はキリスト教徒なので、植物の種にはなるべくならプラスの意味を持たせるので、意味を分離させた。サクランボの花言葉は「善良な教育」。それを子どもには与えず父親だけがまずそうに食べて種を吐く。植物の種というものは本来は可能性を秘めているが、恐らくこの種は沈黙のまま捨てられるのだろう。
それら全て含めて親の弱さであり、性(サガ)であり、子を想うからこそ、弱いと認識してしまう葛藤を静かに表している。私は子どもがいないのでまだ確かなことは分からないけれども、親になると自身が弱いと感じることは屈辱なんだそうで、そういう弱さを告白することはとても勇気がいることなんだと聞いたことがある。今は親にも余裕を与えてやろうという考えが広がってるので実際はどうなのか分からないが、誰でも子がいると自分の未熟さを感じることはあるというのは、いつの時代も変わらないとは思う。
 他にも太宰は文学を書こうとする者なら誰しもが悩む普遍的なことなんだろうと思う。 愛や死の同調で喜ぶ読者を見ると彼等に合わせてしまいそうになる。 特に死の価値観は厄介で、死や儚さの同調について、読者の文学への期待は思いのほか高い。もしかしたら生きることや愛の同調よりも期待が高いかもしれない。それは死の同調が「私だけじゃなかった」という安堵感を与えて、「生」に繋がることがあるからかもしれない。死への同調は、生きることも意味する。これは私の独断だが、そういったことを求めるのは女性が多いのかもしれない。
それは現代の私の周りでも変わらない。男性は愛や哲学的なことを主に理性を求めるけれども、女性は死(生)や、人知れず抱いている夢への感情の同調を私に求めることが多い。(それでも、あまりそれに応えすぎないようにはしている)
似たような人がいるという灯りになること、それが作家の弱さの告白の意味である。そしてフィクション作家であるのなら、何処か現実とは違う何かを見せなければならない。例えば、この前紹介したガルシア・マルケスのようなものが良い例だろう。海からバラの香りがするということ、人はこのようなもう一つの現実を期待する。
死や愛を丁寧に書くとすれば基本は一人身のほうが身軽なのかもしれない。 もしくは一人身ではなくても自分を押さえつけない少数の理解者で充分だったりする。作品を第一に考えてくれる理解者がいるのなら、それで良い。それは気楽かといえばそうでもない。一人身でも自由きままに生きることなんて出来ないが、子は犠牲にしていないというのが私の中で安心する一つである。
子育ても経験にとって重要なのかもしれない。
しかしながら、子が可愛いのなら、子を踏み台にしたような経験はしたくないというのがある。完璧な子育てでなくても子は育つけれども、初めから約束出来ないことを誓うことは出来ない。
未来については、神の計らいによるけれども、今の私はそうだ。
 太宰の「桜桃」は作家の葛藤も非常にシンプルに書かれてあるが、妻や子を持った故の葛藤だけで済ませると少し違うのかもしれない。子を持った場合でも持たない場合でも、同じぐらいの課題の重さはある。これは与えられたものに対して、何らかの理由で身軽に動けない人間の葛藤だと私は思う。
だから家庭が無い私にも心に響いたのだと思う。私も家庭が無いことに身軽で極楽トンボだとは感じたことがない。別にあったからといって拠り所になるという理想も今は無い。私は、誰かを泣かせるようなことや、裏切ることや、非道徳的な犠牲が目に見えないだけで、これが正しい生き方なんて自信がないのも私も同じである。これが「私」としか言えない。いえることは、今の自分を必要としてる人がいて、応えたいと思う人がいて、与えられたものは、自分にとって生きるための「かすがい」に違いはない。家庭と違うが、仕事においてはお互い犠牲を払いあって成り立つ関係であるので、感謝すら感じる。
それでも、子や才能(賜物)のように与えられたものによって、身動きが取れなくなるということは多々あり、葛藤があるのだ。
今の私は「桜桃」をそう読む。今回は太宰が残した遺書や太宰の人生とはあまり重ねず作品だけで纏めた。 ただ、太宰は妻以外の女性と心中するときに、子を想う文も残し、生活していけるように印税を残した。残された子について私は詳細不明だが、経歴だけなら立派に成長している。
 取り残された妻は、太宰の遺骨は家に入れなかったが作品が残るように活動をした。心中した相手の女性の家族は名誉回復のために長年に渡って活動した。今では彼に対しては賛否両論はあるけれども揺るがない知名度の高い文豪となった。人の吐いた一つの嘘なんて誰かの誠意で綺麗になっていくように、捨てられたはずの種がまるで育ったようだ。

Lord, have mercy.

*今回、太宰治の本を朗読する機会があったので二作続けて書くことにしました。
*長男の行く末に関しては表現が思いつかなかったので省略しました。
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◎参考にした他の書籍の一部


「ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。神か富かどちらかを選べ」 (マタイによる福音書・6・24)


信仰は本来、人間の弱さや源として希求されてまいりましたが、その観点を忘れた「いい人間ぶること」がこの頃はやりすぎているように思います。人間は美点もあり醜点もあるのものです。 その相克に苦しむとき、悲しいことながら人間は誰でも多少神が見えやすくなるのでしょうか。

曽根綾子

聖人とは欠点のない完全な人間を言うのではなく、この愛とエネルギーに行き、生かされた人のことですね。
尻枝正行神父
別れの日まで―――作家・曽根綾子とバチカンの神父の往復書簡。



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駆け込み訴へ(太宰治)








銀貨30枚を落とすユダ





イエス:「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」

ユダ:いいえ、私は天の父にわかって戴(いただか)かなくても、また世間の者に知らされてなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになって下さったら、それでもう、よいのです。

イエス: 禍害(ワザワイ)なるかな、僞善なる學者(ガクシャ)、パリサイ(ファリサイ)人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど内は貪慾と放縱(ほうじゅう) とにて滿つる(みつる)なり。(マタイの福音書23章25節)

ユダ:「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、
いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。いただきましょう。


私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ(略)
はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」


駆け込み訴へ(訴え)( 1940年 )―――太宰治 
(誰の台詞か分かるように人物名を入れました)


はじめに


「駆け込み訴へ」はイエスという名前は一度も出てこない。全編を要約すると、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴なのです」誰か分からない語り手から話は始まります。ペトロやヤコブへの悪口、文語訳の聖書の引用によって、読者は次第にこの語り手がユダではないか、あの人とはイエスではないかと思うようになります。そうして、有名な銀貨30枚を受け取るシーンとなる最後に語り手が「私の名は・・・・・・イスカリオテのユダ」だと名乗ることによって彼が愛して憎んだ「あの人」とはイエスだと確定する。
この作品は太宰の口述を妻が書き取ったものである。妻の証言によると太宰はこれを語る際、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言いなおしもなかったという。(推敲の末)妻はこのことについて、「畏れを感じた」そうだ。
それはまるで ユダに成りすましたと言えるのかもしれない。

