短冊をイメージして作りました。
銀河鉄道の夜
短冊をイメージして作りました。
There are no people who watch you more than God.
Lord, have mercy.
重力と恩寵:カイエ抄 今度いつかまたカイエの話でも。
「持論」
アドラーの心理学を元にして考えると、根本的なトラウマみたいなものは治せないし、癒えることもない。 例えば 「恋人が死んだ」とかそういうものは 神の力とか信じても癒せないという私の持論がある。信じて癒えるというのは、何らかしら神からの跳ね返り、若しくは自身の覚知があるということで、傷が深い分、そこまで大きな奇跡は起きにくい。可能性として0ではないけれども、そんな奇跡を待つ人生はきっと疲れる。
そういうコアな弱みに限って他人もケア出来ないし、人もそこまで答えられない。これは根本的に治せない原因(トラウマ)だ。そこを無理してマインドコントロールした話にロクなものはない。
あのとき無視された
あのとき 嘘つかれた
あのとき ●●だった
他人から見れば些細な事でも本人にとっては原因となるトラウマ。話し合うタイミングも過ぎ、時効同然の過去の出来事は厄介だ。
過去の出来事や傷つきは癒せない。 時間は忘れる特効薬というのも嘘に近い。ただ体感が遠のくための生き方はある。私も過去にも色々あって過去は変えられなかったけど、出来事の感情はあまり覚えていない。
それでも最近、久しぶりに大きなトラウマが出来て
随分とグルグル回ったけど、私は、このトラウマの根本は治せないと切り捨てること、という基本にかえると、何だかすごく楽になれた。
もう嫌いなものは嫌い。
あなたが私は嫌い。 絶対に絶対に嫌い。
良い思い出もあったけど、 思い出せないほど
嫌いなのだ。
それでいいんだと、
もうここでフラついたりしない。月並みな
言葉だが、他を愛せばいい。
これから先、このトラウマを生かすしかない。
私の未熟さを認めるとすれば 、
今はここまでしか見えないということだ。
最後の最後で
死ぬ前に 全部許せばいい。
今は 呼吸出来ることが大事。
写真: エレーナ カリス
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| 銀貨30枚を落とすユダ |
死ぬ気で恋愛しないか・・・・・・「人間失格」「グッド・バイ」
「子は親よりも大事、と思いたい。
子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、
何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ」(桜桃より)
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、
生きていさえすればいいのよ」(ヴィヨンの妻)
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| Н. Ге. Совесть. Иуда. 1891(ユダの良心) |
我が人生は夢の墓場、一度だけ本で読んだことがあるの。 絶望したとき、この言葉を慰めにしているの。
「今いきますよ。おなかがすいたでしょう」
「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、何ですのよ。これ?」
「また妬いているのね。そうじゃない。そうじゃない」
江戸川乱歩・芋虫(1929年発表)―――時子
この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判した。
第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。
「今、行きますよ。おなかがすいたでしょう」
「待ち遠しかったでしょう。すまなかったわね」
「今、ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」
「オレガ イヤニナッタノカ」(俺が嫌になったのか?)
「あの廃人を三年の年月少しだって厭な顔を見せるではなく、
自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話している。
女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、
出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。今の世の美談だと思っています」
「どうか気を変えないで面倒見てあげてくださいよ」
「ユルシテ」
「彼は物を見ることが出来ない。音が聞くことが出来ない。一言も口が利けない。
----------果てしなき暗闇である-----------どんな薄明かりでも構わぬ、物の姿を見たいであろう。
どんな幽かな音でも構わぬ、物の響きを聞き度い(聞きたい)であろう」
Tears immediately welled in Tokiko's eyes, and she began to feel dizzy.
