現象学と巣

去年に出版したイコノグラフは私の想像と経験の結晶ですが、蓄積となった書籍はこんな感じ。現象学は、主にフッサール。ハイデガーは遅れてのスタートだった。日本語だと難解な言葉が多いことから、ドイツ語版、英訳版のみで連想を重視した。日本語版ではあまり持っていないものが多く、作品に登場したウンディーネとサロメもそうだったりする。フランス語版、日本語版と両方手に入れたのはシモーヌヴェイユぐらいかもしれない。
ベルクソンは日本語ですね。他の書籍は
Kindleに入っているので紹介は全ては
難しい。
一体、何の書籍を紹介すれば自分の作品がより分かるのだろうと、探していたら
今年の8月に、丁度良い本が出ていたので
購入した。
今作は、キリスト教要素を散りばめながら、私の思考の糧となったのは「現象学」だった。
あまり言い過ぎると、読者を混乱させるかもしれないのであまり言えないところだけど、
この一冊は今作の哲学要素を深く知りたい方にはおススメかもしれない。
「現代現象学」
経験から始める哲学入門
富山 豊・ 森 功次 著。
新曜社
ただ、わたくし
やはり小説家なので、詩情を優先に、
「鳥の巣」に魅入ったということしか
言えないものですね。
現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)https://www.amazon.co.jp/…/4788515326/ref=cm_sw_r_cp_api_SV…

カイエ

シモーヌ・ヴェイユの「カイエ」は二巻と四巻を持っている。中古のみの販売で、一巻と三巻は数万円まで高値がついてしまって買えない。安くても一万円は超えている。
フランス語か英語で探しても、新品でも一冊五千円はいくので、送料も考えるとなかなか手を出せないが、近いうちにフランス語は買おうかと思う。
 カイエとは、フランス語でノートという意味で、特別な意味は無い。ヴェイユが書籍になる予定なんて無い状態で書いたノートで、有名な「重力と恩寵」は、ギュスターヴ・ディポンの手によってカイエから纏められてある。
とりあえず欲しかったのはキリスト教考察で、丁度それが二巻と四巻だった。労働が一巻で、哲学と神秘神話が三巻のようで、
日本という国に感謝なのか、 キリスト教の濃い部分が安く買えたし、古いけど新品同様に読み込まれたような跡が無くて綺麗だった。
(元々一冊、六千円の本を三千円)
カイエにはカイエの良さがあって、重力と恩寵も纏められているから良い部分もあるかな。ノーカット版の映画と、編集後の映画を
見るような感じ。

Nativity of Jesus

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者達が東の方からエルサレムに来て言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」
マタイの福音書 2章1節〜2節
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を送り物として捧げた。
マタイの福音書 2章9節〜11節
みなさま 素敵なクリスマスを。

Étant disciples de Jésus, les vrais chrétiens comprennent la nécessité d’être humbles.





「鳥は 道具を持たない 労働者である」
By. Jules Michelet (ジュール・ミシュレ)
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漸く、鳥の仮剥製を手に入れた。遠いフランスからやってきたクロサバキヒタキ(Oenanthe leucura) ツグミの一種で生息地は主にアフリカとスペイン。1930~40年製。
仮剥製は観賞用とは違って、学術用や研究用に作られた剥製なので、目などには生気を装うような細工はなく、死を残し、死を纏っている。
生きている姿を知っていると、それは悲しいことですが、仮剥製から出会うということは、死から始まっているので期待でしかない。 特に大事な人の死を数人経験し、愛犬が死んだ後は、この寂しくない死に惹かれずにはいられなかった。だからいつかは手に入れたいと思っていたので、漸く念願が叶う。

担当の書評にもあったように、悲劇の側にイエスがいるだけで読みやすくなるということが私の作品を通して分かったとあった。その事を思い出し、何気にロザリオやメダイを置いてみると、確かに安らぎを感じました。
次の作品は、詳細はまだ出せませんが鳥の仮剥製が出てきます。だからどうしても一羽欲しかったのです。 今度は殺人などの様々な罪に象徴詩学を重ねて、福音書に入りたいと思う。イコノグラフの軸でもあったマタイの福音書13章の種まきについて、(酒井神父様の書評)
マタイの福音書を読んだ人が、鳥の巣の話もマタイだったんだと、繋がりを感じてくれたりするので、私の仕事はそういうところなんだとは思う。

次回作は話は全く違えども、象徴には繋がりがあり、前作では肯定していたものを正反対の使い方をしてクロスさせる。担当からは、私のこと好きな人はそれを待っていると言われる。
この子の名前は フランスから来たので
ミシュレの言葉の「鳥は労働者」とあるように、哲学者、シモーヌ・ヴェイユの名をつけようかな。
それとも、映画「禁じられた遊び」のミシェルっていう名前にするか悩み中。

ちょうど良いボロボロな感じで、本当に愛おしい。

ロザリオも偶然にもスペイン製の1930年もの。
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→生きているクロサバキヒタキの画像

→酒井神父様書評

→担当書評


心の中を流れる河

「しかし兄さんはそうはお考えにならない。それは兄さんが気が弱くて、臆病だからです。自分が臆病だから、ペテロまでも臆病者にしてしまうのです。(略)
兄さんのお説教を聴いて魂をゆすぶられたなら、わたしは悦んで洗礼を受けましょう。信じられたら、こんな『為合せ』(しあわせ)なことはないと、もちろんわたしだって考えています」
福永武彦 「心の中を流れる河」

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  これは小品なので簡単に紹介するほうが良いと思う。
 門間良作は牧師であり、ペテロと自分を重ね、共感を寄せては、自分はペテロ以下だとペテロに拘る牧師だった。その理由は、戦時中に憲兵から教会を閉鎖しろと言われ、彼は教会を閉鎖することを選んだことにある。それでも信者達が閉鎖された教会に集まってきてしまったのだ。その度に憲兵に連れていかれるのは牧師である門間良作だった。
やがて、彼は牧師としては戻ることが出来ず終戦まで工場で働かされることとなる。そのときの弱さや、信者を残してしまったこと、その後悔を礼拝の場でペテロの話を準えながら語る。このシーンだけでも文学として読む価値がある。

 ペテロとは、主の教えに熱心に従い、イエスに「あなたは、メシアです」と初めに言った使徒だった。イエスは弟子達に自分の死が近いことと、彼らが主を見捨てると予告した。その中でもペテロは絶対に貴方を知らないとは決して申しませんと言ったが、最高法院でイエスが裁判を受けている間に三度イエスのことを知らないと言ってしまう。彼は、最愛のイエスを裏切ったことが悲しくて、激しく泣いた。その後、イエスの復活後にペテロはイエスに罪を赦された者として生きる決意をし、初代教会における有力な指導者となる。
  今回の引用は門間良作の妹、梢(こずえ)の終盤の台詞である。もしもこの作品を読むことがあるのなら、ここにも注目してほしい。省いてしまったのだが、「キリスト教の信仰は、本当はもっと強いものなのでしょう」と、洗礼を受けていない梢の強さと、キリスト教徒としての弱さを知らない言葉が色んな読者の胸を突き刺してくる。梢は洗礼を受けていない立場でありながらも、「ペテロが赦しを受けた者として導いたのだから、兄さんもそうしてよ、貴方の今のままの態度だったら、ペテロは弱いままよ」というメタファーを混ぜてくる。それは梢の意識とは関係無く、聖書世界の物語による秩序である。彼女は信仰を「幸せ」ではなく「為合せ」と使った。けれども、これが音として入るとするのなら、門間牧師の耳には「幸せ」と聞こえてしまったのかもしれない。何故、彼女は兄の説教を聞き、魂が揺さぶられるとするのなら「幸せ」ではなく、「為合せ」と使ったのか、為合せとは、自分がすることと、他人がすることが合わさることである。彼女にとってのこれは洗礼を受けていないながらも、確信している信仰なのだろう。