聖書の脚色


 私は自分の出版作では、オスカーワイルドの「サロメ」を扱った。これも聖書、新約聖書の戯曲化、脚色であるが、オスカーワイルドは脚色しても良い場所を上手く選んだ。サロメとはマタイの福音書14章で、洗礼者ヨハネを監禁していたヘロデ王が、彼を殺そうと思っていたが世が支持していたため、ヘロデ王はヨハネを殺せなかった。ヘロデ王の誕生日に、ヘロディアの娘が皆の前で踊り、母親にそそのかされ、洗礼者ヨハネの首を盆に載せてくださいと言った。ヘロデはヨハネの首をはねるように指示をし、ヨハネの弟子達が遺体を引き取った後、イエスのところへと報告をした。このシーンをオスカーワイルドが、ヘロディアの娘を「サロメ」とし、洗礼者ヨハネを見つめる視線を恋のように準え、サロメに焦点を当てた。これは単に、「首が欲しくなるほど人に恋をした」と言わせるような話ではない。そんな感想は「思春期」で終わりにして欲しい。
 ヨハネの死の後のマタイの福音書15章、イエスはこれを聞くと、船に乗ってそこを去り、ひとり人里離れたところへと退かれた。私の作品ではこれをイエスの哀しみであり、サロメはイエスの哀しみを作ったのだと登場人物、川村光音の考えとして語らせた。 サロメの素晴らしさは、サロメをいくら語ったところで特に聖書解釈に大きな影響を与えないところだ。 それに加え、手に入れてはならない神秘に人が近づこうとするとどうなるのかというのを痛々しいほど語っている。サロメの影響でマタイの福音書14章から15章をまたぐ際に、私には文字と文字の隙間、虚空とも言える空白にヨハネの死が響いているように見えた。私はオスカーワイルドに脱帽した。オスカーワイルドは自身の癖や痕跡はサロメの台詞に残しつつ、自分自身の声を消すことに成功している。
 それと比べてみると、太宰のユダはサロメのような戯曲(演劇)ではなく「落語」のようなものなのかもしれない。落語は語り手は一人であり、登場人物への感情移入も6、7割程度で、話り手を重視する。そして大体の落語は有名な「饅頭怖い」のように、人間の内面を深く書くことはあまりない。落語の掟であるのなら、この作中のユダの心の内はいくら語れども深みなんか無いという結論になる。後戻りが出来ないような罪を犯した場合、世の声とはそうなるので、調子者、落語調にしたことは秀逸だと思う。
例えばこんな語りがある「ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集まり、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたのなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ」 これを朗読するとするのなら、落語のように少し軽快な喋り方が良い。演劇のように全身で捻くれたユダになりきってしまうと誇張しすぎてしまう。落語まで笑いを取るところまでいかなくても軽快さ、少々そのような調子が必要だと思う。
 確かに、ユダはイエスに期待していたが、イエスはユダが思ったような行動をしなかったのでユダは失望した。そういった心情は聖書からも読み取れるが、太宰のように「馬鹿な奴らだ」と、ここまで語られると、ユダの真の内面を言い当てたと言い難い。やはりこれは「太宰」(語り手)の声なのである。この調子者のような語りが余計に人間の不安定さ、哀れさが表れる。 この「駆け込み訴へ」のユダは太宰治の声であるからこそ、人間各々の不安定さが反映される。そうなると、実はユダらしくなるのでは? と、妙な言い方になってしまうが、今の自分には納得出来るものがある。

太宰とキリスト教



 太宰治も麻薬中毒者でフラつきながら、当時はまだ希少だった「聖書知識」のバックナンバーを借りたいと悲鳴のようなハガキを送ったりしていた。(桜桃とキリスト・長谷部出雄から参照)彼は他の宗教よりもキリスト教のほうに入れ込んでいるところがあった。洗礼は受けていないが、自分は父である主から見られていて、自分の罪は記録されているという意識があった。若い頃からカルモチン(睡眠薬)で自殺を試みる彼は、求めていたのは救済というより、戒律と己を比較して己の心の汚穢(おえ)を見つめていた。
オスカーワイルド「サロメ」との類似点は、人間の不安定な感情によってイエスの光が浮き出るということ、若しくは逆にイエスの光によって闇が濃くなるということだ。太宰のこの話は、ユダが口語体となって、卑しく書かれていることによって、イエスの文語の言葉が輝いて見えるようになっている。
ユダが「あの人」とイエスへとおくる視線は、ユダの心の内が混沌とすればするほどイエスが穏やかに見える。太宰は引用する聖書、マタイの福音書23章を敢えて古い文語訳にし、「禍害(わざわい)なるかな 偽善なる学者、パリサイ人よ」 と、文語ならではの淀みの無いリズミカルな魅力を引き出している。
 作品だけではなく、私生活と並べられて見られることは小説家として名誉なことか不名誉なことか、失礼になってしまいそうだが、この作品はまだ太宰治と妻との共同作業だったことで私は注目した。後に愛人となる太田静子や山崎富栄と出会う前の作品であり、そういった嵐の前の静けさのような作品だったということが私の中では魅力だと思う。夫婦愛に価値を重んじて言っているのではなく、何故、彼がユダを選び取ったのか、彼自身が自分の先を察知しているような魂の予感のように思える。妻はどの程度、夫のことを分かっていたのかは分からないが、それぞれの不安定な魂が人間郡となっている最中、この作品の影響で彼等の人生は文語訳の聖書が一本筋となって流れているように思えた。 

深みが無い哀しみ


  女から見た太宰と、男性から見た太宰、そして太宰と共に情死した富栄の父親から見た太宰、それぞれの証言が残ってしまっているからこそ、彼の発言の中に筋がなく、まるで実体がないように思われる。愛人、静子の子どもに太宰は、本名「津島 修治」の冶(はる)の名前を与えた。その命名と文(フミ)には誠意と謝罪が込められている。山崎富栄はそれに腹を立て収拾がつかなくなってしまったものだから、太宰は、「静子は所詮は「斜陽」(作品名)だけの女で、本当に愛しているのはお前でお前には「修」の名前を残す」と言った。修とは偶然にも、富栄の死んだ夫の「修一」と名前が重なっていた。
二人で死んだ後に、太宰は妻宛てには妻を一番愛していたと遺書を残してある。残された富栄の父親は、太宰とはどんな男だったのかと彼の書いた本を見たら、自殺、心中、薬、女、それだけの話しか書かない男に見え、愕然とした。太宰とはどんな男だったのか、証言が多ければ多いほど実体が分からなくなっている。
ユダは聖書では最後に後悔しお金を返しに行くが受け取ってもらえず自殺を図る。ユダが受け取った銀30枚とは奴隷を買う賃金と一緒だった。
「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、 いただきましょう」
・・・・・・ 「いいえ、ごめんなさい。 いただきましょう」
 