「夢を語る私の性格は現実世界からどのような扱いを受けても一向に痛痒を感じないのである」
(政治的意味について・wikipediaより)
許し、許された、夫婦愛、
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| 今の世の美談だと思っています「どうか気を変えないで」 |
何故 、ハサミかというと
時子の夫は 戦争によって四肢を失い、まるで
芋虫のようになってしまったが、
以前は軍神とも言える活躍ぶりだった。
それで、そのときの活躍の新聞の記事を切り抜く
時に使ったものとして、ハサミをイメージしました。
カッターナイフは日本では1950年代に
登場しているので、芋虫は時代設定的に
それよりも前なのでハサミかもしくは別の切れるものと
なるのかなと思い、私は ハサミにした。
知人はこのデザインを見て、 十字架に見立てたかと思ったと言ったので 中々察しが良いなと思った。 真相は教えませんが。
時子の夫は四肢を失った後、 自分の活躍していた頃の新聞や勲章を眺めていたが、
そのうち飽きてくる。この飽きて夫と妻は情欲だけの時間を過ごしていくのが それも次第に気怠くなっていき、2人はどんどん身体が重たくなっていく・・・・・・
では詳細と 続きはまた今度。
「お前さんの貞節は、あの廃人を三年の年月少しだって
厭(嫌)な顔を見せるではなく、自分の慾をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。————————
————–今の世の美談だと思っています。
だが、まだまだ先の長い話じゃ。
どうか気を変えないで面倒を見て上げて下さいよ」
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今回は江戸川乱歩先生を想って作った(笑)デザイン画から先に。何パターンか色々作ったのですけど、とりあえず今回は4枚まで。
江戸川乱歩・谷崎潤一郎は日本語のほうが綺麗なのですよね。
英訳だと状況を説明しているだけに過ぎない表現になってしまってるところがある気がしますが、それは彼等が望んだ日本の美のような気がするのですけどね。
綺麗な分、日本語でデザイン画にするとグロテスク感、強迫観念が増すので、それがかえって耽美というものから離れてしまう気がしたので、(私の場合は)イメージ画像に使う文字は英語にしました。人によっては物足りないと思うかもしれませんが・・・・・・。
使ってる引用箇所は本題に入れば分かるかと思います。
私はRanpo Edogawa にしましたが、
Rampo Edogawaというのもありますね。
・There certainly must be some who pray constantly for those who never pray at all.
・Certain thoughts are prayers. There are moments when, whatever the attitude of the body may be, the soul is on its knees.
復活祭前夜
Victor HugoのLes Misérablesの引用で申し訳ないですけれども、(メモが残ってて) これ以上の感想がありません。身体がどうであっても、私が何をしてきたのか それが何であろうと、魂が跪くような時間でした。
今日は 前夜祭(復活祭の)でした。
土曜日は、夜になるとバスの最終が過ぎるだけじゃなくてタクシーも出払ってしまうから 途中で帰りましたけど。
*ユゴーは無神論者ですが時々カトリック書籍でも引用されてます。
硝子が水に溶けて色が変色するように、タルコフスキーの「鏡」の記憶の世界は、彼の得意とする水の描写と共に変色しているようだ。鏡は溶けにくいように特殊な加工はされているが、湿気の多い場所や長らく水につけていると色がヤケ始める。廃墟のような部屋、脆い木材、天井が崩れていくこと、これらの映像は美しく磨かれた硝子とはかけ離れていくが、時間の流れにとって物質の衰えは自然なことであって、水によって老朽化を進まさせているとすれば、それはレーテー(忘却の河)を表しているようで、ミュトスとしても美しい。