門間牧師は、その言葉をどう受け止めたのかは明確なことは分からないが、二人の帰り路は門間牧師の祈りへとなった。
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好 きな作家は?影響を受けた作家はと聞かれると、日本人の作家なら「福永武彦」だと答える。福永武彦と言われても分からない人が多いので、池澤夏樹の父親ですと付け加える。大体7割の人は池澤夏樹は知っている。そしてこれも付け加える。「私はでも、池澤夏樹は全くタイプが違うのです」と。
ただ影響を受けたといっても違うのは何度も読み込んだというわけではないことだ。彼の作品との出会いは予備校の模試の「現代文」の問題だった。そのときに出題されたのは数ページの「忘却の河」、私は初めて文学というものに心を打たれた。問題は回収されるタイプの模試試験で、私に残されたのは解答のみで、ずっと記憶の中で彼の文章が薄れながらも反芻していた。
彼の小説を買おうと思ったが、廃盤になっていて当時は買えなかった上に、ずっと長らく受験生だったので小説は後回しにしていた。(大学受験→司法試験の準備)彼の本を初めて買ったのは、一作品目を出版した後だった。
たった数ページしか見ていないだけではなく、彼の文章を覚えていたわけでは無かった。残っているのは印象のみで、それからインスピレーションを受けて私は私として成長させた。
後で、照らし合わせてみると彼との共通項は不思議と多かったことに気付く。神話、哲学、心理学、そしてキリスト教。 違うのは彼が福音派で、私はカトリックを選んだということだ。
だからこそ、読むときは集中して読むが、1年以上は間隔をあけて読まないようにする。変にコピーロボット状態になってしまうと困るからだ。けれども、彼と私は似ているところがあるのか、原稿をチェックする人は近しいということに気付いてくれる。
決定的に違うのは、私が現代人ということ、彼が「死」を語る作家なのなら、私は「生」の作家だということらしい。それでも、まだ私の姿は色んな人によって色々な印象を与えるようだ。心理テストでよくある自分と他人が認識する自己像の10項目は一致することが多いのだが、それ以降は色々。福永に似てないと言われればそれまでだし、似ていなくても別に構わない。
*
 武彦が意図して書いたのかは分からないが、この小品には文学者として
語れる範囲と、牧師や神父しか力を持たないものと分かれている。文章の表現の豊富さは文学者のほうがあるのは当然だが、「赦し」に関しては牧師や神父でないと力が無い。私もこの壁にはよくぶち当たる。この話は牧師は自信を失い、信者でない者が理想(あるべき姿)を語る。その意味に読む側としては気付いてほしいところだ。

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

I hope you don’t mind

『“I hope you don’t mind”ということ』

日本では馴染みのある
エルトンジョンの you’re song の
I hope you don’t mind. をどう訳するのか、
単純なようで色々と訳し方があります。理由は語感が日本語となるとインパクトが弱くなってしまうことにあります。意味を近づけるというより、英語のこの語感に近づけたいという願望がそうさせている気がします。

どんな歌詞かと簡単に言ってしまうと、
『僕が君のために作った歌だけど、
気にしないでね。(I hope you don’t mind)
とか、重く捉えないでね、(I hope you don’t mind)』

とかそういう意味があります。

最近になって聞いてみると、こういうのは物書き(作家、作詞作曲)の愛し方かなと思います。作品を作るときは愛する人をモデルにしたとしても、作品が愛されなければなりません。愛されるのが前提なのか、結果として愛されるのかは、卵が先か鶏が先かというような話なのですけど、愛する人に何か書くときは、伝えたい、伝わること、愛されること、作品として望まれる全てを忘れたいのですよね。それが物書きにとって愛する人だけに送る特別性なんじゃないかな。

変な話なんですけどね。

だから、歌詞の冒頭部分から

『It’s a little bit funny this feeling inside
I’m not one of those who can easily hide.

少し可笑しな話だけど、僕は自分の気持ちを簡単に隠せないんだ。
I don’t have much money but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live

そんなにお金はないけど、お金があったら家を買うよ・・・
If I was a sculptor, but then again, no
Or a man who makes potions in a travelling show

僕が彫刻家だったら、いや違うな。僕が
さすらいの薬売りだったら・・・・・・』

と、纏まりの無い話になっていきます。
でもこれは、「お喋りしたい」という、ただそれだけの願望なんですよね。それでさえも、なんだか貴重な気がして言いたくなる、それが恋とか愛を表しています。
『I know it’s not much but it’s the best I can do My gift is my song and this one’s for you
「それで歌を送ることが僕は出来るよ」』

とあるけど本当はそれが伝えたいことじゃない。これすらもまだ自己紹介のような状態です。そしてメインのメロディ、

『And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple but now that it’s done

I hope you don’t mind
I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world

これは君の歌だよ、それをみんなに伝えていいよ。シンプルなメロディだけど
やっと出来たんだ。

気楽に聞いてよ(I hope you don’t mind)
軽い気持ちで聞いてよ(I hope you don’t mind)

こんな言葉で書いたけど、(愛を伝える歌)
君がこの世界にいてくれれば、世界は美しいんだ。』

と、二回繰り返すI hope you don’t mind は私は気楽に聞いてよ、軽い気持ちで聞いてよ、と言いかたを変えて訳しました。

『Anyway the thing is what I really mean
Yours are the sweetest eyes I’ve ever seen

僕が本当に伝えたいことは、君の瞳が美しいということさ。
I hope you don’t mind
I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world

気楽に聞いてよ
軽い気持ちで聞いてよ、

こんな気持ちで書いたけど、
君がこの世界にいてくれれば
僕は嬉しいんだ。

そして本当に美しいのは
君の瞳なんだ、僕の歌は それを表したいだけなんだ。』

と、私は解釈しています。
人の評価を待つ物書きの仕事をしていると、作品を渡しているのに、I hope you don’t mindなんて言って渡しません。そんなのは仕事になりませんからね。
そういう身でありながら、I hope you don’t mindと言って渡すことは、愛する人への特別なことなんですね。私もそうかもしれません。

I hope you don’t mind , I love you.
そういう感覚なのかなと。歌詞だけではなく、エルトンジョンの甘い声がそう思わせるのかな。ポップスはシンプルな言葉だけど、歌手の声の表現によって深みが出たり言葉の意味が左右されるところがありますね。

画像元URL http://38.media.tumblr.com/tumblr_lhg9rjQdnC1qctf1xo1_500.gif

歌詞:

It’s a little bit funny, this feeling inside
I’m not one of those who can easily hide

I don’t have much money, but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live

If I was a sculptor, but then again, no
or a man
who makes potions in a traveling show

I know it’s not much, but it’s the best I can do
My gift is my song, and this one’s for you

And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple, but now that it’s done

I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
I sat on the roof and kicked off the moss
Well, a few of the verses, well, they’ve got me quite cross
But the sun’s been quite kind while I wrote this song
It’s for people like you that keep it turned on

So excuse me forgetting, but these things I do
You see I’ve forgotten if they’re green or they’re blue
Anyway the thing is what I really mean
Yours are the sweetest eyes I’ve ever seen

And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple, but now that it’s done

I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words

How wonderful life is while you’re in the world

酒井俊弘司教様

去年、出版しました書籍の書評が届きました。今回の紹介はカトリックのオプス・デイ属人区司祭、酒井俊弘様です。酒井様は、俳句で新聞にも載られたことがある方です。私の作品は今回は「世界は鳥の巣」という詩学を選びましたので、鳥が身近なもので巣を作るためのパーツを集めるかのように、詩情、哲学、宗教と集まっていきます。
 
酒井様は、仲の良いYシスターの紹介で知り合いましたが、偶然にも以前、ご一緒した映画監督の松本准平さん(まだ、人間。最後の命。パーフェクトレボリューション)
とも知り合いだそうで驚いています。
 
他の方の書評は既にホームページにも出していますが、また改めて後日紹介したいと思います。
 
今後ともよろしくお願いします。
掲載は全て酒井神父様より許可を頂いております。
 
ChrisKyogetu 
 
 
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ICON O GRAPH〔イコノグラフ〕ChrisKyogetu
 様式や内容によって分類されたものをジャンルという。世の中のすべてのものは、ジャンルによって区分され得るわけだが、ジャンルが先にあるのではなく、個々の方が先に存在する。それゆえ、個々のバラエティーがジャンルにぴったりとマッチするわけではない。例えば、私はカトリックの神父だが、プロフィールを記入する際にはいつも職業欄で悩んでしまう。「カトリック司祭」はもちろん「聖職者」というジャンルが設定されていることはまずないので、「自営業」か「その他」をチェックすることになる。
 
 
ChrisKyogetuの小説ICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕を既存のジャンルに当てはめるとすれば、西暦2020年前後を舞台にしているという点から「近未来SFファンタジー」となるのだろうか。今年のノーベル文学賞受賞カズオ・イシグロを想起させるような、次から次へと場面が入れ替わっていく中に人々の心情が展開されていくスタイルからは「印象派近代文学」とも呼べるだろうし、作品全体に散りばめられているキリスト教的要素からは「キリスト教新文学」と呼べるかもしれない。言い換えれば、既存のジャンルには収まり切らないユニークな文学作品だということである。
 倉島真希の死から始まり、同級生の主人公、川村光音(コウネ)を中心に、羽根洸希(コウキ)、教師の筒井舞衣を軸に、天文時計をシンボルに持つ学校を舞台に物語は進んでいく。登場人物たちの心のひだを繊細な文章で綴りながら、単なる時計ではない天文時計や、フギン(思考)とムニン(記憶)と名付けられた二羽の機械仕掛けのワタリガラスなど、不思議な品々が物語の色彩を深めていく。
全体を貫くテーマは、男女の愛だとも言えるし、一人ひとりの救いだとも言えるだろうが、文学的な評価はその道の専門家に委ねるとして、神父という立場から評するとすれば、著者があらすじで引用する聖書の一節がキーになる。