太宰の中のユダはこんな人だった。
 イエスを愛していたユダ、愛するが故に、独占したいが故に、どうせ彼が死ぬ運命なのなら自分がやってしまいたい思う。些細なことでいいのに、あの人は認めてくれない。だったら、売ってしまえ。いいや、私は商人だ。愛? そんな事考えちゃいない。ただ金が欲しかった。
いえ、愛していました。お金を返します、うけっとってもらえませんか、 じゃぁ死にます。 あの人を愛していたのに売ってしまった。 
やっぱり違います、ただ悪いことをしたということが居心地が悪くて死ぬのです。
もしも、太宰のユダが最後まで語るとしたらこんな感じじゃないだろうかと思う。きっとこのユダは愛という着地点につくことが出来ない。ユダの流れ着きたかった場所は何処だったのか、心理学では定立と反定立は共存すると認めていている。人間とは思考があり、神のように「主体」ただ一つではいられない。人間とは自分という主体と他人という客体によって関わりを持つ。主体一つの神と比べると、人間とは不安定な生き物である。
死ぬ気で恋愛しないか・・・・・・「人間失格」「グッド・バイ」

「子は親よりも大事、と思いたい。

子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、
何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ」(桜桃より)

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、

生きていさえすればいいのよ」(ヴィヨンの妻)







 太宰治とは学校でも「走れメロス」以外はあまり薦めない作家だった。それでも日本人としては知ってないと駄目だという暗黙の了解があった。昔は夏になれば「太宰治フェアー」があって、塾の講師が「夏になると、受験生は太宰の人間失格を読んだりする」 なんて冗談を言う。「太宰は自分勝手な人だった」と言う人もいるし、 「太宰は自己愛だけだ」という人もいるし「古事記では自殺した神もいるよ」「賢い人は考え過ぎるから自殺するのよ」と言う人もいた。 過去にまともだなと思った意見は「当時の薬って質が悪いから。薬のせいかもよ」 というものだった。でも、大人になると日本という国だけに限らず、人の生死の価値観は然程そこまで変わっていないように思える。自殺が多い国、少ない国という統計だけを見ても、少ない国が思想が立派で優れているということでもない。
戦前、戦後の時代、作家・芥川龍之介、太宰治、の自殺や情死は若い男女のインテリ層に刺激を与えたようだ。太宰と一緒に死んだ富栄の遺族は彼女の名誉回復のために彼女の日記を公開したが、批判が殺到した。皆、生きるのに必死だった時代に浪漫に翻弄されて好き勝手死んだようにしか思われなかった。それとは反対に太宰と富栄は浪漫の憧れともなった。先月まで当時、本当に自殺をしてしまった17歳の若い男性の日記を関係者から借りていた。彼もまた太宰・富栄のことを気にしている日があったようだ。内容は事情があって触れない。
インクの滲みで潰れてしまって読めない字もある中、日記だけでは実際の行動へと移る因果関係は分からないままだった。文学がそれを誘発したとは言い切れないし、彼等が弱音を正直に語ることによって返って生を見出す人もいる。他人の話を自分のことのように受け取ってしまうことが強い人は 晩年の作品は読まないのかもしれない。
 太宰はダンテの神曲やヴィクトル・ユゴーのノートル・ダム・ド・パリよりも説明することに気を使う。太宰の作品は中高生が読めるレベルの話しが多いが、それはあくまでも読みやすさであって、語るとなると難しい。自分にとっては一番難しい作家なのかもしれない。太宰の場合は作品と私生活を完全に切り離してみても結局のところ、死の欲求については避けては通れない。太宰は病気だったので仕方がなかったとも言えるけれども、やはり自ら生を放棄するようなことを選択するということについて、語るというのは難しい。(というのは、SNS・ブログの限界で、書くとするのなら書籍に粗筋で予め知らせておいて読者に了解を取ってもらったほうが良いという意味である)それでも、私は最後はこの「駆け込み訴へ」で引用されたマタイの福音書の23章を拾おうと思う。
マタイの福音書。23章25節、

禍害なるかな、僞善なる 學者、パリサイ人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど 内は貪慾と放縱 とにて滿つるなり。


イエスは律法だけを守り、中身が形骸化しているファリサイ派の 人々にと外だけ綺麗にして、内は汚れていると警告しているが、 太宰は引用しなかったが重要な続きがある。
26節、 盲目なるパリサイ人よ 汝まづ酒杯の内を潔めよ、 さらば 外も清くなるべし。


私から言えることは、もしも「物語」の中だとか「小説」世界で、生死の価値観が混沌として辛くなったのなら、この杯の内側も綺麗にせよというのを参考にして欲しい。
 信者なら意味が分かると思うことだし、そうでないのならとりあえず、調べてくれると嬉しいが、言葉から感じ取る自身の共感覚を大事にしてほしい。
人間を表す表現は、一方方向の表現では成し得ない。聖書の中の人間が見た神秘についても同様である。神学や哲学だけがあっても足りない。小説、音楽、落語、様々な表現が必要なのである。イエスの意味を知っている作家は必ず分かっているはずなのだ。どんなに自分の筆が冴えても、イエスの言葉には敵わないということ、作家は神の御言葉が「借りものの言葉」とならないように、それが自分の内面が動いて、自分の個性として、他者にも通じる言語となることを待っている。
常にそのために感性は息づいていて、自分の言葉に息吹が吹かれる瞬間を待っている。
抽象的なものまで整然と言語化し、他人に伝わる言語となるのは容易ではない。
このユダが「あの人」と視線を向けるだけで、光は揺るがなかった。 彼等の心の中にイエスはいたということだ。推敲の末に口述で語れたというのはそういうことだと思う。運命はどうであっても、イエスはどんな人の中にもいる。それを信じるのもまた信仰である。
太宰は、ユダの悪が強ければ強いほどイエスの優しさの光が増すと言っていたようだが、私は少しこれとは違う。 人間が陥る運命に対して、誰かの理解や愛があることによってイエスの優しさが増すのだと思う。人間は主体だけでは生きられないが故、理解が必要なのだ。丁度、本を通して読者が太宰やこの本を好きになるように。深みとは、己のみの深みは孤独になることがある。他人の理解はどんな孤独への深さにでも、慈しみを与える。
「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」


この言葉だって理解無しでは光だと気づかない。ユダは彼をイエスとは一度も言わなかったのだから。私は、そうだと確信があり愛はうごめいたが、もうこれ以上は語れない。
Н. Ге. Совесть. Иуда. 1891(ユダの良心)
 
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Domine, quamdiu aspicies

In ipso [Deo] enim vivimus et movemur et sumus:
――我らは神の中に生き、動き、また在る。――
Acts 17:28(使徒言行録17:28)

