Vincent van Goghs Leben in handgemalten Bildern

The best way to know God is to love many things.
It is good to love many things.
by Vincent Willem van Gogh
ゴッホの絵画がアニメーションになって動いている映画なんだそうで、実際に画家が制作に関わってるそうです。85人はオランダ人画家なのかな?そんな感じです。早く見たいです。

Bruno Schulz, "Sanatorium pod Klepsydrą"

(c)KADR Film Studio(digitally restored)
*原作と映画の感想*
次回作に向けて話をしていく前に、たまには自分とは違うジャンルの話でもしようかなと。
ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の「砂時計」というこの映画はブルーノ・シュルツ原作「砂時計サナトリウム」の映像化で、小説同様一回見たぐらいじゃ何が起きているのかすら掴みにくいのですが、シュルツ作品の中では比較的筋が見えやすい話ではないかとは思う。この監督は父親がユダヤ人、母親はカトリック信者ですが、本人は不可知論者のようで、
こういう作品を語るとき必ず外せないのが「幻想」という言葉です。幻想とは現実にないことを思い描くことであるが、日本語の幻想とは元々はhallucination(幻覚・妄想)の訳語だったらしく病んでいる意味あいが強かったようです。
***
幻想物語とは心地が良い夢物語や英雄に仕立てることもあるけれども、敢えて現実と共通している無秩序でもありカオスにも目をつけ、現実の例え話のように仕立てる幻想もあります。彼は意図的かどうかは知りませんが後者のほうでしょう。
時々芸術家は自身の心象や夢想を自分の心と和解せずに抱き続けては増幅させ、自分の世界の中で再構築しますし、
自分の心で見ているものをあらゆる表現によって外に曝け出すということもします。
***
この主人公のヨゼフという男は二つの時間へとそれぞれ分裂したように歩き出します。それが分身か、本体かという区別はなかなかつかなくなりますが、この映画の映像美に惹かれて何となく最後まで見れてしまう。この世界は体調が悪いときに見る夢のようです。私の感想としてこの作品(小説)から感じ取ることは、彼の世界にはマニアックでありながらも「愛着」がないように思えます。彼の幻想世界は嗜好性の集まりのようで、実際にはそういう偏愛を感じない。凝った描写に隠れている真実は、このタイトルの「砂時計」のように一瞬一瞬通り過ぎていくだけの事象です。
シュルツの人生はゲットーに収容されながらも一時期は画家として雇われますが、射殺されます。彼の人生は小説世界よりも
残酷な最後でしたが、作品は彼という本体や時代考察という運命共同体的なものから離れて、純粋に残っています。
*** 
色々彼の時代背景等、外堀を話していきましたが、
物語は事実と関係無く純粋にその世界の時間を持っています。けれども質が高い作品であればあるほど、
著者の隠れた心が見えてきます。偏愛のように見えるこの世界の裏には著者の戦争中の苦悩が詰まっていて、現実に愛着を持てなかったことが正直に表れていると思います。
文章世界というのは、書いてあることよりも書かれていないことが浮かび上がってくるものです。ですので嘘がつけないのが作家の心です。人によって読者は小説だけではなく著者の心を愛することがあります。
この監督はこのシュルツ作品の愛読者なんだそうで、短編であるはずのこの作品を二時間ものへと脚色し、療養所の暗さは深遠を匂わせています。この監督はこの作品に愛着を持っています。
世界に愛着を感じさせない原作と、その世界に愛着を持った者から見た感性、私はそれらの交差する視線を楽しめました。

info

お試し版以降の話は洗礼後に執筆しました。お試し版となっている白夜までの話は2012年に既に完成させたものです。それから3年間、更なる昇華を目指してきました。
白夜までの感覚を残したまま出版したいと思いますが、発売まで微調整は今後入るかと思われますので、このPDFは完成品の一部でも無いということをご了承下さい。 一作品目、PANGAEA DOLLは虚構の病でした。 存在しなかった病を巡って物語が動いていきました。 
次は虚構の治療です。存在していない治療を巡って、それを登場人物達が「存在している治療」として進んでいく物語です。 
******
修理士が存在しない天文時計、
この時計が指し示す運命を誰も読み解けないまま
時は在り続けた。
——-計算された仕掛けと選ばれた部品達——-


光音は死んだ真希の魂が知りたくて片思いの羽根に近づき、羽根は生死の境に行ってしまった恋人を繋ぎとめるドナーとして、逃げる光音の手を掴んだ。

魂、愛、神へと抱いた想いは重ならない平行現象のようで・・・・・・

「走れる靴と走れない靴、私たちは愛の裏で動いていた」

keyword: 魂、祈り、QOL、 (追加予定)

ハーフや色盲という記載については検討中です。
試し読みPDF→(試し読み期間は終了しました)

La grâce lui fait mal.

