銀河鉄道の夜

主人公ジョバンニは家が貧しくて孤独を感じていました。同乗していた同級生カンパネルラは裕福でしたが、作品の終盤で実は川に流されて見つからないということをジョバンニは知ります。カムパネルラは恐らく死んでしまったのだということになりますが、その死は読者に最後まで謎を残します。
それでもジョバンニは生きる意味を見出して家に帰ります。 この列車の旅は幸福を探す旅であり、生と死に特等席のような違いがありません。違うのは切符です。
この作品の著者・宮沢賢治は何度もこの作品は書き直していますし、出版される前に死んでしまいます。身体が弱く、仕事が上手くいかなかった彼は、自分自身への問いと同時に、人々に寓意や幸せを与える童話作家として「本当の幸せとは何か」ということを模索したのではないのでしょうか。
残された遺族や団体が更に推敲を重ねましたが、初稿が出版されたり、後になって賢治が訂正した(博士が居ないバージョン)版が出たりとしてるので、銀河鉄道の夜は、どの版のを読んだのかによって、話も印象がそれぞれ違ったりしてるようです。
私はこの話は、呼びかけのようなアナウンスの後に、気がついたら列車の中に居たというような目覚めの感覚が好きです。目を見開いたら窓の外に宇宙が広がってるというのは素敵ですね。
天の河、ケンタウルスの祭り、銀河ステーション、カムパネルラが持っていた黒曜石の黒板、白鳥区の北十字、南十字、蠍の火、 カムパネルラはいつ自分は死んだと気付いたのか、カムパネルラにとっては死の目覚めはいつだったのか、私は職業柄のせいかそんなことを考えるようになりました。
ずっとこの話の視点はジョバンニでしたが、カムパネルラはジョバンニが列車の中で目覚める前から目覚めているのか、ジョバンニの意識の目覚めと共に彼等は現れたのか、どちらなのか、そういうことが過ぎります。


カムパネルラはジョバンニとずっと一緒にいると約束をしたけれども、カムパネルラは石炭袋のところで消えてしまいます。私はそれでも約束が破られたとは思っていません。二人はきっとこの銀河の中で魂の繋がりを約束したということになるのです。
死者と生者が限りなく平等に近い星々の旅で。
「本当の幸せ」と「天国」は、生きている人にとっては似てるのかもしれません。追えば何処までも果てしなく続いていて、降りる駅を決めればとりあえず、そこに少しとどまるのではないのでしょうか。
あと、私は宮沢賢治が、人生の道しるべである老賢者(ユング)のようなブルカニロ博士を途中で消した理由を考えていました。
恐らく、賢者を失うことで生者だけが特別なことを知るわけでもなく、死者だけが特別なものが見れるわけでもなく、ジョバンニとカムパネルラは離れた後も、同じように彷徨いながらまだ旅の途中だ・・・・・・ということにしたかったのだと思います。
(この感想は、 今流通している版を基準に書いています)
                       

                       
切羽詰っているかと思えば、空き時間があると急に銀河鉄道に乗って見たいなと思うようになって、確か主人公のジョバンニは緑の切符を持っていたなぁなんて、作ってみた。宮沢賢治の銀河鉄道の夜は手元にはなかったけど、なんだかインターネットに頼りたくなくて記憶頼りに作ってみた。
後から確認してみたら、緑というのは正解だったけどハガキサイズで、唐草模様が一面にあって十字があるらしい。十字架があったような気もしたけど、賢治は日蓮宗だもんな、気のせいかなとかで書かなかった。(正確には十おかしなばかりの文字・十字架ではない)
駅(行き先)まで覚えてたのに(涙)「突っ込みどころ満載」みたいな出来になってしまったけど、話によると人それぞれ切符のタイプが違うみたいだし、これは私の銀河鉄道切符ということで。
まぁ今回は触りということで。今度また余裕があったら作ろうかな。
・最後に余談・
宮沢賢治の銀河鉄道は生者のジョバンニと、死者のカムパネルラが共に銀河の中を列車で旅をする。初稿にしかいない「ブルカニロ博士」によると、この切符はずっと持っていなければならないし、それぞれの神様の話を聞いて、議論もするし共感して涙も流すだろうというのがあった。
賢治の希望は、博士がいないバージョンのようだ。
私が子どもの頃読んだやつは、ブルカニロ博士がいるやつで友人が読んでるやつは居なかったので話に食い違いがあった。現代でも流通しているのは、この博士がいないバージョンがほとんど。
銀河鉄道の夜、鉄は旧字を使ってます。
短冊をイメージして作りました。🎋
この記事はFBで二回にわたって投稿したものを、まとめています。

info










Nous nous aimons en raison du plus ou du moins de ciel que contiennent nos âmes. 

