主人が閉じてしまった花園の鍵を見つける。
笑顔を忘れていた三人が庭で復活を遂げる。
イエスは「からし種」のような小さなもので大きく育つと言った。
天の国の「生長」ではないだろうかと感動した。
そしてやはり、天の国では子供が一番偉いのだろう。
(マタイによる福音書18章1~5節)
*画像の著作権はワーナーホームビデオに帰属します。
There are no people who watch you more than God.
(Litany of Loreto)
Lord, have mercy on us.
Christ, have mercy on us.
Lord, have mercy on us.
Christ, hear us.
Christ, graciously hear us.
God the Father of Heaven,
Have mercy on us.
God the Son, Redeemer of the world,
Have mercy on us.
God the Holy Ghost,
Have mercy on us.
Holy Trinity, one God,
Have mercy on us.
Holy Mary,
pray for us.
Holy Mother of God,
pray for us.
Holy Virgin of virgins,
pray for us.
Mother of Christ,
pray for us.
Mother of divine grace,
pray for us.
Mother most pure,
pray for us.
Mother most chaste,
pray for us.
Mother inviolate,
pray for us.
Mother undefiled,
pray for us.
Mother most amiable,
pray for us.
Mother most admirable,
pray for us.
Mother of good counsel,
pray for us.
Mother of our Creator,
pray for us.
Mother of our Savior,
pray for us.
Virgin most prudent,
pray for us.
Virgin most venerable,
pray for us.
Virgin most renowned,
pray for us.
Virgin most powerful,
pray for us.
Virgin most merciful,
pray for us.
Virgin most faithful,
pray for us.
Mirror of justice,
pray for us.
Seat of wisdom,
pray for us.
Cause of our joy,
pray for us.
Spiritual vessel,
pray for us.
Vessel of honor,
pray for us.
Singular vessel of devotion,
pray for us.
Mystical rose,
pray for us.
Tower of David,
pray for us.
Tower of ivory,
pray for us.
House of gold,
pray for us.
Ark of the Covenant,
pray for us.
Gate of Heaven,
pray for us.
Morning star,
pray for us.
Health of the sick,
pray for us.
Refuge of sinners,
pray for us.
Comforter of the afflicted,
pray for us.
Help of Christians,
pray for us.
Queen of angels,
pray for us.
Queen of patriarchs,
pray for us.
Queen of prophets,
pray for us.
Queen of apostles,
pray for us.
Queen of martyrs,
pray for us.
Queen of confessors,
pray for us.
Queen of virgins,
pray for us.
Queen of all saints,
pray for us.
Queen conceived without Original Sin,
pray for us.
Queen assumed into Heaven,
pray for us.
Queen of the most holy Rosary,
pray for us.
Queen of peace,
pray for us.
Lamb of God, who takes away the sins of the world,
Spare us, O Lord.
Lamb of God, who takes away the sins of the world,
Graciously hear us, O Lord.
Lamb of God, who takes away the sins of the world,
Have mercy on us.
Pray for us, O Holy Mother of God,
That we may be made worthy of the promises of Christ.
Grant, we beseech Thee, O Lord God, that we Thy Servants may enjoy perpetual health of mind and body and by the glorious intercession of the Blessed Mary, ever Virgin, be delivered from present sorrow and enjoy eternal happiness. Through Christ Our Lord. Amen.
好きなお祈りの言葉と私のミサっ子ブライス。背景は
ボタニカルアートのPierre Bulliard
日本看護協会出版会の「教養と看護」という特設サイトにて「魂の世話」というテーマで連載をしています瀧本 往人様よりIcon o graphの評価を頂きました。瀧本様は哲学の講師ですので、こちらは哲学的な評価です。お忙しい中、ありがとうございました。とても感動する書評でした。
評価はこちら→
https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing
Icon o graph 案内はこちら→
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| 庭のマルグリット・ガシェ(1890年頃) |
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| 悲しみの女(1882年) |
私が見れたのは、この娼婦の素描ですね。1882年、ゴッホ29歳の頃のものでゴッホはこの身寄りがない妊婦の面倒を見て関係を持つ。ゴッホはデッサン力が無いように思われますが、素描を見るとそこまで無いわけではありません。パブロ・ピカソの少年時代の素描を天才とするのなら、ゴッホの素描の評価は分かれるところですけれど、昔関係を持った女性の素描は、晩年に描いたマルグリットよりも意識が鮮明だったように思える。マルグリットに関してはピアノを弾いている姿と、この絵画しか知りませんが、特にこの絵画のときにゴッホの女性への愛し方が変化したように思えます。見ているのは女性の身体ではなく、別の視点というのか、プラトニックなものを感じさせます。「庭のマルグリット・ガシェ」は目立つところがないとか、下手と言ってしまえばそれまでなのですが、より印象に近づいたとも言えますし、愛の変化なのか、病の進行によるものなのか、色々想像力を掻き立てますね。いつか本物を見てみたいです。
マルグリットとの関係は実際どうだったのかは分かりませんが、ゴッホは愛していたようです。けれども、マルグリットの父、ポール・ガシェはゴッホに親切でしたが、その愛に関しては受け入れませんでした。彼女と結ばれる見込みが無かったことはゴッホの自殺の原因の一つと言われています。
Lord, have mercy.