シモーヌ・ヴェイユが好きすぎて作った画像。
La grâce lui fait mal.
「その恵みは痛い」
ヴェイユだけじゃなくて ペラン神父も
好きです。

web拍手ありがとうございます。

L’Enracinement

ーーーよい木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。よい木は悪い実をつけないし、悪い木はよい実をつけない。
(マタイ7章、十六~十七)
―――人間の思惟は時間を支配し、いかなる間隔も乗り越えて、たえず過去と未来とをすばやい速度で駆け巡る。しかし労働する人間は、一瞬から他の一瞬へと順を追って進んでいく物質と同じように時間に服従する。
―――労働者が労働の苦痛を表現するのはこのゆえである。
ーーー肉体労働は社会生活の霊的中心でなければならない。
私は、
クロノス、過去から未来へと流れる外的時間
カイロス、神の決定的な働きが行われる時点、ギリシャ語で
「刻む」という意味もある。好機、機会とも。
に目をつけました。人には統合させなければならない善があって、それに反したり時代と合わなくなると法を変えたり、政治的活動が必要になります。
けれどもそれだけでは無くて、個人の幸福の追求のために、カイロスを覚知する必要性があります。それは貧しくても裕福でも、どんな状況下でも必要でしょう。ヴェイユの著作は制度を変えるような大きな動きは起こせないかもしれませんが、自分がクロノスのような外的世界とどう繋がらなければならないのかというのを、魅せてくれる力はあると思います。
****
眠りから目覚めへと浮上する時、ヴェイユとペラン神父のように、話し合ったことが時間を越えて世界に根付いていきますようにという夢を見た。

その時に、この画像のような絵が見えました。
長針や短針の動きのように、目には見えるだけのものではいものが根を降ろすように実を結ぶというイメージが私の中にはあります。

der Vogel

Sehet die Vögel unter dem Himmel an: 
空の鳥をよく見なさい
Sie säen nicht,
種も蒔かず
sei ernten nicht
借り入れもせず
sie sammeln nicht in die Sheunen;
倉におさめもしない
und euer himmlischer Vater nährt sie doch.
あなたがたの天の父は 鳥(彼等)を養ってくださる。
Seid ihr denn nicht viel mehr denn sie?
あなたがたは 鳥(彼等)よりも価値があるのではないのですか?
マタイ6:26
*********
鳥は ラテン語では(観る)という意味があり、ホロメス等、古代神話では神々の化身と思われてきていた。聖書でも鳥は象徴的な存在として描かれる。
鳥は古代から憧れの存在。そして神の化身という象徴から分かるように絶対性すら持っていた。その憧れの存在よりも私たちは価値があるということは どういう事なのか。
今から話すことは神学的にというより、詩学的に見ることになりますが、神は絶対的なもののために、鳥という憧れの存在を譲ってくれたように思えます。
象徴は絶対的なものと 現実世界を繋ぐ存在です。
物語りを書くとするときに、福音記者やイエスを脚色することはあまり望まれない。ナザレ派の絵画ですら前教皇はナザレの名を汚したと言ったぐらいですから。
そう考えると鳥は自由なのです。階級式に人よりも下という意味ではありません。鳥が神との繋がりがある存在というのには変わりがありません。
鳥は文学や詩人にとっては必要な象徴になる。鳥がイエスや福音記者達と同じ扱いだったらメーテルリンクの「青い鳥」も生まれてないでしょう。私は現実世界と絶対的なものを繋ぐ 詩情や哲学を見つけることは美しいと思うし、それが物語り世界の中で生きることを常に期待しています。

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ある小鳥の剥製が欲しいと思った。

生前を知らない剥製や標本は死から始まる出会いだから 哀しく無かった。それは寝顔にも見えて、愛せるような気がした。

芸術も死から始まる出会いがある。死んだ人が書いた話や絵なのに愛せたりするからね。
芸術が残す形象、それは魂が模った形象だと思う。鳥の標本もそうじゃないかなって 思いながら見ていた。
精神や魂が 模った形、可愛い小鳥、私の引き出しへ、私の詩箱の中で眠って欲しい。