****

 バルザックのセラフィタで引用されていた箇所で、
意図的だったのか誤りなのか定かではないのですが、バルザックはこの箇所をラテン語で順番を逆にしていたようです。

In Deo sumus movemur vivimus.
(我らは神の中に在り、動き、また生きる)
何か一つ、これについて詩のような簡潔な台詞を添えようと思ったのだけれども、これだけでも完成されたような美しさがあるので、受け入れるばかりで何も閃きませんでした。
もう少し何か経験を積んだら私の言葉として動くのかしら。

・私の心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな工合(具合)になったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れる云う訳に行けしませんのに、これも「神様の思召し」やろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもうたことはみんな夢とあきらめよと(園子)


・「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇りに感じる。何でや云うたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当たり前や、女で女を迷わすことが出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあ云う気いして、嬉してたまらん」 (光子)

谷崎潤一郎「卍」より 

****

 

朗読の感想

 ある役を演じてみるとするのなら、心理分析は欠かせない。私の課題は「光子」だった。甘え上手で人々を虜にする美しい光子、それは男性だけとは限らず、主人公「園子」とも関係を持つようになる。原作も映画も話し手や視点の中心は主人公・園子であり、この美しい光子という女性は園子の記憶の中の者となる。なので、心理分析するとすれば、台詞や所作等からの想定となる。
園子は美術学校に通っていて、観音様を描くが、校長先生にこの観音様はモデルに似ていない、誰に似せたんだと執拗に問われ、反論をする。園子は無自覚で徳光光子に似ている観音様を描いていたことに気づく。それを機に、会うようになる園子と光子・・・・・・。
園子の視点から語られる光子はギリシャ神話でいえば男性からも女性からも愛される美形のナルキッソスであり、園子はナルキッソスに恋をしたエーコーのようなものだ。エーコーは自分で考えて言葉を発せず、ナルキッソスの言葉を借りて繰り返すことしか出来なかった。そのためナルキッソスに見捨てられ、哀しみのあまりに木霊となる。この状況に対して罰を下したのがネメシスだった。 ネメシスのこの行いはギリシャ神話のコアなテーマでもある「ヒュブリス」である。
ただ、卍の場合はヒュブリスまでに至るところまで考えないほうがいいだろう。人を道連れにして死んだ光子、取り残された園子のことを考えると、エーコーは哀しみのあまりに木霊となったまま時間が止まり、光子は水面に映る自分の姿に惚れ込むほどナルキッソスになりきれなかったとイメージしたい。
映画(1964年)では光子(若尾文子)は園子(岸田今日子)に真剣な話をしているようでコンパクトを見ながら話す。私は、真剣な話をしているとき、自分の身の上話をするときは鏡を見ながら話すなんてことはしないので気になったシーンだった。
心理的に自分の映る鏡像が気になる、鏡を見ながら話す人の心理というのは、ナルシストか、自分に極端に自信がないか、というところらしい。
光子はどちらだろうと、やはり自信がない方なのかもしれない。光子は園子の夫とも関係を持ち、園子と夫はずっと「肌があわない」関係だったが、漸く「光子」を所有するという共通点を持つようになる。自信がないというのは、そんな状態になっても光子は夜になると、園子と園子の夫に必ず睡眠薬を飲ませないと気が済まなかったからだ。
園子は「自分じゃなくて夫を選んで裏切るんじゃないか」という疑いを持ち、夫のほうも「これが愛の形か?」と不安になりながらも、光子の言うことを聞いて睡眠薬を飲み続ける。光子は光子で、睡眠薬を飲むのをためらう二人を見て「あんた等、あて(私)欺しててんなあ」と泣き出す。
 人を想いのままに操れるようになった光子は女帝のようになった。しかし女帝としては非力でか弱い。
 終盤の三人の心中は実に滑稽なことかもしれない。この心中は近松門左衛門の曽根崎心中ほど現世で幸せになれないから、あの世(来世)でというような切羽詰ったものがない。収入源だった夫が仕事を続けられなくなって光子が「死の」(死にましょう)と言ったら二人とも了承する。「光子観音」と園子と夫は光子を崇め、光子を真ん中に仲良く死にましょうと三人で薬を飲むが園子だけが何故か死ねなかった。園子は、夫と光子を失うことになるが、最後まで光子を疑いながらも、愛しいと、涙を流す。
****
この作品の魅力は、道徳や倫理感では図れない。何か、現代の慈悲的な感覚で三人を捉えたらこの世界観を崩すことになるだろう。 読書というものは、本と読者の内面との垂直関係であるので自由な捉え方も保障されているが、分析するとなると別になる。柔らかい大阪弁での会話は次第に憎悪が渦巻いていると実際に演技を交えながら朗読していくと分かってくる。この話を測るときに、キリスト教的な解釈の「人の弱さ」ギリシャ神話のヒュブリス、空を飛ぶ鳥のような俯瞰視点が似合わない。例えば園子を本当に愛してるから園子だけに毒を加減したとする、そんな美談、装飾(言葉)を入れようものなら、この話は破綻してしまうのだろう。卍は左旋回を使用しているので「和」の元である。何処までを和といえるのか、難しいところだが最後にバランスを取って三人で死のうとしたところなんかは皮肉なようだが近い気がする。
この作品を簡単に言えば異常ということなのだろうが、本来なら生き残れたということは卍の印の由来でもある「瑞相」(めでたい出来事として起きる前触れ)であるべきだろう。それでも、園子は最後は第二の人生を考えているのか、それも
定かにしないまま、ただ泣いて終わる。園子にとっての吉兆の印とはやはり光子との
出会いだったのかもしれない。
 この作品の魅力は括弧たる日本語で、「綾模様」を作ったことであり、その儚い模様が美しく、卍という記号のビジュアルイメージだけで雁字搦めというほうが適切なような気がする。本来の意味よりも視覚によって人が左右されるとするのなら、卍という重なりの記号を持ってきたことは一種の戦略だと思う。
哲学者・ドゥルーズは、ものごとは様々な線からなる多様体であるという。これを私は日本語の「綾」のようなものだと思っている。子どもの頃やった綾取り(あやとり)と聞けばイメージしやすいが、彼に言わせれば物事は、様々な性質を持つ線の絡み合いから出来ている。そして、思考は侠気のような何かに衝突し、生が死のような何かに衝突するような場所はいたるところに存在する。この「卍」は世界から見ればそんな「交わり」であり、「平行線」である。それらの緊張の糸は、紐解かれる間に心中というものさえも善だとか悪だとか、簡単には言えない価値観へと突入する。
一人の女性を夫婦が取り合うという構図、
バルザックのセラフィタも夫婦になる運命の二人が
両性具有の天使に恋をする。
(セラフィタの脚本について)
 今、書いている脚本、バルザックのセラフィタと構造が似ているので研究用に選んだ一冊だった。構造は似ているけれども決定的に違うのが、卍は光子という存在の裏に潜むものが無限遠点という架空の概念であるのに対して、セラフィタは、人間二人はセラフィタを手に入れようとしたがるが、下されるものはヒュブリスではなく、牧師でさえ図れなかった神秘であり、最後はイエスは父への至る道に沿っていこうと導きがあるところだ。 
セラフィタというものを表すのはミステリアスでありながらも
無限遠点ではなく「神」という明確性だ。
卍の光子は、外見の美しさよりも動かしたものは、人それぞれが抱く欲であり、人々の積み上げであり思い焦がれる「観音様」であって、歪んだ仏心による「美」だろう。セラフィタの場合は、元々人々が崇めなくても天使として「存在」している美しさだ。
セラフィタと卍、