 「マタイの福音書13章、神の御言葉である種が育つための土地の条件の問いかけ、植物の『生長』への詩情、その生長を摘み取り、物語世界は鳥のように巣を作っていく。」(巻末の「あらすじ」より)
マタイの13章1節から始まる「種まきのたとえ」では、道端や石地や茨の中に落ちた種が実らなかったのに対して、良い土地に落ちた種は成長し、30倍、60倍、100倍となる。イエス・キリスト自身が、その種とは「御国の言葉」であると説明している。
 

 ICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕における「種」は何なのだろうか。死んでいった真希の残したものか、川村光音と羽根洸希と筒井舞衣との間を通い合う心なのか、あるいは天文時計やワタリガラスが暗示するものなのか。それを見つけて、自分の心の中で実るまで育てていくことこそが、読者に求められているのかもしれない。
 
 
キリスト教文学と呼ばれるジャンルの著者たち、たとえば三浦綾子や曽野綾子、遠藤周作や加賀乙彦といった作家が描く作品の中のキリストは、彼らが捉えるそれぞれのキリストの顔が見え隠れする。ChrisKyogetuの描くキリスト像、あるいはキリスト教の姿はどんなものであろうかと言うと、このICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕では、まだまだそれは明晰でない。言わば、いまだ顔のないキリストである。まとまった作品としての処女作であるICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕には、著者が表現したい多くのものがあふれているが、それゆえに、言わば万華鏡のような作品となった感は否めない。けれどもそれこそが、これから著者が紡いでいく作品において、その奥深く豊かな内面世界がさらに研ぎ澄まされて読者の前に展開されることを期待させてくれる所以である。
 
 
2017年11月26日
 酒井俊弘
●あと、何か印象に残った箇所はありますかという問いについての
 酒井神父様からの返信の一部です。
 
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作品の中で一番心に残った箇所…難しい質問です(笑)。書評にも書きました通り、万華鏡のような作品ですから、そのかけらを一つというのは、難しいです。あえて一か所なら、84ページの最後の3行、ことに最後の一文です。
『そうなるとこの部屋は帰る必要がない抜け殻のようになった。』
私は少し俳句をたしなみますので、簡潔平明な言葉遣いを通してどれだけ詩情が伝えられるか、に興味があります。羽根の作った靴だけをもって飛び出した舞衣の覚悟と真実さ、たくさんのものが残された部屋の空虚感が、この短い表現で表されていると感じました。また、聖書の中のエリコの盲人の振舞い、「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た(マルコ10,50)」という場面も思い出したこともあります。
 
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 酒井俊弘 オプス・デイ属人区司祭
(書籍案内)内容はどちらとも変わりません。
窗体顶端
 

Vincent Willem van Gogh2

庭のマルグリット・ガシェ(1890年頃)

悲しみの女(1882年)
残念ながら、私が行ったゴッホ展ではマルグリット・ガシェはなかった。彼が晩年に恋をしたと言われるマルグリットは、担当医だったポール・ガシェの娘である。この二人は今度の映画(ゴッホ・最期の手紙)で登場するので、楽しみですね。マルグリット役は、シアーシャ・ローナンなので更に楽しみなところです。

私が見れたのは、この娼婦の素描ですね。1882年、ゴッホ29歳の頃のものでゴッホはこの身寄りがない妊婦の面倒を見て関係を持つ。ゴッホはデッサン力が無いように思われますが、素描を見るとそこまで無いわけではありません。パブロ・ピカソの少年時代の素描を天才とするのなら、ゴッホの素描の評価は分かれるところですけれど、昔関係を持った女性の素描は、晩年に描いたマルグリットよりも意識が鮮明だったように思える。マルグリットに関してはピアノを弾いている姿と、この絵画しか知りませんが、特にこの絵画のときにゴッホの女性への愛し方が変化したように思えます。見ているのは女性の身体ではなく、別の視点というのか、プラトニックなものを感じさせます。「庭のマルグリット・ガシェ」は目立つところがないとか、下手と言ってしまえばそれまでなのですが、より印象に近づいたとも言えますし、愛の変化なのか、病の進行によるものなのか、色々想像力を掻き立てますね。いつか本物を見てみたいです。

マルグリットとの関係は実際どうだったのかは分かりませんが、ゴッホは愛していたようです。けれども、マルグリットの父、ポール・ガシェはゴッホに親切でしたが、その愛に関しては受け入れませんでした。彼女と結ばれる見込みが無かったことはゴッホの自殺の原因の一つと言われています。

Vincent Willem van Gogh

星月夜De sterrennacht(1889年)

「この絵は闇が蠢いている」

本物を見たときの、これが私の最初の感想だった。

 精神病棟に入ってから描いた一枚、「星月夜」。これを見ると彼が確かに病んでいて、満月へ向かう三日月ではなく、新月へと欠けていく月を描き、紺青の空に輝く星に、如何に神秘性を強く感じていたのかを感じ取れる。病んでいると一言で言っても個人差があるということを、この現代でもどれぐらいの人が受け取れるだろうか。

*****

他の精神病者との症状の類似点がありながらも、人知れない内面の力、個人差を発揮させた彼の絵画は、言語無き感動を誘うのかもしれない。
現代でも、ゴッホの絵は賞賛されているとしても、ゴッホの人生を真似しようものなら評価はされない。評価されるとしたら、自身の家計を圧迫しながらも、お金をずっと支援し続けた弟、テオのほうだろう。ルネサンス期であったのなら、莫大な資金を持つメディチ家に援助を受けていた画家というのは、ビジネスとして評価もされるが、ゴッホの場合は、今でいう困った若者なのだろう。

ゴッホは牧師を目指していたが挫折をする。その後に伝道者になろうとしたが、画家を志すようになる。伝道者になろうとした名残からなのか、彼は福音書をモチーフとした絵画を残している。
けれども私が一番、ゴッホの中で福音書を感じるとするのなら「星月夜」だ。星は、イエスが生まれたときのベツレヘムの星、もしくはヘロデ王に殺されそうになるところを、逃避するエジプトへの逃避行の夜空を彷彿させる。どちらも、世が混沌としているときに輝いた星々である。

*****

 ゴッホは常にラファエロ前派が築き上げたような仲間を求めていた。それで出会ったのがゴーギャンだったが、彼は謙虚なゴッホと違い、野心家だったと言われている。
性格の不一致のせいなのか、詳細は不明だがゴッホの発狂によって、ゴーギャンは出て行く。
 ゴッホの死後、彼の生きた姿勢は次世代の美術学校の生徒達に影響し、ドイツを中心とする表現主義に向かうことになる。ゴッホの作品は後に研究されるようになり、贋作が増えてしまう。だから本物を見つけるというのが中々難しいらしい。 彼の作品は最も知られている作品でありながらも、彼の自殺の理由と同じように、彼の作品もまた謎は多い。
そんな彼が残した言葉で印象に残った一文を。

「ああ、君、世間は僕のこの誇張をカリカチュアとしか見ないだろう。しかし、僕はそんなことはかまいやしない」

言葉だけでは、彼は割り切っているように思える。しかし、本当にそんな人間が闇を蠢くように描くだろうか、星に輝きを求めるだろうか。 月が新月へと向かうために輝きを残すだろうか。

 今年の11月3日に漸くこの映画が公開されますね。もう公開されているところもあるようですけれども。ゴッホタッチのアニメーション映画なのですけれども、一年前か二年前、ドイツのニュースで見てから音沙汰無しでしたので日本にはもう来ないと思っていましたので嬉しいですね。

ゴッホ 最期の手紙HP

http://top.tsite.jp/lifestyle/lifetrend/i/35942862/

*ゴッホは日本を夢見ていたそうだが、その彼が愛した日本の絵画は、日本人が開国と同時に輸出する焼き物を包んでいた浮世絵だった。この当時は日本にとって浮世絵や風刺画はゴミ同然だったと言われる。後に浮世絵も芸術となったが、そういった価値の変動、人魚姫が人間になるような魔術的な変身、これらは人々が抱く普遍の期待なのかもしれない。

それは蛹から蝶になるという自然摂理によるmetamorphosisでは望みが無いときこそ、渇望する。


今となっては、こういった期待は芸術家だけのものではないのだろう。


*紺青の空に輝く星に、如何に神秘性を強く感じていたのか→彼の残した手紙から参照。

Mindhunter

 私のお友達Jack Erdieが出演しているマインドハンター(Mindhunter)が日本でも
Netflixで10月13日から配信開始します。是非チェックしてください!

A friend of mine is in this TV show. I hope you’ll watch it!!