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私が持っているドイツ語版(ルター版)ではunter dem Himmel →創世記1:8の神は大空(Feste)を天Himmelと呼ばれたと同じ使い方。 英訳のesv版 KJV版ではair。専門書を読むより、時々言語変えて
読んだほうが面白いなと思う。 

ein Geschenk

画像→http://www.sofeminine.co.uk/health/study-hard-sp518220.html
Husserl (フッサール)
58 : Die Transzendenz Gottes ausgeschaltet.
Es wäre also ein „absolutes”in einemtotal anderen Sinne als das Absolute des Bewußtsein, wie es anderseits ein Transzendenten im Sinne der Welt.
Auf dieses„ Absolute” und „Transzendente” erstrecken wir natürlich die phänomenologische Reduktion.
••••••Es soll aus dem neu zu schaffenden Forschungsfelde ausgeschaltet bleiben,sofern dieses ein Feld des reinen Bewußtsein selbst sein soll.
———————————————-
58章 神なる超越は(排除or オフ)されるべきである。
「(それ故それは)意識という絶対者とは、全然別の意味に於ける「絶対者」であろう。同様に又それは他方、世界という意味に於いての超越者と較べても全然別の意味における超越者であろう」
「絶対者」にして且つ「超越者」となるものこと我々は無論現象学的還元を行き渡らせる。
・・・・・・そういったものはausgeschaltetのままに
しておかなければならない。(この箇所は訳を省略させてもらいます)
———————————————-
私は、この箇所は文学の表現かのように好んでいるのですが、どうでしょう。
書籍はIdeen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophieです。日本語訳版は持っていません。
————————————————-
フッサール哲学の「超越」とは、神やイデアのことを言っているのでは無いというのは、フッサール哲学を触れた人なら基本的なことですが、この章では、神という絶対者、超越者に対しても純粋意識の領域で考えるのなら、ausgeschaltenすると記した。フッサールは、神の存在を最終的に*軸にしたデカルトとの違いを見せた。
******
私は、ausgeschaltetとは、排除という意味ではなく停止する、一旦オフするという感覚だと私は捉えている。 オフということは、オンされた状態も含んでいるが、機能していない事だと私はイメージしている。日本語では適切な言葉が思いつかないので誰か、分かる方がいるのなら教えてください。
*******
フッサールのこの書籍の中での神の定義は「世界という超越に対し、両極端に「対立」し、間接的に認識される超越。神という超越は即ちそれなのである」と
している。色んな宗教や神という言葉の意味を記号化させたようだ。 比較宗教とも取らないこの姿勢はまさしく哲学と言えるのかもしれない。
*******
この哲学は信仰に役に立つというものなのかも分からないし、日常生活にすら役に立つのかどうか分からない。けれども、物語りを考える上では必要な要素だと私は思う。何故なら、このオフにするということは胸が痛むからだ。これを痛むということはアガペーがあるということだ。それを実感する痛みなのではないのでしょうか。
愛は満たされているだけでは、空気と同じようになる。痛みがあってこそ、また実感する。そして、内面に走るその痛みをじっくりと観察し記録することだ。
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そうでなければ哲学者や神学者と、どう差をつけて物語りを書こう。
******
恐らく、これは神なんて消しても痛くも痒くも無いという
人間にとっては無意味な展開になると思う。アガペーが無いのなら、神の存在を知らないから、そもそもこの哲学は始まれないのではないのでは。
神が単なる記号である間は、その人は現象学に対して立ち遅れてしまうことになる。
*******
私のstoryは見る分には普通の小説のように仕上げていくつもり。だって神も現象学も、何気なく人の心の中にあったり、自然と目の前に現れ出ている対象だという事を知っているからだ。それを忘れたら不自然な世界にしか見えない。
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そして、私が対象に目を向けるのではなくて
私が対象として目を向けられることも知る。
それを観察することは可能だろうか。
*******
ところで、私の仕事部屋ってこれと変わらないところがあるけど、こんなに可愛くないのは何故でしょう。
——————————————
**(軸としたという言い方が適切かどうか分からない)
追記:絶対者、超越者を一旦停止させること。

それは私達は絶対者とか超越者を肯定したり否定したりと意識することが含まれるけれども、それらが私達を含めた現象を知るとしたらどうなんだろう。そういう視点からの出発に最高の客観主義があるのでは無いのだろうか。