どちらが素晴らしいのか、どちらが本当に美しいのかと優劣はつけられないが、人間の有限性というものが儚いとするのなら、その儚さを躊躇することなく表現出来たのは

卍だろう。

綿貫に関する記載は、重要な人物でありながらもこの記事の全体のテーマ、ブログでの読みやすさを考えた上で省かせてもらいましたが、男性として機能しなかった綿貫の議論からも引用を。

元政上人は男子の男子たる印あったら邪魔になるのんで、灸すえた云うやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そない云うたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現してあるのんやし、観音さんや勢至菩薩の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性や云うこと分かってる


本→新潮文庫
映像に関するcopyright →角川書店

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Toward a narrative

   

「この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、時のしわざだし」(第三章)

「こんなふうにして、いつも大聖堂の型にはめられて成長し、その中で生き、眠り、ほとんど外に出ず、四六時ちゅう建物の不思議な圧力を身に受けているうちに、とうとうガジモドは、少しずつ建物に似てきた」


「カタツムリが殻の形に体を合わせるように、彼は大聖堂に体をあわせたのだ。
(略)この建物は彼の住居であり、巣窟でもあり、外皮でもあった」
(第四章)

ヴィクトル・ユゴー著 
ノートル=ダム・ド・パリより。


*簡単な粗筋*

 主人公、カジモドは赤ん坊のとき捨てられ、当時まだ助祭長だったフロロに拾われる。月日を経てフロロは司教補佐へ、カジモドはノートルダム大聖堂の
鐘つき男となるが、音が聞こえないため鐘の音は聞こえない。彼の外見は醜く、人々からバカにされる存在で広場で晒し者にされるが、美しいジプシー娘のエスメラルダに助けられる――――。

醜いカジモドのことをユゴーは第4編でカタツムリの殻に例えた。

****

カタツムリの殻というものには以前話した「黄金比」(黄金螺旋)が隠れている。人類が発見した黄金比、新約聖書の神と共にある「言葉」(ヨハネによる福音書1章)というものはギリシャ語ではロゴスと言うが、「比」という意味もある。他にもアリストテレスは「命題」をロゴスと呼んでいたし、神の言葉に匹敵する比とは「黄金比」だと一部の数学者や神秘数字を愛する者からよく語られる。このカタツムリの殻とは「命題」でもあり、そして「黄金比」という答えでもある。

元々、ノートルダム大聖堂自体、建物の比率が長方形の黄金比となっている。設計自体も聖書の数字を彫刻等に散りばめられていて、荘厳なる大聖堂である。けれども、ユゴーは長方形の黄金比としてではなく、カタツムリのような地味な生物の殻に潜む黄金比を大聖堂に例えた。ガジモドの体をその渦巻き上の「黄金比」に押し込め、全ての歪さを上手く表現する。その歪さ中には障がいを持つ者、ジプシーへの根深い差別、そして神を外皮のようにしか扱えない者への冷静な視線が表れている。

大聖堂に捨てられていた赤ん坊のガジモドは20歳ぐらいになるが、外見は醜かった。最期は愛する同じジプシー女性の亡骸と共に白骨化するまで眠り続けて砕け散った。 眠りから死の境界線はいつ越えたのか、その「時」は読者には知らされない。憎悪と欲、ノートルダム大聖堂を取り囲む長い長い人間劇は「時」のつけた傷に過ぎず、最期の白骨化があまりにも切なく、この死に方が幻想と現実の区別をつかなくさせる。

ユゴーのノートル=ダム・ド・パリの完訳版を再読したが、まるで大聖堂の建築を様々な思考を持ちながら細かく見ているようだ。この作品は、著者自身がノートルダム大聖堂を訪れたとき、大聖堂の片隅に「宿命」と刻まれた文字を見つけ、その文字が上から塗りつぶされて消されたころから着想を得ている。この本の帯も「この世は劇場の緞帳です」とリルケの言葉を使っていた。このように「緞帳の裏」「隠している事実」に焦点を当てることで明かされる告白、著者自身もそれを望んでいるように思える。ただ、その隠しているものとは国民全体で考えると、本当は知られたくないものだったりすることも多い。

例えば、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(映画)になりますが、この話しもフランコ政権の検閲を逃れるために色々と置き換えた「詩」と囁かれているが、スペイン国民自体はフランコ政権を知ってもらおうなんて思っているわけでもないようだった。
この映画を好きだということがあるのなら、純粋にアナという少女について、
見えている映像世界についての感想と感情を述べることが望ましいだろう。あの映画は大声の主張ではなく詩であり「ささやき」なのである。

ノートルダムに話を戻すと、人間劇で見ると人間の「罪」や「欲」は「時」の流れの一つに過ぎず、小説を読めば分かるようにそれはノートルダム寺院の壁に傷をつける「時」のようなものなのだ。無宗教を選択したユゴーにとってそういう解釈のほうが自然のような気がする。ジプシー娘のエスメラルダは原作では絞首刑になるが、ディズニーアニメではカジモドに助けてもらって生き残り、このシーンは感動的だった。

何故、殺さなかったのか。子ども向けだからという単純なことでもあるかもしれないが、
90年代アメリカは、短期就労目的の非移民も増加した。こういった時代背景も反映していたのかもしれない。国家というのも人格を持った信念でもあるので、多少、国の時代に合わせて変更すること、意味のある変更は私は嫌いでは無い。

どんなに「時」が流れてもジプシーについては謎が多く、あまり取り上げられないし、ジプシーそのものはスペイン歴史同様に取り上げられることを望んでいないところかもしれない。原作ではホロメスの「イーリアス」の説明もしている。ホロメスの作品は物語世界の外にいる語り手が、他の誰かについての物語を語ることが多い。聖書でもこの方法が大半である。このような手法を取ることを全知の存在とも言うが、「物語」の場合、作家は執筆途中で実況にはなりえないという事、作家は果たして本当に自分の作っている作品に対して全知であるのか? そういう疑いを持つようになっていく。

作家・アンドレ・ジッドはMise en abyme(深淵の状態にすること)、物語りには大きな舞台の中に小さな舞台があることに気づいた。ユゴーは既にジッドの前にこの存在に気づいていたという。恐らく、このノートルダムドパリも入れ子状態の中にある深淵を、哀しみを作り上げたと言えると私は思う。

深淵は 深淵のままなのか、目に見えた残酷な
話は残酷なままなのか?