パーフェクト・レボリューション(9月29日公開)

(はじめに)

 この映画のスポンサーでもあり、映像プロデューサーでもあるAさんの紹介からマスコミ試写会(9/6)に招待してもらいました。この映画の監督でもある松本准平さんとも友達になれまして、とても充実した時間が過ごせました。

(不完全な純粋)

ミツは大好きなクマに「あなたと私みたいな不完全なもの同士が幸せになれたら」と、自分達を不完全なものとするわけですが、本来ならどんな者でも不完全者であり試練がある。但し、彼等の試練を引き受けようとする人は少ない。
この映画の主人公、クマ(リリー・フランキー)は幼少期に重度の脳性麻痺を患い、車椅子生活を送りながら障がい者への誤解を解くための活動をしている。その活動とは他の障がい者とは少し変わったもので、「障がい者は聖人ではない」と性的な内容のユーモアを交えて講演をする。それは障がい者の代表でもあり、アイディンティティの主張でもあった。そんな彼を見たピンクヘアーのミツ(清野菜名)は彼のことを好きになり、積極的にアピールするようになるが、そんなミツも実は心に障がいある女性だった。

***

 恋は盲目とはよく言いますが、一人の他者に対して最も純粋な目を持つことがあります。その対象こそ愛する人です。恋は相手に与えるという純粋なものも、嫉妬や祝福を受けないような不純なものも抱えることになります。それでも純粋なものを優先にしていくと次第に人は「愛」に居心地の良さを覚え、不純なものに気づくと愛の重さを知り、愛が遠のくこともあるでしょう。「好き」とか「結婚して」と浮かれているような二人の言葉の裏には不安があることが分かっているのです。ミツは二人が一緒になることを困難と認識していたからこそ、一緒になることを「革命」と言ったのでしょう。
クマは過去に受けた手術が原因で、障がい者の子どもが出来る確率が高くなってしまいましたが、ミツはそれでも生みたい、クマとの子どもが欲しいと何度も言います。

この発言は本来なら歓迎されるべきことです。けれども現実は受け入れようとはしません。結婚や出産は当人同士で決めることですが、完全なる二人の世界というのは存在しないからです。二人が生きていくには周囲の理解が必要となります。それが達成出来ないことが二人の障害になるという事は珍しいことではありません。

講演会に出かけながらも身体の自由が利かないクマと、自由に動き回れるけれども心のブレーキが利かない病を持っているミツ、不安定な二人は周囲に反対されたり、支えられたりしながら愛を成長させようとします。

そんな二人を見て勇気づけられるという人は少なくないでしょう。
他者から勇気づけられるというのは、新しい特別なことを知ることじゃなくて、自分でも出来ることをやらなかったことに気づかされる時なのかもしれない。

(最後に)

 話の本筋から外れそうなのでここで書かせてもらいますが、食事会のときに松本監督とAさんに何度もヘルパー役だった小池栄子の演技がすばらしいと連発してしまって、今思い出すと笑ってしまいます。清野さん演じるミツも映像で見るとかなり愛くるしいです。あと、私はリリー・フランキーの見方が変わりました。身体が自由に動かない身でありながら、ハイテクな車椅子で動き回ってはユーモアを言う姿に味を感じました。一人一人の生き様がぶつかりあっているところが生々しいところも、松本監督の魅力でもあります。
彼の映画を見ると、役者のイメージが変わることがあって面白いです。映像も他の邦画には見られない深みと透明感があって、これからの作品も楽しみな監督です。試写会、食事会と共に楽しい時間を過ごせました。松本監督、Aさん、カフェと映画まで一緒に過ごした字幕翻訳者の小川正弘さんに出会えたことに感謝します! ありがとうございました!
(公式ページ)
http://perfect-revolution.jp/sp/

*****
*クマは熊篠 慶彦さんという人がモデルとなっています。熊篠さんは、この映画の企画・原案も担当していて、障がい者のセクシュアリティに関する支援、啓発、情報発信等をしています。

*facebookにも同じ記事をあげています。松本監督からもコメントを頂きました。
ありがとうございます。

「少年は残酷な弓を射る」



We Need to Talk About Kevin(2011)
「愛情」というものは他者を喜ばせたいと思うことでもある。子どもにとっては、その対象は初めは親だとよく言われる。愛情とは親から与えられるものだけではなく、子も親に対して芽生えてくるものなのかもしれない。親子にとって愛情の印は、お互いの期待でもある。
母親が喜ぶと嬉しい、母親が悲しむと悲しい。
子どもは自然にそれが身について当然のようなことのように思えるが、この少年は母親のことを”mammy”と呼ぶことを拒んだ。

スペインのトマティーナでトマトまみれの女性が浮かび上がる。赤という液体が大量の血と連想させる映像と共に、液体という制御不可能性や、この女性の息子は大勢の人を殺したことを序盤から匂わせている。その血の量や、現場が学校ということからコロバイン高校銃乱撃事件と重ねてしまう。
 息子によって家族を失い、社会的信用を失った母親が就職面接を受けるのと同時に、過去の映像としては、この少年の父親であり、彼女にとって夫となる人と愛し合うところまで遡る。映像は過去と現在の流れを交互に映し出し、その中には内的表現がほとんど描かれていない。あるのは、息子が赤ん坊の頃から母親だけに懐かない日々と、出産後のほうが栄養を吸い取られているような母親のやつれた顔。
父親や周囲は日常を満喫し笑っているが、息子が母親には笑わない、嫌がらせをするという日々によって、この空間に幸福や安堵があるようには思わせない。息子の本心や、計画性はまるで見えず、広い家に反して過ごす日々は常に圧迫であり、目を向けるべきはずの事実が、息子という立場と共に飽和してしまい、母親の心が休まらない日々を見せた。
ロビンフッドが好きな息子に父親が玩具の弓を与える。それが次第に玩具から本物の弓となり、高校生となった息子が残酷な事件を起こす。
 この話は映画としては凡庸なのかもしれないが、それでも魅せるのは母親役のティルダ・スウィントンの演技の上手さだろう。本当に何か精神を鬱にさせる薬でも飲んだのではないかと思わせる。母親は常にやつれていてはいたが、本来の日常としては息子に愛情を持ったり、夫と愛し合ったり、妹を出産したり、息子が一度だけ自分を庇ってくれたりと、些細な日々の幸福はあったのかもしれないが、映像の構成が絶妙で不幸としか言いようがなく重たかった。
終盤での刑務所での母親と息子のやり取り、ハグをどう感じるか、何故母親だけ殺さなかったのかが、一番意見が分かれそうだ。
****
ビョルン・アンドレセン(ベニスに死す・ヴィスコンティ)

息子役のエズラ・ミラーは、ビョルン・アンドレセンの再来かと思う人は少なくはないはずだ。

母親がやつれていく分、彼の透明感のある肌は不謹慎な美でもあり、残酷さを表していた。母親に顔を似せたのもその効果があるかもしれない。
それでも、印象に本当に残ったのは物語中盤ぐらいに出てくる、事件の被害者の一人で息子と同じ学校に通っている青年が、車椅子を押しながらもこの母親に対して許したように気遣いをしたことだった。ほんの一瞬の登場なのに、彼が一番印象的だ。
We Need to Talk About Kevinというタイトルが一応は鍵を握る。
amazonプライムで無料で視聴。

Dekalog episode8

「デカローグ」

第8話「ある過去に関する物語」
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」(訳は私)
私が、脇役のこの学生の台詞の意味が分かるのは、キリスト教徒になった後だった。