超越者という出発点は、人間にとっての到達点である。
現象というのは自分が追うだけではなく、追われるということでもある。

けれどもそれは永遠に逆算不可能な事なのかもしれない。

それでも、試みてみることは無意味な事なのだろうか。
未完でも、それは楽しいことではないのだろうか。
私は 楽しい。 

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15日後、復旧しますのでよろしくお願いします。

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このブログを書き始めてから4年ぐらい経ちましたが、自分でも読み返す気がおきないほど価値観が変わったりもしてるので、最新の記事以外は全部消しました。今後、残してもいいなと思う記事を公開に戻しますし、このブログをどうしようか考え中です。フリッカーアカウントも削除しました。次回作発売まではwebではあまり活動しないことにしています。興味がある方はhomepageかfacebookへどうぞ。

memo

facebookに投稿しています。

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 ホームページでこういうのを作ってみました。短いながらも出版作品の引用だったり、練ってるものだったりしています。批評は次回作を出版してから出しますし、色々バランスを見ながら増やしていきたいなと。「Murmure」呟きにしました。よくSNSを登録して辞めてるのですが、大体がシステムが合わないという理由です。文字フォントが調節出来ないとか、レイアウトが自分の作風とは合わないとか。自分が確立していないと人を選んだりすることも出来ませんからね。

http://chriskyogetu36.petit.cc/muscat1b/

あとFacebookでこういうのを書きました。会員なら見れると思います。タイトル通り
これはmemoなので、いつかまた原稿かブログかホームページに書き直すと思います。
バルザックのセラフィタについても追加で書いています。


https://www.facebook.com/notes/%E9%8F%A1%E6%9C%88-%E7%8E%96%E7%92%83%E5%AD%90/memo2015323/784355864963830

https://www.facebook.com/notes/%E9%8F%A1%E6%9C%88-%E7%8E%96%E7%92%83%E5%AD%90/memo%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81/767813939951356

https://www.facebook.com/notes/%E9%8F%A1%E6%9C%88-%E7%8E%96%E7%92%83%E5%AD%90/memo/781186895280727

*web拍手いつも押してくれてありがとうございます。



music

                                         Horowitz Scriabin Etude Op 8 No 12

                                                  Horowitz Scriabin Etude Op 8 No 12




                           Martha Argerich plays Schumann: Kreisleriana, Op. 16

Into Great Silence

見たいなと思う映画。 沈黙だからこそ見えるもの、聞こえるものというのはあるなと予告だけでも共感した。フェルメール風の
光がまたいいですね。


→感想・(2016年に更新)http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/11/die-grosse-stilleinto-great-silence.html



memo




カラヴァッジオの聖マタイと天使

San Matteo e angelo

スコラ哲学を天使に教授されているところを描いた一枚。
スコラ哲学は理性的です。信仰には知も必要という意味とも取れます。
天使は人差し指を握っています。
人差し指は見るものを祝福する形としてキリストが人差し指や中指で
ポーズを取っているように、意味があるようです。

絵画でもダヴィンチの洗礼者ヨハネやこのカラヴァアジオでもよく人差し指に
意味を持たせています。マタイの章に重荷を追っているものは私が休ませて
あげようという節があります。何故カラヴァッジオがマタイを選び
天使にスコラ哲学を教えさせたのか、知によって人生の重荷、

世俗の重荷から救われること、救われるような
知とは何かという意味と繋がっているような気がします。

 

course

多重露光で撮ってみた。

Cendrillon

憧れの無い
私は
何を見る?





Le hasard(偶然)か、nécessaire(必然的な偶然)か。

いつ書いたのかも
思い出せないけれど、まだこの気持ちがあるという
のは何処かに存在していることを確認する。

ゴダール:女は女である
ポランスキー:ローズマリーの赤ちゃん
例えばこういうことって無いかな?
シンデレラにはなれないと分かっているけれど
ガラスの靴の飾りは欲しい。
ゴダールにはなれないし、あの中に
いる女優のアンナにはなれないけど
あのセットのような生活をしたい。
ローズマリーの赤ちゃんのような
ラストは嫌だけどあの前半部分の
空間にはいたい。
だから、コラージュみたいに
継ぎ接ぎになりながらも
途絶えて欲しくないと思う。





Präparat

子供の頃少しの不注意で指を切ってしまって何気に触るのに警戒していた
プレパラート、生物の切片を観賞用に標本のように
閉じ込めたプレパラートはケースにしまうときも出すときも慎重になる。