物語のオープニングは上手く話せない(吃音症)の少年が女医に合わせて言葉を繰り返すところから始まる。それからタイトル画面が出てきて、物語が始まる。
主人公アレクセイは母の若い頃の夢を見たと語り始め、映像のように写り込む記憶を見てしまうが、観客も同時に、鏡でも見るみたいに他人の生活を見ることになる。但し、鏡の役割として、鏡を見るということは「私」であるということに留意してもらいたい。己を覗くように、観察するように、無自覚に、『身なりを整えるように』、他人の人生の流れを見ることになる。
4月4日はアンドレイ・タルコフスキーの誕生日だった。毎年、春になると彼の話をしようと思うのだけれども、語る自信が無かった。実際に「鏡」とは*タルコフスキーの映画の中でも感想や批評が難しい映画だとも言われている。粗筋としては、主人公アレクセイは少年時代に過ごした別荘を思い出しながらモスクワで生活をする。
アレクセイの結婚した女性は何処か母親に似ている。(役者自体同一人物)それと同時に母に苦労をかけていたのではないかと、その思いが詩情となって映し出される。
モノクロの映像が母親の映像で、カラーが現在と、交互に繰り返される構成で成り立っている。タルコフスキーのこの映画を撮影しているのは (Georgi Rerberg)で、朽ちて行く物質世界に相反して、モノクロ時代からカラー時代へと移ろいながらも変わらず栄えている草花や、貧しさながらにも香り立つ女性美を鮮明に映し出し、素晴らしいカットを数え切れないほど生み出している。
この映画はアレクセイの母の紹介のようなものだ。しかし母への道案内は、観客に分かりやすく説明しようとしない『私』という信用出来ない語り手である。人の意識の流れ(stream of consciousness)のように、心の深いところを自由な連想と予測不可能な表現であるかと思えば、自己という鏡像を通して母、そして神の赦しの自覚など、心の深い部分を翻訳したかのように、秩序立てて語ろうとする。時々、タルコフスキー自身の声も挿入されているが、この映像は、narrated monologue(物語られた独白)ではなく、やはりnaratted poetry(物語られた詩)なのだと思う。
先ほど『身なりを整えるように』と書いたけれども、心理の上でも人は他人を見て、他人と比較して自分を知るともある。実際に取材をしている上でも他人を観察しているようで、最終的には自分の隠れていた潜在意識が浮上してくる。
良い映画を見た後や本を読んだ後は、音に敏感になったり自分を発見したりする。特にタルコフスキーを見た後は、子どもの頃に住んでいた家の軋む床の音が恋しくなったり、注がれる水の音、コーヒーの泡立ち、硝子の変色、草木の揺れ、鳥の鳴き声の強弱によって、鳥が自分の近くに来たかと思ったら遠くへ離れたことが分かる。硝子は薄っすらと自分の姿を映すけれども、硝子を通して外の景色を見ることが出来る。硝子を加工すると鏡となり、鏡になった途端、私を含めて全景色が全反転する。それを細かく切断されたものが私の手鏡(所有)となる。
自分と外の世界の繋がりへの共鳴と、他者の経験の追体験によって地味なことまでもが全て価値があるように思えてくる。だから時々、彼の映画を見ることにしている。
*stream of consciousness (思考の流れ)とは、心理学者 W・ジェームズの造語。西田幾多郎に示唆し、フッサールにも影響を与えた人。
*タルコフスキーの映画の中でも感想や批評が難しい映画だとも言われている。→人から聞いた話なので確かなことは知りません。
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バルザックのセラフィタで引用されていた箇所で、
意図的だったのか誤りなのか定かではないのですが、バルザックはこの箇所をラテン語で順番を逆にしていたようです。
In Deo sumus movemur vivimus.