そう思うと、この深淵に対する光かのように
私は聖書の「目が見せもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙2章9節)が思い浮かんだ。*パウロの言葉に鳴り響いているもの、その否定の連続の後に高揚した表現があるが、これは人智を超えた神の霊による啓示について語られたものである。

ノートルダムではカジモドが一心不乱で自分では聞こえない鐘をつく間、物語りには書かれなかったがその鐘の音に全く意味が無かったわけではない。傷が在る外皮の中に祈りはあり、現実としては争いもあり、小さな愛は沢山在った。 

ディズニーアニメのカジモドは外見は醜いが、心優しい青年に描かれ、大聖堂のアーチから溢れる光、日の光が照らす街へと夢を見る。原作では孤児だったカジモドはアニメの中では“Sanctuary, please give us sanctuary”と母に守られたという過去を持つように加えられた。

そのように情を持ち始めたのは、ユゴーが絶望的に書いた「時」が作り上げた、現代の私達だ。その時、差別されていた存在を愛されるような存在で描こうとした人間がいて、現代では作品に対してカジモドへの同情は耐えない。

全員がそうだとは言い切れないが、この作品は「時々」愛読されている。世の深淵は深いが時々、愛は在る。どのようにこの理解が育ち、未来で人の愛が育ったのか、この形成はどう説明出来るのだろう。

  人の記憶と同様、世界は記銘と、保持と、想起によって「貝」のように形成される。けれどもそれを把握したからといって全知とは言い難い。はかれない深淵と、神の光、人がこの世に存在する限り深淵は深く、人が愛を識る限り、必ず神(fate)を意識する。 もしも悲劇の物語を見たとしたら、それに悲しむ自分の奥底に
愛があり、神と繋がりがあるのかもしれない。物語の中でその一滴の情があればこの話は違ったということ、それは神のいつくしみに似ているということは、言いすぎだろうか? 

砕け散ってしまった白骨、

私達は物語の外。

心で溢れた感情は、深淵から「時」を経て浮上した愛の一部。

***

*コリントの信徒への手紙の説明「否定の連続の後に高揚した表現」について。オットー(聖なるもの)より引用。パウロに関しての説明は正式版で。

*神をfateとしましたが、訳を当てはめたわけではありません。 
*世界は貝のようにとありますが、この作品に合わせて書きましたが私自身「巣」だとしています。矛盾かもしれませんが
*ユーゴと表記することが良いらしいですが、持っている本がユゴーでしたので
ユゴーで統一しました。

画像:http://www.iamag.co/…/the-hunchback-of-notre-dame-90-origi…/

http://disney.wikia.com/wiki/Notre_Dame_de_Paris

(批評:簡略版)

Salome

(facebookでの記載をそのまま掲載しています。出版本・Icon o graphを読まないと
分からないようになっています)
****
Icon o graphの中で使われたオスカー・ワイルドの「サロメ」のイメージ画像を実は作ってあったりします。(完全に自分の趣味用なのですが)中央のサロメとヨカナーンは有名なオーブリー・ビアズリーの絵を使用しています。上が私の趣味用制作で、下がビアズリーのサロメとヨカナーンです。
「サロメ」という作品の私の解釈(主に宗教的解釈)は小説の中にありますのでここでは書きません。
****
 オスカー・ワイルドのサロメに出会ったのは17歳のとき。オーブリービアズリーの画集で知りました。ワイルドの原作も読みましたが月の描写が印象的でしたが、当時はヨカナーンが洗礼者ヨハネだと知らなかったし、そもそも「洗礼者ヨハネ」とは何者かとよく知らずに惹かれた話です。
何か道徳的な教えがあるわけでもなく、官能だからとか興奮するとかそういう理由でもありませんでしたが、何故か惹かれたのです。
****
一つ、この戯曲の魅力を語ると「演武」を彷彿させることでしょうか。 私は少しだけ子供の頃に合気道をやっていた事がありまして、「受け」に関しては自分なりに色々考えたことがあります。痛くない競技とは聞いていても大人相手となると、やはり痛いときもあったので、何かを考えていないと人前で泣きそうだったのでしょう。
**
柔道の勝ち負けがある「試合」と違って、「演武」である合気道は
初めから投げる側と受ける側と役割が決まっています。ですので、特に目立つメリットもなくて影が薄い存在で、子どもの頃の私はあまり好きじゃありませんでした。
技をかけられている間は、痛いこともあるというのは変わらないけれども、「受け」として姿勢や表情を整えていくようになります。
投げられるときも気を抜けず、倒れるときに、如何に綺麗に倒れられるのか、自分が倒れて床を叩くときに如何に良い音がなるかどうかというのを意識していきました。 倒れたときの起き上がり方、しまいには自分の横顔や髪の動き、袴を触って皴を整えるところまで気を張るようになります。
泣くとしたらトイレで泣いて、また静かに稽古に戻ってきて、弱さや疲れを体捌きで出さないようにします。
思い返してみれば、秩序の中で呼吸を合わせることを覚え、勝敗という結末以外で自我や闘志を表すことを探すことが演武だったのではないかと、私は思うのです。
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作中のように女優が「サロメ」を演じるということは、「演武」のようなものだと私は捉えています。舞台全部とは言えませんが、「サロメ」は特にそうだと捉えています。
ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)の頭部を手に入れてしまった彼女には処刑しか待っていません。サロメはイノセントなのかもしれませんが、女優はその運命を知っていて「美しき受け身」を維持出来ることが私の理想です。 
その運命をどのように理解するのか、それをどう身体で表現するのかというのは、女優の才能にかかっています。彼女は小説の登場人物はサロメの元となった聖書の背景をよく理解していましたし、「サロメは永遠の闇の乙女」だということにも抵抗を見せませんでしたし、現代の乙女心や、現代の自由恋愛にも当てはめることもしませんでした。(インタビューの間)彼女はサロメは殺されるべき運命というのを心で理解していたのだと思います。 処刑を言い渡されたときに必死に抵抗したり、無秩序(カオス)の快楽主義に走ったりすると、恐らく挿絵のビアズリーの黒(闇)に近づけないでしょう。
サロメを演じるのなら、如何に美しく痛みを体現出来るかというところにかかっています。女優は全てを知っているはずなのに、サロメとして無邪気に振舞う。それは全て演武のように、「秩序」の中に成り立っているのです。
だからこそサロメのヘロデ王に見せた舞は侠気で、異常であり、
光(イエス)を知らずにして死んだサロメの死は現代となっても
「闇」なのではないのでしょうか。
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*ずっと長らく原作者、オスカー・ワイルドは異端とか官能の作家扱いとして聞いていたのだけれども、実はカトリックにでも惹かれていたんじゃないかと気づきました。何故なら、サロメ世界の秩序は何が光であって闇であるかということに厳格だったからです。一見、無秩序のように見えてサロメの死でそこに気づきました。 それで後から調べなおしたら、オスカーワイルドはカトリックに惹かれていて年を取ってから改宗していました。  当時はワイルドが生まれたイギリスは聖公会が主流だったので、(記載によってはプロテスタント) 改宗が許されなかったのだとか。
*オスカーワイルドは「幸福の王子」の原作者でもあります。これは、すぐにキリスト教的だなと分かりやすいとは思います。