(解説と感想)
 物語の始まりは、一人の少女が大人の手に引かれて暗がりの中に連れていかれるところから始まる。キェシロフスキ関連の書籍によると、戦後のポーランドは、ユダヤ人の移民一世からは元凶であるナチスドイツよりも、ユダヤ人を見捨てた国として厳しい目で見られていた。
大学で哲学・倫理学の教鞭を執るゾフィアには、第二次大戦中ユダヤ人少女を匿うための洗礼の立会人なることを、「偽証してはならない」を理由に断ってしまった過去を持つ。
学部長のところに、自分のポーランド語の英語翻訳を担当している女性がアメリカから来ていて、
彼から、この女性がゾフィアの講義を聴衆したいと伝えられる。
彼女とは二度目の再会だった。
その女性がいる目の前で、ゾフィアは「人間は感情に捉われている限り、最も善きものを見て最も悪しきことをなす」と、スピノザの引用を語る。
一区切りがついた後、ゾフィアは生徒にテーマを出させる。
一人目に選ばれた女学生は、ある夫婦の話をした。”夫は癌で死にかけて子どもを作れない状態だったので、妻はどうしても子どもが欲しくて他の男との子どもを作った。妻は医者に何度も夫は本当に死んでしまうのかを問うが、この医者は敬虔なカトリック信者で「死の宣告」が出来ない。
妻は、夫が助かるのであれば子どもは堕ろすが、夫が駄目なのであれば産みたいと。なので、医者の死の宣告が赤ん坊の命を左右することになる”
(この話はデカローグの第二話に収録されている。)
それに対して、ゾフィアもその妻には子どもが生まれたという結末を知っていると話す。
「子どもが生きている、それが最も重要」と語ることに、エルジュビエタは強い反応を示し前に来る。
次の発言は、エルジュビエタだった。
エルジュビエタはあるユダヤ人少女の話をし始めた。
①その六歳の少女は、あるポーランド人宅の地下倉庫に匿ってもらっていたが、その家がゲシュタポに接収される。なので、大人達がその少女のための新しい隠れ家を探さなければならなかった。
②あるポーランド一家に受け入れが見つかるが、キリスト教徒になることが条件だった。そして洗礼をしたという証明も求められた。
③ 洗礼の名付け親(立会人)となる夫婦として、敬虔な信者である若い夫婦が選ばれる。そのための神父を外に待たせ、急いで事を済ませようとするが、妻は「偽証をしてはならない」という理由で断る。
その話を聞いて、一人の女学生が、
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」
と言うわけですね。
キリスト教徒じゃなかった頃は、法のようなものにも生じる矛盾だと思っていたのですが、これが結構な意味を持ちます。
**十戒とイエス**
イエスは十戒で定められていた安息日を守らなかったり、姦淫の罪を犯した女性を許したり、解放的な面がありました。
イエスといえば第一に重要なのは神への愛、第二に隣人への愛と二翼の翼となっていて、片方だけでは成り立ちません。やはり隣人への愛ありきなのです。
ですので、キリスト教徒なら恐らくこのへんを重視するはずですが、(戦時中は分からない)
この妻、ゾフィアは十戒の「偽証してはならない」を選んだ。確かにこれも重要ではあるが、断る第一の理由にしては説得力に欠けるし、違和感を覚える。この不可解なところはエルジュビエタも感じていていたのかもしれません。何故なら後に彼女はキリスト教徒となったようでしたので。(それは定かにはしていない)
やがて、真実を問うとゾフィアはあの当時、誤報に惑わされていて、その少女もゲシュタポ関連者だと知らされてあった。 洗礼に立ち会えば自分達も捕まると思ったと、漸く「偽証してはならない」は本心では無かったということが分かります。
それで結局、ゾフィアは「偽証」してしまったのです。ゾフィアは敬虔な信者だったが、「神という言葉はもう使わない」と、教会にも通わなくなり、哲学・倫理学の教授となった。心の中にいる善意を知っている一人さえいればいいと語る。 
彼女は罪を背負って今まで生きてきていた。子ども命が重要だと言うのも、この流れでエルジュビエタへの贖罪のように思える。
エルジュビエタは祈りの時間を作るほどのキリスト教徒となり、ゾフィアを許す。そしてまた自分と関わった人へ話に行く。
戦時中と戦後の善悪の基準の変化、感情に支配されてしまうと見えなくなる恐ろしさと、感情があるからこそ生まれる許しや、贖罪の念がこの55分の短いフィルムで、人間標本のように収められている。
この冷静と静寂の中に、時を超えても人々に想像される感情が詰まっている。
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「デカローグ」とは。
映画監督の巨匠、クシシュトフ・キェシロフスキが、旧約聖書の「十戒」をモデルに戦後のポーランドを舞台にドラマ化。ただし、十戒の正解に合わせたり、問いを生み出しているわけでもない。これはポーランド人が直面した倫理や道徳、哲学的問題に取り組んでいる。(1988年)
私は 命題の作り方とかは彼から学んだのかもしれない。

画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。


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酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

私人

「私人」
「もしも芸術が何かを教えてくれるとすればそれはまさに、人間存在の私的性格でしょう。(略)人間を社会的動物から個人へと変身させるのです」
「多くのものは他人と分かち合うことができます。しかし、詩を他人と分かち合うことはできません。芸術全般、特に文学、そしてとりわけ詩は人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間と直接の関係を結びます」
(私人ーーヨシフ・ブロツキー)
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最近、良いなと思った数行の文がロシア関連だったりする。この前のシャネル5番の調香師の話もたった数行で面白いと思ったら、ロシアだった。(調香師の話はfacebookのみ投稿)

ヨシフ・ブロツキーは1987年ノーベル文学賞を受賞をしていて、「私人」は彼が授賞式で語った演説が収録されている。
文学者は彼のように後世の文学者が育つ道となる持論を残すべきだ。それは「私の自己紹介」「アフォリズム」だけではなく、文学論や詩学等、「何故 文学が生きるのか」という神髄となる持論を語ることだ。こういう人目に立つ人達が語らないと、抽象的世界はエヴィデンスとして残らず、文学は常に大衆の共同幻想に流される。その勢いはどの時代も強いのだから。
結局は芸能と変わらないような姿勢しか持たない作家は意味があるのかすら分からない。芸能は、人の羨望と共同幻想を集めるのが仕事。それを「夢を与える」ともいえるし、アフォリズムを沢山作っていく。
芸術家は夢を与えるだけではなく、墜落も絶望も与えることもある。抽象的や、意味不明も作り上げるし、導きとは限らない。倫理や、宗派を飛び越えたとしても、これが私の「審美眼」だと言えることが重要であり、それで世の常識を新しく増やすことになる。
芸能と似ているけど、決定的な違いは
人のイメージや商品イメージのために生きずに、審美眼に生きることだ。人のイメージ(共同幻想) の先を行くのが芸術家。芸能でも芸術家の域に入っている人はいる。だから時々混合しやすいが、基本はこのように分かれている。
*****
例えば、「勉強なんて意味があるの?」と問われれば、
「学校(テスト)が嫌い」なのか「学ぶのが嫌い」なのかどちらかを知ることが重要だったりする。
日本の場合は義務教育までは受けなければならないが、それ以降は本来は受けなくても良い。学校に行かずにやれるような目標があるのなら別だが、大体が目標は特にないとか、学校に行かなければならない選択肢が多い。
学ぶのが好きだという子でも、大まかに二種類いる。
大学受験や資格試験等、ある目標地点まで勉強すれば良いというタイプと、
ずっと生涯を通して学んでいたいというタイプである。
文学は後者のために生きる。前者は時々重なるぐらいで考えていれば良い。
そして生涯を通して学ぶことに、階級はあってはならないし、迎合もあってはならない。詩の全般を指すことは出来ないが、「私人」と呼ばれる詩のように他人と分かち合えないものも必要なのである。
分からないということは偏差値が低いとか成績が悪いことではない。「知らない」だけであって知ればいい。何かしら権利を得ようとしたり、それで稼ごうとするのなら「才能」が必要になるというだけのことで、学ぶことには才能はいらない。基本は熱意があれば良い。
そういう人達を学ばせてこそ、感動を与えることであり、夢を与えたり、「才能を開花させたり」することが出来ると言える。
自分が知らない土地、死んだ後の見えないところで、こういったことで人の心に貢献出来ることが、文学者が出来る解放なのではないかとすら思う。

諸行無常

画像元:Wikipedia
「諸行無常」
金閣寺放火事件(1950年)
三島由紀夫「金閣寺」と水上勉の「五番町夕霧楼」がこれをモチーフとして小説となっている。
犯人、林承賢と接触があったのは水上のほうらしいが有名なのは三島のほうである。
●自身の障がいと生い立ちに対して光輝く金閣寺に怒りを感じて燃やしたというのが三島。
●仏教(臨済宗相国寺派)として堕落した鹿苑寺(金閣寺)に相反して輝く金閣寺に怒りを感じて燃やしたというのが水上。
事実は両方だったりする。 障がいが故に、鹿苑寺では苛められ、ヒエラルキー構造から出世が見込めないことに絶望して燃やしたという。
今まであんまり金閣寺炎上っていうのに興味を持ったことがなかったけれども、確かにこの時代とタイミングで金閣寺を燃やすというのは、まさしく
「事実は小説よりも奇なり」であり、小説オリジナルだったら凄いなと思った。恐らく現代で同じ障がいがある人が似たような怒りで燃やしても話としてはもう面白くもないのかもしれないし、現代人を使って炎で怒りを表現というのも、単なる迷惑行為であり稚拙になりやすい。
吃音症の人が声をあげたように思われる金閣寺炎上は、現代人の私にとっては「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きなり」を意図的ではなくても表したように思えてしまう。
この時代とは違って、飢えも知らず裕福だからなのか、それとも別の貧しさを知っているからか。
祇園精舎とはインドにある寺院のことで、その鐘の音なんてものは日本には聞こえないが、この炎上は教えに沿ったように声となり、諸行無常となって響いている。
(私は平家物語とか、三島あたりは不案内ですけれどもね。犯罪を肯定しているわけじゃありません)

info

 最近、ブログやInstagramをマメに更新するようになりました。ブログの更新頻度は、マメとは言っても、やや低めではありますがこれからも宜しくお願いします。

Instagramは更新したジャンルによって、投稿するごとにお勧めユーザーの表示が変わって面白いですね。おしゃれ関係のを投稿したら、モデルさんみたいな綺麗な人とかお洒落な人のアカウントが見れて面白かったです。これも流行っている理由の一つなのかなと。