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| 銀貨30枚を落とすユダ |
死ぬ気で恋愛しないか・・・・・・「人間失格」「グッド・バイ」
「子は親よりも大事、と思いたい。
子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、
何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ」(桜桃より)
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、
生きていさえすればいいのよ」(ヴィヨンの妻)
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| Н. Ге. Совесть. Иуда. 1891(ユダの良心) |
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バルザックのセラフィタで引用されていた箇所で、
意図的だったのか誤りなのか定かではないのですが、バルザックはこの箇所をラテン語で順番を逆にしていたようです。
In Deo sumus movemur vivimus.
(我らは神の中に在り、動き、また生きる)
何か一つ、これについて詩のような簡潔な台詞を添えようと思ったのだけれども、これだけでも完成されたような美しさがあるので、受け入れるばかりで何も閃きませんでした。
もう少し何か経験を積んだら私の言葉として動くのかしら。
谷崎潤一郎「卍」より
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朗読の感想
どちらが素晴らしいのか、どちらが本当に美しいのかと優劣はつけられないが、人間の有限性というものが儚いとするのなら、その儚さを躊躇することなく表現出来たのは
綿貫に関する記載は、重要な人物でありながらもこの記事の全体のテーマ、ブログでの読みやすさを考えた上で省かせてもらいましたが、男性として機能しなかった綿貫の議論からも引用を。
「この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、時のしわざだし」(第三章)
ヴィクトル・ユゴー著
ノートル=ダム・ド・パリより。
*簡単な粗筋*
主人公、カジモドは赤ん坊のとき捨てられ、当時まだ助祭長だったフロロに拾われる。月日を経てフロロは司教補佐へ、カジモドはノートルダム大聖堂の
鐘つき男となるが、音が聞こえないため鐘の音は聞こえない。彼の外見は醜く、人々からバカにされる存在で広場で晒し者にされるが、美しいジプシー娘のエスメラルダに助けられる――――。
醜いカジモドのことをユゴーは第4編でカタツムリの殻に例えた。
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カタツムリの殻というものには以前話した「黄金比」(黄金螺旋)が隠れている。人類が発見した黄金比、新約聖書の神と共にある「言葉」(ヨハネによる福音書1章)というものはギリシャ語ではロゴスと言うが、「比」という意味もある。他にもアリストテレスは「命題」をロゴスと呼んでいたし、神の言葉に匹敵する比とは「黄金比」だと一部の数学者や神秘数字を愛する者からよく語られる。このカタツムリの殻とは「命題」でもあり、そして「黄金比」という答えでもある。
元々、ノートルダム大聖堂自体、建物の比率が長方形の黄金比となっている。設計自体も聖書の数字を彫刻等に散りばめられていて、荘厳なる大聖堂である。けれども、ユゴーは長方形の黄金比としてではなく、カタツムリのような地味な生物の殻に潜む黄金比を大聖堂に例えた。ガジモドの体をその渦巻き上の「黄金比」に押し込め、全ての歪さを上手く表現する。その歪さ中には障がいを持つ者、ジプシーへの根深い差別、そして神を外皮のようにしか扱えない者への冷静な視線が表れている。
大聖堂に捨てられていた赤ん坊のガジモドは20歳ぐらいになるが、外見は醜かった。最期は愛する同じジプシー女性の亡骸と共に白骨化するまで眠り続けて砕け散った。 眠りから死の境界線はいつ越えたのか、その「時」は読者には知らされない。憎悪と欲、ノートルダム大聖堂を取り囲む長い長い人間劇は「時」のつけた傷に過ぎず、最期の白骨化があまりにも切なく、この死に方が幻想と現実の区別をつかなくさせる。
ユゴーのノートル=ダム・ド・パリの完訳版を再読したが、まるで大聖堂の建築を様々な思考を持ちながら細かく見ているようだ。この作品は、著者自身がノートルダム大聖堂を訪れたとき、大聖堂の片隅に「宿命」と刻まれた文字を見つけ、その文字が上から塗りつぶされて消されたころから着想を得ている。この本の帯も「この世は劇場の緞帳です」とリルケの言葉を使っていた。このように「緞帳の裏」「隠している事実」に焦点を当てることで明かされる告白、著者自身もそれを望んでいるように思える。ただ、その隠しているものとは国民全体で考えると、本当は知られたくないものだったりすることも多い。