Mais ne sois pas injuste,


私達は自分達の魂の中に天国をどれだけ含んでいるかによって、それに応じて愛するのです。
けれども、不公平であってはなりません。


 Honoré de Balzac――Séraphîta

前回の出版作だったイコノグラフで書いたサロメの脚本の出来が良かったらしくて(一部掲載)セラフィタは頼まれた。ただ、バルザック自身も当時、既に有名だったのにも関わらず、何処の出版社も受け入れなかった。それでも彼はこれこそ最高傑作だと自費出版をする。そして現代でもこの作品はマニア層扱いで、彼の出身地のフランスでもあまり知られていない。
意地でも出版したいと思ったのは、愛する公爵夫人への気持ちもあったのだとは思うが、公爵夫人の夫は亡くなり、彼等は再婚する。
セラフィタは中盤まではスウェーデンボリと基本的な聖書解釈を取り入れ、登場人物はプロテスタント系列の牧師だが、後半はカトリック、もしくは「普遍」になっている。著者自身も最終的にはカトリックの墓、著名人達が多く眠るペール・ラシェーズ墓地に入れてもらっている。
こういうのを「独自の宗教観」と評するけれども、私は独自の宗教観とはどんな宗教に属していても逃れられない性なのかもしれないと思う。勿論、わたくしもである。
脚本は、フランス語原作、英語版を参考に訳し、7割ぐらい脚色をする。理由は、日本語翻訳者も私なんかよりも優れているのですが、表現の意訳が多かったことと、スウェーデンボリの下りが特にバルザックの独自性が入っているために舞台を考えると、キリスト教以上に共通認識が無い上に情報量が多すぎて恐らく頭に入らないだろうという理由から、かなりの改変を入れなければならないのと、この出版が自費だったせいか、聖書の引用箇所や解釈にズレが訂正されてないままだ。(注釈入り)スウェーデンボリを支持している人たちも沢山いて、バルザックのセラフィタと言えば想像の秘儀のようなものがある。

私はこの虚構世界と人々が信じる神秘の事実とのバランスについては触れないが、
虚構世界の魅力は秘儀でもあることである。
それに対して敬意も忘れず謝辞を入れる予定でもある。


例えば日本語訳では「不公平」ではなく、「平等」にしなければなりませんとあった。
しかし、公平と平等となると意味が違う。キリスト教的に考えても、この場合は「公平」だろうと思った。神から与えられる賜物も、タラントのたとえであるように平等ではない。
天使(セラフィム)は、人間が平等に与えられてないものに対して、不公平にならないように補う使命があるのだろうと私は思う。(カトリックでも、天使はメッセンジャーとして役割がある。あまり信者同士で語ることも神父が話すこともないようだが、外国人信者や神父だったら天使の話を持ちかけたら、答えてくれることがある)

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/12/angel.html

ただ、語感を考えると確かに「びょうどう」と言ったほうが綺麗だったので捨てがたいとも迷った。

今後の予定(公開出来る範囲)
クラウドファンディングについて。
セラフィタの脚本化について
次回作(小説)について。
残り二件は契約の問題上、現段階では非公開。

Let’s take a break.

小休止

作品紹介じゃなくて申し訳ないのですけど、

ロベール・ブレッソン 監督シリーズも色々丁寧に見たい。
ドストエフスキー原作の作品ばかりで

女性の表情とか美しいなと思う。

紹介動画を見てると、この前アルコール度数20度
のカクテルを 舐めながら飲んだけど、
気持ちよかったことを思い出した。

私、お酒と併用したらいけない
薬を頓服で飲んでるから 中々お酒の
タイミングが分からないけど、
お酒でいつもより思考が停止したら祈りの言葉が出て来た。

そんな自分に少し安心する。

無意識なのか、
そんなところにまで浸透してるのが 嬉しかった。

桜桃







・子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。

・私は疲労によろめき、お金のこと、道徳のこと、自殺のことを考える。

・私は悲しいときに、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。

・人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけの読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。

・しかし、父は大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べて種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事。
桜桃―太宰治。(1948年5月)