玖璃子

memo 08/12

聞いた話ですが、
“ある日、近所の男性が突然やってきて、一冊の外国人作家の本を紹介した。その後に近所の男は自殺をし、自分はその残された本の翻訳家になった”というエピソードがあって、興味がありながらも放置してしまったので誰だったのか思い出せない。確かバタイユの翻訳者だったと思うし、情報元に聞き直したら、「バタイユの翻訳者だったかな? あとがきに書いてあった気がしたけど」なんて言うのね。
やっぱりバタイユの翻訳者なのかな。もしくはバタイユの本の解説でも書いた人か。
お互いウロ覚え状態で、もう一度その本を探すことになった。
とりあえず探してみます。 
誰かご存知の方はお知らせください。



と、2017年1月にfacebookに投稿し、最近になってこれが誰なのかを見つけた。
やはり、バタイユの翻訳者・研究者の「酒井 健」さんですね。
詳細が分かったので簡単に説明しますと、突然現れた近所の人ではなくて酒井さんの友人のようですね。家に遊びにくるほどの仲で、ハイデガーに精通していたようですが、変わり者で中古のピアノを自分で調律しなおして気分の赴くまま奇妙な音階の楽器を奏でていたそうですね。
それで、ある夜にこの友人が酒井さんに「君にぴったりだ」と、
バタイユの「内的体験」を持ってきたそうですね。
その友人は酒井さんにバタイユを紹介してから一年あまりでこの世を去ります。死因は自殺なのかもしれない・・・・・・確定ではない、そんな感じですね。酒井さんは、それからバタイユ受容への道を行くわけです。(一旦はバタイユの混乱から遠ざかろうとしたけど、段々「感性的体験」によって近づいていく)
中古のピアノを自分で調律しなおして、おそらく音も整ってない状態で、
「気分の赴くまま」というところは数学者の「岡潔」みたいで面白いですね。
実は以前の投稿よりもバタイユは色々知りましてね、語れるほどでもないのですけど、シュルレアリスム自体は十代の頃に思い出があります。
またいつか、その話でもしようかな。

(ちくま新書・バタイユ入門 酒井 健)

(この記事はfacebookに投稿したものを纏めています)

La porte étroite (狭き門)

「貴方は思い違いをしているのよ、わたしね、そんなに幸福になる必要がないの。今のままの二人で、充分な幸福でしょう?」

La Porte étroite:André Paul Guillaume Gide
●粗筋

  ジェロームは12にも満たない幼い頃に父親を失い、叔父のもとで過ごす。その家に住んでいる従弟のアリサはジェロームよりも二つ年上で、妹のジュリエットは一つ下だった。アリサの母親はたいそうな美人で、この二人の姉妹は母親のようにそれぞれ魅力があったがジェロームはアリサの麗しさに惹かれていた。父親が死んだ二年後にジェロームはアリサに会いに不意に会いたいと思ったので、アリサの母親の部屋を通る。その扉は開いたままだったが、アリサの母が軍服を着た見知らぬ若者に媚態を示しているところを見てしまう。ジェロームがアリサの部屋に入ると、アリサはそのことを知っていて泣いていた。やがてアリサの母は家出する。
ある日の日曜礼拝で牧師はマタイの福音書の言葉である「力を尽くして狭き門より入れ」「これを見出すもの少なし」と語る。ジェロームはこの狭き門をアリサのドアの部屋のように思えた。アリサの母の部屋の扉は開かれていて不快なものを見せたからか、愛するアリサの部屋の扉は狭く、自分が骨を折らないと入れないような神聖なもののように思えた。

ジェロームは決心する。僕はこの狭き門へ通るような人間になってやろう、
そして、幸福のための努力を厭わないこと、これが「徳」ということなのだろうと、「幸福」と「徳」を同一視するようになる。
ジェロームは兵役に出る前に、アリサに婚約を申し出るが「幸福はこれ以上いらない」と断られる。ジェロームが君にとっての幸福とは何かとアリサに聞くと「聖なる心」と返ってくる。妹ジュリエットはジェロームに気があったけれどもアリサとジェロームが相思相愛なことを知ると他の人と結婚する。
ジェロームと離れている間にアリサは次第に衰弱していき、最後には日記を残して診療所で死んでしまう。
アリサの死後、ジェロームはジュリエットと再会した。残されたジュリエットには夫との子どもがいて、「アリサ」と名付けられていた。ジュリエットは、ジェロームが姉のことが忘れられず結婚出来ないことを知って、ある一つの部屋へと導く。それは、嘗てのアリサの部屋を思い起こさせた。
そして彼女はこう言った。「目を覚まさなければ」と。 
****
●「門と扉」 
「狭い戸口から入るように尽くせ」(ルカの福音書13章24節)
「狭き門より入れ……これを見出すもの少なし」(マタイの福音書7章13節~) (自由訳)

Efforcez-vous d’entrer par la porte étroite. 
Luc, 13:24.

Entrez par la porte étroite, car large est la porte et spacieux le chemin qui mène à la perdition, et nombreux sont ceux qui y entrent. Combien étroite est la porte et resserré le chemin qui mène à la vie ! et il y en a peu qui le trouvent. 
 Matthieu,7:13~
物語冒頭にはルカの福音書の 13章「狭い戸口」から始まりますが、実際にジェロームが惹かれたのは「狭き門、これを見出すもの少なし」のマタイの福音書7章ということになります。
この二箇所の福音書の引用は教えとしては似ていますが、マタイの場合はイエスは山上の説教で弟子達に話しかけ、ルカの福音書の場合は、十字架の受難が待つエルサレムへの最後の旅の途中で、町の人々へと語ります。マタイの狭い入り口とは「命に通じる門」、ルカの場合は「神の国」と、話の場面や軸は違いますが、門も扉もイエスのことでもあり、ヨハネの福音書の14章、「イエスは父に至る道」とも繋がります。天には住まいが沢山有り、天へと通じる道は沢山あるが、イエスを通らなければならない。イエスという存在は色んな人を受け入れる優しさもありますが、イエスでなければならないと言われると狭くも感じるのかもしれません。
その門や扉は狭いと大体の意味は同じですが、ルカのほうが悔い改めの要素が強く、「ご主人様から扉を閉められて、開けてくださいと言っても、お前たちが何処のものか知らないと言われるだろう」と、狭い扉と同時に主人から扉が閉じられているというイマージュ(image)があります。日本語だと戸口と門となるとイマージュも意味も違いますがフランス語の場合の、“porte”は門も扉も意味をします。ですので、フランス語タイトルである“ la porte étroite”とはフランス語の場合はマタイもルカも同じになります。
ジッドがそこに目をつけたのはフランス語の仕組みが故でしょう。
冒頭は読者へ向けるという意味で町の人々へと語ったルカの福音書から扉は常に閉められているようにイマージュを与え、 ジェロームには弟子達に話した「狭き門」を、彼の体感をイエスへ近い存在へと読者へと意識させます。La porteとはLaがつくので女性名詞です。ですのでジェロームが愛する女性と狭き門を重ねたのもイマージュとしては繋がります。
この世界、ジェロームの視える範囲では扉は常に開かれています。アリサの母親の不貞やアリサの部屋は開かれていて、鍵ですらも脆いのです。これは読者にとってはイマージュ世界となりますが、小説世界にとっては現実です。
この『現実世界』は常に扉が開かれているのに対し、神(主)への至る道では扉が狭く、閉じられているというイマージュがあります。どうして聖書世界というイマージュ世界は扉が狭いのか、私達はその意味を考える必要があります。 それはキリスト教の厳しさも表していて、その厳しさが神聖にも感じるのでしょう。 それと同時に、イエスの愛や優しさもわかるようになります。この相反したものは自分で感じ取るしか他に道はありません。イエスの厳しさと優しさの間をどう感じるのか、その程度も人それぞれなのです。だからこそ形の無い神秘なのだと思います。ジッドはどの程度それをわかっていたのかは分かりませんが、最後のアリサの妹が「目を覚まさなければ」と言ったことは、宗教の酔いからの目覚めにも、反対に光への目覚めにも見えます。それでもこの部屋に無垢な子どもが最後に居たことに意味があったと思います。
何故なら、天の国で一番偉い人についてイエスが小さな子どもを真ん中に立たせたからです。(マタイの福音書18章)
心を入れ替えて子供のようになる人が、天の国でいちばん優れているという。これは子どもの体温と共に感じるイエスの温もりでしょう。
****
● アリサという盲点 
 この物語の語りは主にジェロームという男性で、アリサと結婚したいと思う男性です。 アリサも彼がとても好きで相思相愛でした。アリサはまずは母親の自分の不貞や、自分の妹もジェロームが好きだということを知ること、妹が自分に遠慮したように他の男性と結婚してしまうこと、ジェロームは兵役に行ってしまうこと、それらの状況がより彼女の繊細な心へと響いていき、アリサの神への愛への言葉や、ジェロームへの愛の言葉が、次第に他人にとっては病を仄めかすような言葉へと変容していきます。
著者、アンドレ・ジッドはこれは小説ではなくて「Récit 」(物語)と線引きをしました。それは神話や童話のようにあらゆる時を超えて一人の心と「応対」するということになります。例えばギリシャ神話を読みながら、人は現代や自分の状況に照らし合わせたりします。何故、そうなるのかといえばそこには普遍的な課題や理想があるからです。この作品はプロテスタントへの反骨精神とも言われていますが、「物語」と言ったということは彼は普遍性を睨んでいたように思います。
それはアリサを説明する際によく出される「神への愛に焼き尽くされる女性」というのはアリサに限らず古い記録にもありますし、昔からイエスは美形に描かれることが多く、聖人の記録にも神と結婚したと同等の女性がいたそうです。けれども私にとっては、アリサは本当に天上への愛とジェロームを天秤にかけたのかというのに疑問が残ります。私にはジェロームのほうが天上への愛とアリサを重ねたように思えます。彼は狭き門に準えただけではなく、
「アリサといえば、福音書が教えてくれた高価な真珠のようなものだった。私はそれを獲るために自分の全てを売り払う男のようだった」
(マタイの福音書・45節~46節・また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである、のこと)