例えば、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(映画)になりますが、この話しもフランコ政権の検閲を逃れるために色々と置き換えた「詩」と囁かれているが、スペイン国民自体はフランコ政権を知ってもらおうなんて思っているわけでもないようだった。
この映画を好きだということがあるのなら、純粋にアナという少女について、
見えている映像世界についての感想と感情を述べることが望ましいだろう。あの映画は大声の主張ではなく詩であり「ささやき」なのである。
ノートルダムに話を戻すと、人間劇で見ると人間の「罪」や「欲」は「時」の流れの一つに過ぎず、小説を読めば分かるようにそれはノートルダム寺院の壁に傷をつける「時」のようなものなのだ。無宗教を選択したユゴーにとってそういう解釈のほうが自然のような気がする。ジプシー娘のエスメラルダは原作では絞首刑になるが、ディズニーアニメではカジモドに助けてもらって生き残り、このシーンは感動的だった。
何故、殺さなかったのか。子ども向けだからという単純なことでもあるかもしれないが、
90年代アメリカは、短期就労目的の非移民も増加した。こういった時代背景も反映していたのかもしれない。国家というのも人格を持った信念でもあるので、多少、国の時代に合わせて変更すること、意味のある変更は私は嫌いでは無い。
どんなに「時」が流れてもジプシーについては謎が多く、あまり取り上げられないし、ジプシーそのものはスペイン歴史同様に取り上げられることを望んでいないところかもしれない。原作ではホロメスの「イーリアス」の説明もしている。ホロメスの作品は物語世界の外にいる語り手が、他の誰かについての物語を語ることが多い。聖書でもこの方法が大半である。このような手法を取ることを全知の存在とも言うが、「物語」の場合、作家は執筆途中で実況にはなりえないという事、作家は果たして本当に自分の作っている作品に対して全知であるのか? そういう疑いを持つようになっていく。
作家・アンドレ・ジッドはMise en abyme(深淵の状態にすること)、物語りには大きな舞台の中に小さな舞台があることに気づいた。ユゴーは既にジッドの前にこの存在に気づいていたという。恐らく、このノートルダムドパリも入れ子状態の中にある深淵を、哀しみを作り上げたと言えると私は思う。
深淵は 深淵のままなのか、目に見えた残酷な
話は残酷なままなのか?
そう思うと、この深淵に対する光かのように
私は聖書の「目が見せもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙2章9節)が思い浮かんだ。*パウロの言葉に鳴り響いているもの、その否定の連続の後に高揚した表現があるが、これは人智を超えた神の霊による啓示について語られたものである。
ノートルダムではカジモドが一心不乱で自分では聞こえない鐘をつく間、物語りには書かれなかったがその鐘の音に全く意味が無かったわけではない。傷が在る外皮の中に祈りはあり、現実としては争いもあり、小さな愛は沢山在った。
ディズニーアニメのカジモドは外見は醜いが、心優しい青年に描かれ、大聖堂のアーチから溢れる光、日の光が照らす街へと夢を見る。原作では孤児だったカジモドはアニメの中では“Sanctuary, please give us sanctuary”と母に守られたという過去を持つように加えられた。
そのように情を持ち始めたのは、ユゴーが絶望的に書いた「時」が作り上げた、現代の私達だ。その時、差別されていた存在を愛されるような存在で描こうとした人間がいて、現代では作品に対してカジモドへの同情は耐えない。
全員がそうだとは言い切れないが、この作品は「時々」愛読されている。世の深淵は深いが時々、愛は在る。どのようにこの理解が育ち、未来で人の愛が育ったのか、この形成はどう説明出来るのだろう。
人の記憶と同様、世界は記銘と、保持と、想起によって「貝」のように形成される。けれどもそれを把握したからといって全知とは言い難い。はかれない深淵と、神の光、人がこの世に存在する限り深淵は深く、人が愛を識る限り、必ず神(fate)を意識する。 もしも悲劇の物語を見たとしたら、それに悲しむ自分の奥底に
愛があり、神と繋がりがあるのかもしれない。物語の中でその一滴の情があればこの話は違ったということ、それは神のいつくしみに似ているということは、言いすぎだろうか?
砕け散ってしまった白骨、
私達は物語の外。
心で溢れた感情は、深淵から「時」を経て浮上した愛の一部。
***
*コリントの信徒への手紙の説明「否定の連続の後に高揚した表現」について。オットー(聖なるもの)より引用。パウロに関しての説明は正式版で。
*神をfateとしましたが、訳を当てはめたわけではありません。
*世界は貝のようにとありますが、この作品に合わせて書きましたが私自身「巣」だとしています。矛盾かもしれませんが
*ユーゴと表記することが良いらしいですが、持っている本がユゴーでしたので
ユゴーで統一しました。
画像:http://www.iamag.co/…/the-hunchback-of-notre-dame-90-origi…/
http://disney.wikia.com/wiki/Notre_Dame_de_Paris
(批評:簡略版)
* *但し、前半部分からアガペーはあります。小説として明確であるか無いかの違いです。