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◎はじめに

われ、山にむかいて、目を挙ぐ。(文語訳)

(目を挙げて、私は山々を仰ぐ・新共同語訳)
詩篇、第121

 旧約聖書の詩篇の引用から始まる。この続きは「わが扶助(助け)はいずこよりきたるや」と続く。(文語訳)意味は、「わたしは山に向かって目をあげる、わが助けは、どこから来るであろうか」(角川春樹事務所文庫より)
「子供より親が大事、と思いたい」と始まることによって、何て薄情な親なんだと思うか、共感を生むのか、もっと他の意味があると読むのか、様々な読者の「立場」をひきつける。桜桃は短い作品で、この中の父親の名前が著者である「太宰」となっていること、長男の障がいのあること等の一致、妻子を置いて、愛人と心中事件を起こす約一月前に書かれた『桜桃』は私小説扱いでもある。この父親である「私」(太宰)は人を楽しませることや、人の期待に応えようと自分を追い込んでいく。死にたいと思うこと、長男の障がいについて父親は一緒に死にたいと思うことがあると独白で語る。そして贅沢なものでもある桜桃(サクランボ)を子どもに与えず、自分だけがまずそうに食べては種を吐く。

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◎感想

 日本語では「うそつき」を「嘘吐き」(ウソハキ)と書くことがある。この最後の桜桃(サクランボ)を食べては種を吐き、食べては種を吐きというのは、嘘吐きのことをあらわしてるのだと思った。私は(わたくしは)まずそうに演じたということは嘘をついたと同等だとし、 嘘とは種に纏わりついた彼の唾液のことだとする。そうなると、何かを実ろうとする小さな種が彼の口から落とされるイメージがすぐにできる。「嘘とは唾液」とは、「吐いた唾は飲めぬ」と、一度口から出した言葉は取り消すことができないということと、私はキリスト教徒なので、植物の種にはなるべくならプラスの意味を持たせるので、意味を分離させた。サクランボの花言葉は「善良な教育」。それを子どもには与えず父親だけがまずそうに食べて種を吐く。植物の種というものは本来は可能性を秘めているが、恐らくこの種は沈黙のまま捨てられるのだろう。
それら全て含めて親の弱さであり、性(サガ)であり、子を想うからこそ、弱いと認識してしまう葛藤を静かに表している。私は子どもがいないのでまだ確かなことは分からないけれども、親になると自身が弱いと感じることは屈辱なんだそうで、そういう弱さを告白することはとても勇気がいることなんだと聞いたことがある。今は親にも余裕を与えてやろうという考えが広がってるので実際はどうなのか分からないが、誰でも子がいると自分の未熟さを感じることはあるというのは、いつの時代も変わらないとは思う。
 他にも太宰は文学を書こうとする者なら誰しもが悩む普遍的なことなんだろうと思う。 愛や死の同調で喜ぶ読者を見ると彼等に合わせてしまいそうになる。 特に死の価値観は厄介で、死や儚さの同調について、読者の文学への期待は思いのほか高い。もしかしたら生きることや愛の同調よりも期待が高いかもしれない。それは死の同調が「私だけじゃなかった」という安堵感を与えて、「生」に繋がることがあるからかもしれない。死への同調は、生きることも意味する。これは私の独断だが、そういったことを求めるのは女性が多いのかもしれない。
それは現代の私の周りでも変わらない。男性は愛や哲学的なことを主に理性を求めるけれども、女性は死(生)や、人知れず抱いている夢への感情の同調を私に求めることが多い。(それでも、あまりそれに応えすぎないようにはしている)
似たような人がいるという灯りになること、それが作家の弱さの告白の意味である。そしてフィクション作家であるのなら、何処か現実とは違う何かを見せなければならない。例えば、この前紹介したガルシア・マルケスのようなものが良い例だろう。海からバラの香りがするということ、人はこのようなもう一つの現実を期待する。
死や愛を丁寧に書くとすれば基本は一人身のほうが身軽なのかもしれない。 もしくは一人身ではなくても自分を押さえつけない少数の理解者で充分だったりする。作品を第一に考えてくれる理解者がいるのなら、それで良い。それは気楽かといえばそうでもない。一人身でも自由きままに生きることなんて出来ないが、子は犠牲にしていないというのが私の中で安心する一つである。
子育ても経験にとって重要なのかもしれない。
しかしながら、子が可愛いのなら、子を踏み台にしたような経験はしたくないというのがある。完璧な子育てでなくても子は育つけれども、初めから約束出来ないことを誓うことは出来ない。
未来については、神の計らいによるけれども、今の私はそうだ。
 太宰の「桜桃」は作家の葛藤も非常にシンプルに書かれてあるが、妻や子を持った故の葛藤だけで済ませると少し違うのかもしれない。子を持った場合でも持たない場合でも、同じぐらいの課題の重さはある。これは与えられたものに対して、何らかの理由で身軽に動けない人間の葛藤だと私は思う。
だから家庭が無い私にも心に響いたのだと思う。私も家庭が無いことに身軽で極楽トンボだとは感じたことがない。別にあったからといって拠り所になるという理想も今は無い。私は、誰かを泣かせるようなことや、裏切ることや、非道徳的な犠牲が目に見えないだけで、これが正しい生き方なんて自信がないのも私も同じである。これが「私」としか言えない。いえることは、今の自分を必要としてる人がいて、応えたいと思う人がいて、与えられたものは、自分にとって生きるための「かすがい」に違いはない。家庭と違うが、仕事においてはお互い犠牲を払いあって成り立つ関係であるので、感謝すら感じる。
それでも、子や才能(賜物)のように与えられたものによって、身動きが取れなくなるということは多々あり、葛藤があるのだ。
今の私は「桜桃」をそう読む。今回は太宰が残した遺書や太宰の人生とはあまり重ねず作品だけで纏めた。 ただ、太宰は妻以外の女性と心中するときに、子を想う文も残し、生活していけるように印税を残した。残された子について私は詳細不明だが、経歴だけなら立派に成長している。
 取り残された妻は、太宰の遺骨は家に入れなかったが作品が残るように活動をした。心中した相手の女性の家族は名誉回復のために長年に渡って活動した。今では彼に対しては賛否両論はあるけれども揺るがない知名度の高い文豪となった。人の吐いた一つの嘘なんて誰かの誠意で綺麗になっていくように、捨てられたはずの種がまるで育ったようだ。