この息を少し止める感じが何となく好きですね。

プレパラートを重ねたときのガラスの音が特に好きで軽いのに
切れるような音がするのがゾクゾクする。

もう少し具合がよくなれば専用の液でアンティーク染めにしたいですね。

少し割ったりもしたい。
もしも知識や技術があるのなら、
幻の生き物の皮膚のスライスを人工的に作ってみたいです。
空想プレパラート、幻想プレパラートでしょうか。

小さい切片に込められる細胞組織の構成は生態そのものをフィクションとして

実在させるわけですが、そうなると自分の創造性が試されるような気がします。
例えば人魚、本当に人魚の下半身が魚であるなら痛みを感じる神経が無いかどうか、
皮膚の透過性が魚と同じであるのか、
もっとそれ以上に自分の想定する人魚の生態を作るわけです。
妖精の羽根もそうです。一般的には蝶のようだけど
本当はミツバチに近くて羽音で毛虫から植物を守る効果があるとかね。
自分だけの幻、創作は突き詰めれば無にはさせないので、現実的で夢があっていい。
ミツバチの話はここから参照Honeybee buzz attenuates plant damage by caterpillars
☆今月25日、26日に検査入院です。これで問題なければよいのですが。

notice













「一羽の鳥が私をこちらへつれて来ました。私の国に地震がありましたので死人を埋葬しようと思いましたが、花がありませんでした」


                                  
                         ヘッセ「メルヒェン」(別な星の奇妙なたより)
           Merkwürdige Nachricht von einem andern Stern







次回作はこの一文を引用している。変更はあるかもしれないけれど、基本はこの空気があると思う。

Чебурашка

そういえば、私
Twitterのアプリをチェブラーシカで使っていますが
これが優秀で、さほど落ちることもないし使いやすいです。

http://journal.mycom.co.jp/news/2011/01/06/098/index.html

最近はチェブラーシカをよく見かけるようになりましたね。
チェブラーシカって旧ブログでも言いましたが、昔は
キャラクター存続の危機に陥っていて、以前の日本で
チェブラーシカの版権(グッズを販売したりする権利)を持っていた人の話だと、昔の小汚い感じのままでの存続は難しいと言われていたようですが、ファンとしてはどうにかこのままでと活動を続けていたそうです。
しかし、今はこのように最近のアニメーションのようにしてもらい、それまでにリメイクには反対もあったのかもしれませんが、
この前、ローソンで
小学生の男の子が「チェブラーシカ、チェブラーシカ」って歌いながらグッズを見ていたので、これでよかったんだろうなと勝手に思ってしまいました。最初っからチェブのハードルが高いのならまずは分かりやすくリメイクし、後からハマる人はどうせ過去まで遡ります。ムーミンも、私は好きなので、あの綺麗に整えられたアニメ(平成の)から原作、古いアニメまでとありとあらゆるムーミンを愛しています。こうやって、きっかけづくりになるのなら賛成かなとか思いました。キャラクターは消えてしまっては終わりですからね。
チェブラーシカのフィルムの監督はカチャーノフですが、原作者はエドゥアルド・ウスペンスキーです。彼が日本に権利を与えたときにロシア中から批判されたらしいですが、彼は日本に任せて間違いは
無かったと言っていました。ムーミンの原作者も日本のアニメをかなり信頼しているように、日本のアニメーションの信頼がそれほど高いのと、日本人のキャラクター好き、キャラクターに愛着を持つ傾向は古代より一神教ではなく自然などにそれぞれの神が宿ると信じてきた流れを感じさせます。(私は)神というものまでは意識しなくても、そういう一つ一つのものに愛着を持つ姿は何処か日本人らしさを感じるからですね。
チェブラーシカ、私は旧バージョンのDVDしか持っていませんが
「バッタリ倒れ屋さん」と言っていたのを思い出しませんか?
この由来は、原作者であるエドゥアル・ドウスペンスキーが
友人の娘さんにコートを買ってあげたときに、あまりにもブカブカで
襟が大きくまるで耳のように見え、ちょっと歩くとバッタリと
倒れてしまった。チェブラハッツア(バッタリ倒れ屋さん)
この思い出が元になっているそうです。
続きはたたみます。

ゲーナが歌っていた曲のCD
これは数年前「きつねのはなかさ」さんのお店で買いました。
ロシアの雑貨など可愛いのが揃ってますよ~♪
でもごめんなさいだけど、古いほうのチェブは最近、たのしんご に似てるような気がする。
私はこのゲーナが動物園で仕事しているシーンが好きです。
古いバージョンに馴染みがありますが、勿論新しいバージョンも
見ます。可愛いのには変わり無いですよね。

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