と、アリサの存在を高めています。ジェロームの視点がメインなので、アリサは実際は何を望んでいるのかということが、登場人物にも読者にもよく分からない位置に立っています。「聖なる心」が欲しいものと答えたアリサの思考と言動は、言葉で言った通りが本人の意思かどうか分からない薄弱性も出しています。それは物語後半に登場するアリサの日記にもよく出ているかと思います。彼女は死ぬ直前までジェロームの名前を口にしていますし、この日記は他人にも理解されない整理されていない文章です。誰かに見せるような目的で書かれていない文章、それがよりアリサの混沌を表しています。
物語の中で明確に分かることは、●ジェロームは信仰と共に忠誠をアリサに誓いたかったこと、● アリサは、愛するからこそアメジストの十字架をジェロームに与えたかったということです。
愛し合う男女の目的や欲求は、手を取り合うには時期や話し合い、理解しあうことが必要なときがあります。愛し合っていても、これらが適わないような擦れ違いはどうしたらいいのでしょう。
このような擦れ違いは今の時代でも普遍的にあることです。相手の幸福を願うこと、自分の幸福について考えること、愛があるが故に身を引きたいと思うこと、愛があるからこそ一緒になりたいということ、人の意思は様々で、常に他人を求めています。人間は愛する人で頭がいっぱいになりますが、愛している人が一番良く見えるとは限らないのです。 
何故、アリサは婚約よりもアメジストの十字架を与えたいと思ったのか、アメジストは「酒に酔わない」というギリシャ語の意味から来ていて、キリストの受難も表すともありますが、象徴だけを手に持ち、何故それを彼に与えるということに拘ったのか、彼が他の女性と結婚することに拘ったのか彼女の思考に論理性や法則性は見当たりません。
私はアリサという存在を「盲点」と捉えています。盲点という意味は、ある一点に集中しすぎて見えなくなること、それと反対に、気づいているはずなのに見えなくなることと二つの意味がありますが、アリサの場合はこの二つの意味を持つでしょう。登場人物や読者にとっての彼女は「盲点」です。だから、彼女がよく見えないのです。それが魅力と思う読者もいますが、彼女は正解を持たないイマージュのような存在へと移ろいます。
それはアンドレ・ジッドもよく分かっていたことだと思います。何故ならアリサのモデルはジッドの妻であり、妻は敬虔な信者だったことから妻には性的な欲求は無いのだろうと思い込んで彼女に触れなかったそうです。ジッドはアリサを最も苦手な女としました。その切捨てが更にアリサという盲点を 生み出したのだと思います。
アリサに待ち受けていたのは物語後半の日記にあるように、幸福追求による「苦悩」です。それは、愛するジェロームに対しての祈りだったように思います。常に彼女はジェロームのことを想っていたことが日記から分かります。彼女は自分一人天上への愛に胸を焦がしていたのではなく、ジェロームの幸せを彼女は祈っていたのでしょう。
この話に出てくる人は皆それぞれ人の幸福について考えています。その幸福は愛であったり、登場人物や読者でも困惑するような「幸福」でした。その中で他人の幸福を願うと同時に自分の幸福を目に見える形にしたのは、結婚し、子どもを生んだアリサの妹のジュリエットということになります。それでも彼女もアリサの死が悲しみで、一つの不幸を背負っています。彼女は最後は泣くのですから。幸福とは笑顔でいるだけではなく、手探りで、責任もあり重たくて悲しみも含めているのです。
アリサは愛するジェロームと話し合ったパスカルに対して窮屈に感じているようでしたが、実際の彼女の生き方はパスカルで言う所の「我々人間は考える葦(あし・草)」とも言えるのでしょう。彼等はすべて「考える葦」であり、音も立てず季節を過ぎ去っていくようでした。聖書世界の狭い扉と門とイマージュ、それは物語りの中で混沌を表すのではなく、イマージュの秩序を与えました。福音書の引用はこの文章世界の中での唯一の確立されたイマージュです。 箱のような部屋に取り残されたジェロームや、ジュリエットや子ども達から離れ、私達の意識の外、もっと計り知れない外に、一つの疑問が文章世界から離れて見えるはずです。
 
アリサは狭き門を通れたかどうか・・・・・・それは誰もが答えられませんが、信じようとする隠れたもう一つの希望としておきましょう。
 
目を覚ますと共に。
*(参考)
L’homme est un roseau pensant. L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.
人間は一本の葦に過ぎない。それは自然の中で最も弱き存在である。 しかし、それは考える葦なのだ。(パスカル)

*聖書の引用について、ジッドの邦題が「狭き門」と文語体であることから文語体寄りの自由訳に統一しました。現代では聖書ではこの訳は「狭い門」となっています。

vision

(vision)
The wing veins are for the butterfly, its organ, nerves and also its bones. 
When drawing a butterfly, its wing veins must be drawn with precision, otherwise,
 it will only represent a butterfly unable to fly. 
Belief and philosophy are for me like wing veins. 
Creation is for me all about soaring.


Soaring is freedom predetermined by wing veins. 
There cannot be any other freedom.
*******  
蝶にとって翅脈とは器官や神経であり、骨である。蝶を描くとしたら翅脈は、正確に描かなければ飛べない蝶になってしまう。私にとって、信仰や哲学というものは翅脈である。私にとっての創作とは、飛翔によって成り立っている。
飛翔とは翅脈有き自由であって、それ以外の自由は在り得ない。 
——–
 飛翔と翅脈の組み合わせによって生まれるものと矛盾、この命題は蝶のように飛ぶ場所は決められないということ。私達、文学者はそうなのではないか。 

*7年前から決まっていたvisionを手直ししました。



オオルリアゲハの標本。角度によって青からグリーンにかわります。

         

ポーの一族(萩尾望都)

●兄さん わたしたちは いつまでも 子どもでいられるの
だから いつまでも はるかな国の 花や小鳥の夢をみていていいのね
 
●あの子はどこ? 思い起こすだけで 幸せにはなれない。
 
● そら あなたは また笑う。 
ポーの一族・(はるかな国の花や小鳥の章)
エルゼリとエドガー

●「ポーの一族とは」

この作品が発表された1970年頃は「花の24年組」と言われる女性漫画達が、少女漫画というものに文学性や哲学、宗教観等を盛り込んだ。
ポーの一族とは、バンパネラであり(ヴァンパイア)、成長を止め、半永久的な命を約束されている一族のことである。彼等は長い時を超えて、時々愛する人間を仲間にする。エドガーとメリーベルは兄妹だが、ポーツネル男爵とシーラ夫婦は本当の両親ではない。そんな夫婦と一緒に家族を装い、時を超えて旅をする。19世紀、アランという美少年を気に入った兄妹は彼を仲間に入れようとするが、上手くいきそうにもなかった。
そんなある日、シーラは若いクリフォード医師に、この世のものでないと気づかれて殺されてしまう。それから立て続けに妹のメリーベルも殺される。