(我らは神の中に在り、動き、また生きる)
何か一つ、これについて詩のような簡潔な台詞を添えようと思ったのだけれども、これだけでも完成されたような美しさがあるので、受け入れるばかりで何も閃きませんでした。
もう少し何か経験を積んだら私の言葉として動くのかしら。
画像元→ https://500px.com/dorotagorecka
photo: Dorota Gorecka
使用した書籍→The RSC Shakespeare: The Complete Works
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谷崎潤一郎「卍」より
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朗読の感想
どちらが素晴らしいのか、どちらが本当に美しいのかと優劣はつけられないが、人間の有限性というものが儚いとするのなら、その儚さを躊躇することなく表現出来たのは
綿貫に関する記載は、重要な人物でありながらもこの記事の全体のテーマ、ブログでの読みやすさを考えた上で省かせてもらいましたが、男性として機能しなかった綿貫の議論からも引用を。
「この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、時のしわざだし」(第三章)
ヴィクトル・ユゴー著
ノートル=ダム・ド・パリより。
*簡単な粗筋*
主人公、カジモドは赤ん坊のとき捨てられ、当時まだ助祭長だったフロロに拾われる。月日を経てフロロは司教補佐へ、カジモドはノートルダム大聖堂の
鐘つき男となるが、音が聞こえないため鐘の音は聞こえない。彼の外見は醜く、人々からバカにされる存在で広場で晒し者にされるが、美しいジプシー娘のエスメラルダに助けられる――――。
醜いカジモドのことをユゴーは第4編でカタツムリの殻に例えた。
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カタツムリの殻というものには以前話した「黄金比」(黄金螺旋)が隠れている。人類が発見した黄金比、新約聖書の神と共にある「言葉」(ヨハネによる福音書1章)というものはギリシャ語ではロゴスと言うが、「比」という意味もある。他にもアリストテレスは「命題」をロゴスと呼んでいたし、神の言葉に匹敵する比とは「黄金比」だと一部の数学者や神秘数字を愛する者からよく語られる。このカタツムリの殻とは「命題」でもあり、そして「黄金比」という答えでもある。
元々、ノートルダム大聖堂自体、建物の比率が長方形の黄金比となっている。設計自体も聖書の数字を彫刻等に散りばめられていて、荘厳なる大聖堂である。けれども、ユゴーは長方形の黄金比としてではなく、カタツムリのような地味な生物の殻に潜む黄金比を大聖堂に例えた。ガジモドの体をその渦巻き上の「黄金比」に押し込め、全ての歪さを上手く表現する。その歪さ中には障がいを持つ者、ジプシーへの根深い差別、そして神を外皮のようにしか扱えない者への冷静な視線が表れている。
大聖堂に捨てられていた赤ん坊のガジモドは20歳ぐらいになるが、外見は醜かった。最期は愛する同じジプシー女性の亡骸と共に白骨化するまで眠り続けて砕け散った。 眠りから死の境界線はいつ越えたのか、その「時」は読者には知らされない。憎悪と欲、ノートルダム大聖堂を取り囲む長い長い人間劇は「時」のつけた傷に過ぎず、最期の白骨化があまりにも切なく、この死に方が幻想と現実の区別をつかなくさせる。
ユゴーのノートル=ダム・ド・パリの完訳版を再読したが、まるで大聖堂の建築を様々な思考を持ちながら細かく見ているようだ。この作品は、著者自身がノートルダム大聖堂を訪れたとき、大聖堂の片隅に「宿命」と刻まれた文字を見つけ、その文字が上から塗りつぶされて消されたころから着想を得ている。この本の帯も「この世は劇場の緞帳です」とリルケの言葉を使っていた。このように「緞帳の裏」「隠している事実」に焦点を当てることで明かされる告白、著者自身もそれを望んでいるように思える。ただ、その隠しているものとは国民全体で考えると、本当は知られたくないものだったりすることも多い。
例えば、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(映画)になりますが、この話しもフランコ政権の検閲を逃れるために色々と置き換えた「詩」と囁かれているが、スペイン国民自体はフランコ政権を知ってもらおうなんて思っているわけでもないようだった。
この映画を好きだということがあるのなら、純粋にアナという少女について、
見えている映像世界についての感想と感情を述べることが望ましいだろう。あの映画は大声の主張ではなく詩であり「ささやき」なのである。