Incomplete wisdom

「不完全な知恵へ」
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うめきつつ求め、上昇のために手さぐりする悩める不完全な知恵に対して、私達は自分が真理を持っているという喜び、あるいはむしろ自分が真理を受けいれたという喜びによって無感覚であるべきだろうか?

――シモーヌ・ヴェイユ著・神を待ち望む・ペラン神父の序文――



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「神を待ち望む」とは彼女が信頼していたペラン神父がつけたタイトルであり、ヴェイユが一番好きだった言葉”en upomèné”(耐え忍んで)」(ルカの福音書8:15~)から導かれたものである。ヴェイユの死後、ペラン神父がこの本を出版することになるが、この「真理を受け入れたという喜びによって無感覚であるべきだろうか?」とは、はこの出版に異議を唱える人々(自分達は真理を持っていると思っている信者)への彼の「レトリック」である。
この本は彼が言うように、疑いようもない霊的文学としての美を備え、確かにキリスト教としては議論の余地があるものである。彼はそんな中でもヴェイユを天才的な聖者と称え、この「魂の意識」を皆によく知らせたいとした。ペラン神父は先見性を持っていて、これからのキリスト教外の価値観とどう向き合うかにも視野に入れていた。その上でヴェイユ独自の宗教観への指摘もあるからこそ、この本は出版出来たのかもしれない。この二人の対話は
まさしく、神を待ち望む姿そのものだった。
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私は数年前にこの本の二人の姿勢の美しさに魅入られ、「悩める不完全な知恵」というものを「上昇のため」と認めてくれた顔も知らないペラン神父に憧れを抱いている。 このように顔も知らない者、文章だけで愛せるという力があるということは作家にとっては必要なものだと思っているので恥ずかしいとは思わない。何故なら作家自身が文章だけで虚構世界を表現し、愛されなければならないからである。
心理学上、一番人間が感情を表現しやすいものは「顔」であり、次は「声」だと言われている。「顔」や「声」にも頼ることが出来ない文章世界は、一般的には表現しにくく、受け取り側も困難なツールとされている。過去に私は、文章世界を見てほしいと思っている者がテキスト世界の聖書を読まないということや、否定するということは矛盾に値するのではないのか?ということに気づいた。
それから聖書世界は私の中で「在るもの」となった。信じる信じない以前に、打ち消すことが出来ないものとなった。私は恐らく、作品の中で聖書の引用を消すことはしないだろう。
その熱は動力とも壁ともなるものでもある。
そんな私にとって「不完全な知恵」という言い表し方は涙を誘うものがある。それはこの決意が本当は辛いからなのか、感動しているのか、感情の理由は分からない。彼の言葉に掴まれることによって私の魂が「上昇」を夢見ているということに気づかされたのか、私も肯定されたいという欲求が故なのか、彼の言葉が神の優しさのように思える。
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前置きが長くなりましたが、この写真はチェスプレイヤーのボビー・フィッシャーがカストロ議長と話している写真である。(カストロ議長はトーナメント前にフィッシャーに横槍を入れている)ボビー・フィッシャーもまた天才であり、チェスの神聖さに魅入られ数奇な運命を辿っている。今年もハッキリと分からなかった一つが、ボビー・フィッシャーの定跡は「何故美しいのか」ということだった。
色んな人の定跡の動画を見ていて「これは綺麗な進み方だなぁ」と思ってると、大体がフィッシャーだったりする。出回っているのが綺麗な定跡のみなのかもしれないけれども、中々このようなものは出会えない。彼は今でもチェスプレイヤーにとって憧れの存在(天才)である。
何が完全なるチェスなのかは分からないけれども、美しいというのは理屈よりも先に訴えてくるものがある。惹かれているのは単なる写真の構図なのか、チェスを政治的利用にされることに対して抗議するフィッシャーの「情熱」なのか、この二人の対峙のように見えるこの一枚は、まるで映画のワンシーンのように熱を帯びている。但し、熱があるのはフィッシャーだけで、カストロの手の脱力感を見れば分かるように、彼らはあまりフィッシャーを相手にしていない。その中でも刺すようなフィッシャーの視線が気に入ってしまい、私は時々この写真を見るようになった。
楽譜理論も哲学(知を愛する)にも惹かれたりするのだが、ペラン神父やヴェイユ、チェスなどに「何でこんなに好きなんだろう」と振り返ることがある。
分かるのは惹かれるものとは、「無感覚ではいられないもの」だということだ。
無感覚でいられないものは、愛せずにはいられない。
維持や忘却も含めて愛は静止することを知らず、愛するということは情熱が必ず付き纏う。
情熱を持つということは、フラットな地面を只管走ることだけなのだろうか? 私にとって情熱とは魂が上昇を欲しているような気がしてならない。気がつけば身体を忘れて熱だけになりそうになる。けれどもその熱は生きている間は発散されず「耐え忍んでいる」のかもしれない。 
(2016・12・29メモ)

Joyeux Noël et Bonne Année !

HAIL MARY

Hail Mary, full of grace, the Lord is with thee.
Blessed art thou among women, and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God, pray for us sinners, now, and at the hour of our death. Amen.




info

①”What is extracted from inside of us in front of mystery?
 Is it a pure heart? Or is it a reflection of ugliness of ourselves?
 I really fear the latter mystery.
(omit)
 I want to be happy and satisfy my mind.”
***
②“Your answer has always some deep meaning. 
When I am with you, I understand everything. 
I feel as if I am freed.”
by Chris Kyogetu
***
今、書いている脚本(舞台用)の一部を少し英訳。
ある原作を元に制作しているのですが、少し紹介。
①完全オリジナル台詞 ②元々ある台詞を一部変更
どの作品なのか、
また纏まったらホームページに載せます。
では皆様、良い週末を(まだ木曜日ですが)