一方、アラン一家でも、母親がアランが嫌悪感を抱いている婚約者・マーゴットの父と親密な間柄であることを知る。婚約者の父親は急いで逃げるアランを追いかけ、マーゴットとの結婚について執念を見せるので、アランはただ彼を振り払うだけのつもりが、階段から落としてしまう。
「人殺し!」
「人殺し!」
とマーゴットが叫んだ。アランは自分の部屋に逃げるが、執事が扉をこじあけるのは時間の問題だった。そんな、追い込まれたアランのところに、エドガーが部屋の窓から声をかける。
「きみも おいでよ ひとりでは さびしすぎる」
すぐに、執事が父親の無事を伝えにアランの部屋の扉をこじ開けたが、既に、エドガーはアランを連れ去っていた。
まるで風に連れていかれたように。
アランはメリーベルを女性として恋をし愛していた。エドガーはメリーベルを兄として、そしてそれ以上に愛していた。二人の長い旅は過去の記憶の回想を交えて進む。それは読者を一族の謎、アランとエドガーの葛藤へと運ぶ。それに伴ってどんな時間へ行っても、思いを超えても、消えて二度と戻ってこないメリーベルの姿を濃くさせていく。
左 エドガー 右アラン
メリーベル

●はるかな国の花や小鳥

今回は、ポーの一族の中の「はるかな国の花や小鳥」という話を紹介する。
エルゼリは、一時だけ過ごしたハロルド・リーのことをずっと想っていたかった。彼が約束通りに迎えに来なかった上に、他の人と結婚したと知っても、彼のことを期待するわけでもなく、彼を愛したまま時間を過ごしていた。美しいエルゼリ、近所の少年達も彼女に憧れを抱いていた。そんなエルゼリのバラが咲く庭にエドガーが現れる。彼女は彼の美しい青い目を見て、「ユニコーン」と呼ぶ。ユニコーンは処女の乙女を愛する。エルゼリは大人なのにそのような女性だった。だからこそ、そんな伝説を思い出させるような始まりだった。エドガーは時を超えて、神話のように現れては彼女に興味を持ってしまい、ハロルド・リーを見に行ってしまう。彼は他の人と結婚をしただけではなく、エルゼリそのものを忘れていた。ショックを受けたエドガーは彼の元をすぐ離れる。それから数日後、ハロルド・リーの中で何かが引っかかったのか、エドガーに似た少年を見つけ、彼を追って事故死してしまう。
  エルゼリとハロルド・リーと一緒にいた思い出は事実だったが、時が経つにつれ、彼と交れないことによってその思い出が夢想であり、幻のようになる。彼女はそんな幻を抱きながら内面世界の中で暮らしていた。
彼女はただ微笑んで、外界世界が自分の内面世界を傷つけないように彼女は駒を進めなかった。それがエドガーという少年の影響で駒が大きく動き出してしまい、守りでずっと動かなかった彼女は、手首を切ってしまう。
 幸い、エドガーの発見のお陰で一命を取り留めたが、エドガーとアランが旅立った三年後、エルゼリは病死する。

●あの子はどこ? 思い起こすだけで 幸せにはなれない。

 音楽には神童というものがいるが、文学はある程度の経験を積まないと完成しない何かがある。(これは漫画なので位置付けは難しいが文学と言っても良いだろう)
「思い起こすだけで 幸せにはなれない」少年エドガーのこの台詞、突然失った妹のメリーベルのことを言っているが、この言葉自体は若くても思いつくことかもしれない。
それでも、この頼りない言葉に重みが出て深みが出るのには経験を積まなければならない。
ヴァンパイアの存在を大体物語りにするとしたら、彼等は人の時間の流れの摂理から括弧に入れられたようになる。他が老いていくのに対して自分だけが成長を止めて、知らなくても良かった時間を知っていく。彼等は肉体の成長が止まるけれども、人間世界と共存し心は持ち続ける。その影響で、その年齢にはふさわしくない目になっていくが、肉体が故に、心を操る精神はある程度止まってしまうようだ。

それは周囲が彼等の肉体で判断し、子どもとしてしか扱わないせいなのかもしれない。その年齢に応じたように、その人の立場に合わせて人の声や世界は本人に届いていく。
 長い時を経て文明の変化を目にしても、幼い自分に向けた視線は永遠に変わらない。思い返せば、大体自分に対する人の見方というのは年齢の成長と立場によって変わっていく。これは世界の一部は自分に合わせて動くということでもある。1世紀を超えても彼等にとって自分にむける世界の声はあまり変わらなかった。ポーの一族と呼ばれる大人達は一族の血を絶やさないために人間を仲間に入れていたようだが、エドガーやアランは違った。夫婦のように長らく愛せるもの、親友のように信用出来るもの、長く愛することによって精神を成長させたかったのかもしれない。しかし、その年齢に応じたような結末ばかりを迎えてしまう。(リデルは除く)メリーベルは既に幻姿同様、「思い起こすだけでは 幸せになれない」と、もう自分達の成長には携わってくれない。
それを「孤独」とあらわすのか「自由」と表すのか、エドガーとアランは孤独―深い影自由―変わらない美貌の両面を露にして読者に見せる。彼等は感情は喜びや悲しみ、怒りは隠さない。
エドガーは、自分と似たような内面形成をしてしまっているエリゼリに惹かれた。

メリーベルを彷彿とさせるエリゼリに惹かれた。

不思議なことに、彼女の周りの人間も彼女を傷つけないようにと派手な動きを見せない。誰もが強引なことをしないのだ。周囲の彼女への態度は常に一定、彼女に気があるヒルス先生も奥手なだけなのか、彼女に踏み込めない。完全なる配置、彼女は人間の力でそれを成し遂げていた。彼女がエドガー達と違うのは「悲しみ」や「孤独」を見せないところだった。
エドガーは自分と同じように彼女の心の奥に「孤独」があるのかどうか知りたかっただろうし、彼女は他の人にも愛されていて、幸せはすぐそばにあるのに、何でこの人は目覚めないのだろう、孤独を教えてやりたいと衝動が出たのだろう。
それは長い時を経た大人の男性の愛とは違う、幼い衝動に過ぎなかった。エドガーもまた成長を止められてしまっているからだ。

その幼い衝動が、彼女の夢想の相手である男の死へと運命を動かしてしまう。

人を愛することは喜びだけではいられない、それを一番分かっているのはエルゼリだったのかもしれない。
分かっているからこそ捨てた悲しみは、常に微笑むことを忘れない。けれども、微笑み続ける理由をなくしてしまった途端に、世界が終わったと終止符を打とうとした。
エドガーはアランを連れて、エルゼリから離れるときに泣いた。

エドガーというユニコーンは、エルゼリが大人だと知って離れたようだ。

時が動いてしまったということ、彼女が捨てた悲しみの代理人のように。

●感応

この話を初めて読んだのは5歳の頃だった。「好きなお話は人生にうつるから、読むのなら明るい話にしなさい」と母によく言われたけれども、この本を渡したのは母だった。この本は5歳からの付き合いとなる。

「兄さん、わたしたちは いつまでも 子どもでいられるのだから いつまでも はるかな国の 花や小鳥の夢をみていていいのね」

メリーベルのこの子どもらしい言葉、
大人は、子どもはこういう夢を見ていて、大人はこういうことを考えなくなるとよく言った。けれども、子どもの頃の私にとってはこんな夢想は初めからは無かったような気がする。鳥や、花は目の前にある現象に過ぎなかった。誰かが花が綺麗だと言って、誰かが小鳥は自由だと語った。 何が美しいのか、何が心地よいのか、自分に向けた声、自分に向けられたわけでもない情報、それが私の知らない間に形成されて私の心の一部となって、私の心として動いていく。

これを『感応』と言うのか――感応とは、事に触れて心が感じ動くことであり、人々の信心に神仏がこたえることと、感受性と神仏との両方の意味を持っていて日本人の私にとっては説明しやすい。私にとってもこれは両方の意味があると思いたい。 感応とは知らないことでも心が動かされる。
  意味は分からなくても美しいと分かる話、読めば読むほど、外の世界が違って見える話、自分の眼がより光を好み、影を軽視出来なくなり、盲点へと近づきたくなる。
そういう作品の一つがこの「ポーの一族」だった。 私にとって、この作品はバンパネラのように子どものままでいたいと思わせるのではなかった。
幻姿に見せかけた美の完成形は大人にならないと書けない。
これは私に、大人になるということの期待を与えた。
こんな大人は何処にいるのだろうと思った。心の何処かで私もそうなりたいと思ったのかもしれない。 やがて、大人になると幻姿は捨て切れなかった幼心のように変化していた。
とても好きな話。 幼い頃、意味が分からなかった話が説明出来るようになる。漫画は句読点があまり無いので引用するとき少し違和感があったけど、それでも好きだと書いたのは初めてかもしれない。
ポーの一族・萩尾望都 小学館文庫
   サムネイルデザイン・編集:ChrisKyogetu
 
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