ノートルダムに話を戻すと、人間劇で見ると人間の「罪」や「欲」は「時」の流れの一つに過ぎず、小説を読めば分かるようにそれはノートルダム寺院の壁に傷をつける「時」のようなものなのだ。無宗教を選択したユゴーにとってそういう解釈のほうが自然のような気がする。ジプシー娘のエスメラルダは原作では絞首刑になるが、ディズニーアニメではカジモドに助けてもらって生き残り、このシーンは感動的だった。
何故、殺さなかったのか。子ども向けだからという単純なことでもあるかもしれないが、
90年代アメリカは、短期就労目的の非移民も増加した。こういった時代背景も反映していたのかもしれない。国家というのも人格を持った信念でもあるので、多少、国の時代に合わせて変更すること、意味のある変更は私は嫌いでは無い。
どんなに「時」が流れてもジプシーについては謎が多く、あまり取り上げられないし、ジプシーそのものはスペイン歴史同様に取り上げられることを望んでいないところかもしれない。原作ではホロメスの「イーリアス」の説明もしている。ホロメスの作品は物語世界の外にいる語り手が、他の誰かについての物語を語ることが多い。聖書でもこの方法が大半である。このような手法を取ることを全知の存在とも言うが、「物語」の場合、作家は執筆途中で実況にはなりえないという事、作家は果たして本当に自分の作っている作品に対して全知であるのか? そういう疑いを持つようになっていく。
作家・アンドレ・ジッドはMise en abyme(深淵の状態にすること)、物語りには大きな舞台の中に小さな舞台があることに気づいた。ユゴーは既にジッドの前にこの存在に気づいていたという。恐らく、このノートルダムドパリも入れ子状態の中にある深淵を、哀しみを作り上げたと言えると私は思う。
深淵は 深淵のままなのか、目に見えた残酷な
話は残酷なままなのか?
そう思うと、この深淵に対する光かのように
私は聖書の「目が見せもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙2章9節)が思い浮かんだ。*パウロの言葉に鳴り響いているもの、その否定の連続の後に高揚した表現があるが、これは人智を超えた神の霊による啓示について語られたものである。
ノートルダムではカジモドが一心不乱で自分では聞こえない鐘をつく間、物語りには書かれなかったがその鐘の音に全く意味が無かったわけではない。傷が在る外皮の中に祈りはあり、現実としては争いもあり、小さな愛は沢山在った。
ディズニーアニメのカジモドは外見は醜いが、心優しい青年に描かれ、大聖堂のアーチから溢れる光、日の光が照らす街へと夢を見る。原作では孤児だったカジモドはアニメの中では“Sanctuary, please give us sanctuary”と母に守られたという過去を持つように加えられた。
そのように情を持ち始めたのは、ユゴーが絶望的に書いた「時」が作り上げた、現代の私達だ。その時、差別されていた存在を愛されるような存在で描こうとした人間がいて、現代では作品に対してカジモドへの同情は耐えない。
全員がそうだとは言い切れないが、この作品は「時々」愛読されている。世の深淵は深いが時々、愛は在る。どのようにこの理解が育ち、未来で人の愛が育ったのか、この形成はどう説明出来るのだろう。
人の記憶と同様、世界は記銘と、保持と、想起によって「貝」のように形成される。けれどもそれを把握したからといって全知とは言い難い。はかれない深淵と、神の光、人がこの世に存在する限り深淵は深く、人が愛を識る限り、必ず神(fate)を意識する。 もしも悲劇の物語を見たとしたら、それに悲しむ自分の奥底に
愛があり、神と繋がりがあるのかもしれない。物語の中でその一滴の情があればこの話は違ったということ、それは神のいつくしみに似ているということは、言いすぎだろうか?
砕け散ってしまった白骨、
私達は物語の外。
心で溢れた感情は、深淵から「時」を経て浮上した愛の一部。
***
*コリントの信徒への手紙の説明「否定の連続の後に高揚した表現」について。オットー(聖なるもの)より引用。パウロに関しての説明は正式版で。
*神をfateとしましたが、訳を当てはめたわけではありません。
*世界は貝のようにとありますが、この作品に合わせて書きましたが私自身「巣」だとしています。矛盾かもしれませんが
*ユーゴと表記することが良いらしいですが、持っている本がユゴーでしたので
ユゴーで統一しました。
画像:http://www.iamag.co/…/the-hunchback-of-notre-dame-90-origi…/
http://disney.wikia.com/wiki/Notre_Dame_de_Paris
(批評:簡略版)