Agape

    
  Icon o graphについて。

キリスト教映画プロデューサーからお褒めの言葉を頂いたところです。「構造上、アガペーを持ち込むには難しいところを大したものですね」と言われました。
そうなのです。アガペーから離れていくような難しい構造を作りながら私は物語中盤にマタイの福音書の13章を選びました。(各自調べてください)
マタイの13章、神の御言葉(蒔かれた種)が育つための条件とは……小説の中の少年はこの章の朗読の説明(説教)の途中で教会を出てしまいますが、その時の司祭は少年の存在に気づいています。
                   *
時々、日本人はこんな事を言います。「日本ではキリスト教は育ちにくい」と。確かにそうかもしれません。今となっては「現代では失われている」と世界中で言われているかもしれません。それは組織としての大成が難しいというのはありますが、やはり司祭の何気ない視線のように、愛は注がれていると私は思うのです。
現実世界では神への夢想や、イエスが通り道だということを知らなくても、イエスを知る者も各々の「自覚」いうものは「真実」とは別にその人の体系の中に形成されています。現実世界で言葉や誰かの権威で神を消すことも出来ませんし、また同様に神を皆に理解されることは不可能でしょう。
小説の中というものは作家の意思(意志)次第で神を消すことも虚無も生み出すことも出来ます。現代の小説は読者の自由が約束されながらも、神の有無は著者が決められることです。それなのにどんなに決めていながらも、読者は著者の決定には従えないものです。(時々、キリスト教を批判している作家の作品でさえも研究者は本当は聖書からヒントを得たんじゃないかと、関係無さそうな文章を分析したりするのですから)
結論として、小説家は言語だけでは神の有無の「存在」を操れないと知るでしょう。
                   *
 言語とは気分と感情によって読まれるものです。気分と感情が無ければ読むことが出来ません。けれども、それらによって話の重要度が人によって変わってしまいます。それに更に感じる勘であったり、推測であったり心理を読もうとすれば言葉以上に事実に近づくこともあれば、離れることもあります。 そこが面白いところでもあり、中身が理解されないところなのです。
小説は心で読むとも言われたり、特に感情に加わり、その人の想像によって読まれることが多く、読者はその独自の想像力によって文章を読み進んでいきます。それを知りながらも私は、一見アガペーを持ち込むことが難しい話を書きました。 その設定としてフィクションでは凡庸になってしまっているテーマを集めました。恋の設定も死の設定もその一部でしょう。更に、ギリシャ神話、大覚醒時代の文学、問題作品扱いとなった文学、天文時計と外界(人の歴史として)に在るものを用意しました。
 それから現実の「私」について。私は確かにイエスを信じていますし、アガペーも自覚があり、それなりの神秘体験があります。イエスを通して、私の感性は成長し、哲学の歯車は動いているでしょう。それはあくまでも私の内部世界であり、それを取り巻く思索や思考なのです。 これが正しいと人に押し付けたら社会性を疑われるでしょう。このように仮にも「私は知っている」という事実があったとしても、世界にとっては一個人の内部なのです。
(私は洗礼を受けてから二年程度しか経っていませんが)信者同士だからと言っても感情の共有の絶対性は約束されていません。教会に行けば良い出会いもあれば残念な出会いもあります。そして信仰とは弱い人が助けを求めるために入ると思われがちですが、実際に弱かったらやっていけないということです。助けもあれば自立も必要とされます。盲目の模様、嘘つきの模様、そして美しい模様、教会には様々な模様を描いている岩のようにあるのです。私は、そこで静観することを覚えました。そしてそれでも「在る」と感じるものを瞬きと共に知ることが出来ました。(岩とは私の詩情です)
 私が避けたかったのは、物語の中で登場人物の一人だけが信仰を持ち、その人の内部を見つめる傍観者を作ることです。それとイエスを知らない者が悪人になったり、非情になったりするというのも避けましたし、登場人物達を神学や哲学の傀儡にしないように気をつけました。今後の作品ではどうなるか分かりませんが、今回はそうするべきだと思いました。
それにキリスト教徒ならこれは強く持たなければなりません。知らないところでも、神の愛は育っているということです。自分の「覚知」以上の世界を自覚することです。ですので私は敢えて宗教色を強くしようともしませんでした。
私の内部世界がどう思索や思考、そして想像力への動力となり、外に触れることが出来るのか、毎回私は試されます。私の作品は常にそうだと思います。 

* *但し、前半部分からアガペーはあります。小説として明確であるか無いかの違いです。

der Vogel

Sehet die Vögel unter dem Himmel an: 
空の鳥をよく見なさい
Sie säen nicht,
種も蒔かず
sei ernten nicht
借り入れもせず
sie sammeln nicht in die Sheunen;
倉におさめもしない
und euer himmlischer Vater nährt sie doch.
あなたがたの天の父は 鳥(彼等)を養ってくださる。
Seid ihr denn nicht viel mehr denn sie?
あなたがたは 鳥(彼等)よりも価値があるのではないのですか?
マタイ6:26
*********
鳥は ラテン語では(観る)という意味があり、ホロメス等、古代神話では神々の化身と思われてきていた。聖書でも鳥は象徴的な存在として描かれる。
鳥は古代から憧れの存在。そして神の化身という象徴から分かるように絶対性すら持っていた。その憧れの存在よりも私たちは価値があるということは どういう事なのか。
今から話すことは神学的にというより、詩学的に見ることになりますが、神は絶対的なもののために、鳥という憧れの存在を譲ってくれたように思えます。
象徴は絶対的なものと 現実世界を繋ぐ存在です。
物語りを書くとするときに、福音記者やイエスを脚色することはあまり望まれない。ナザレ派の絵画ですら前教皇はナザレの名を汚したと言ったぐらいですから。
そう考えると鳥は自由なのです。階級式に人よりも下という意味ではありません。鳥が神との繋がりがある存在というのには変わりがありません。
鳥は文学や詩人にとっては必要な象徴になる。鳥がイエスや福音記者達と同じ扱いだったらメーテルリンクの「青い鳥」も生まれてないでしょう。私は現実世界と絶対的なものを繋ぐ 詩情や哲学を見つけることは美しいと思うし、それが物語り世界の中で生きることを常に期待しています。

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ある小鳥の剥製が欲しいと思った。

生前を知らない剥製や標本は死から始まる出会いだから 哀しく無かった。それは寝顔にも見えて、愛せるような気がした。

芸術も死から始まる出会いがある。死んだ人が書いた話や絵なのに愛せたりするからね。
芸術が残す形象、それは魂が模った形象だと思う。鳥の標本もそうじゃないかなって 思いながら見ていた。
精神や魂が 模った形、可愛い小鳥、私の引き出しへ、私の詩箱の中で眠って欲しい。

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私が持っているドイツ語版(ルター版)ではunter dem Himmel →創世記1:8の神は大空(Feste)を天Himmelと呼ばれたと同じ使い方。 英訳のesv版 KJV版ではair。専門書を読むより、時々言語変えて
読んだほうが面白いなと思う。 

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