Lord, have mercy.

*今回、太宰治の本を朗読する機会があったので二作続けて書くことにしました。
*長男の行く末に関しては表現が思いつかなかったので省略しました。
****
◎参考にした他の書籍の一部


「ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。神か富かどちらかを選べ」 (マタイによる福音書・6・24)


信仰は本来、人間の弱さや源として希求されてまいりましたが、その観点を忘れた「いい人間ぶること」がこの頃はやりすぎているように思います。人間は美点もあり醜点もあるのものです。 その相克に苦しむとき、悲しいことながら人間は誰でも多少神が見えやすくなるのでしょうか。

曽根綾子

聖人とは欠点のない完全な人間を言うのではなく、この愛とエネルギーに行き、生かされた人のことですね。
尻枝正行神父
別れの日まで―――作家・曽根綾子とバチカンの神父の往復書簡。



酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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L’amour est un signe de notre misère.

L’amour est un signe de notre misère. 
Dieu ne peut aimer que soi. Nous ne pouvons aimer qu’autre chose.
「愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。
わたしたちは、他のものをしか愛することができない」
  シモーヌ・ヴェイユ(重力と恩寵)-(愛の章) 


*命題+根拠1+根拠2、極めてシンプルな内容だが、はっきりと意味を説明出来る人は恐らくあまりいないだろう。前後の文脈無し、これが断章のまとめである「重力と恩寵」の一文である。フランス語でも同様、特に大きなヒントとなるようなものはなかった。ただ、他の節やヴェイユの愛の価値観、彼女の人生、イエスへの愛の価値観等を見れば薄っすら見えてくるのかもしれない。 
忘れてはならないのは、彼女は哲学者ということである。既に「問い」が始まっていると思って良い。但し、「神は、自分をしか愛せない」とは神への疑問・反発でもない。何故なら、このタイトル自体が「重力と恩寵」であり、重力とは引力(二つの物体の間に引き合う力のこと)のみが確認されていて、排斥(二つの物体が反発しあうこと)としての力は確認されていないのだ。彼女の中の価値観として神と人間、神と哲学の排斥は無いと考えて良い。彼女は洗礼は拒んだが、こういった繋がりは否定していないように思える。

日本語で考えたとしてもフランス語(notre)で考えたとしても、愛とは「私達の所有」であり、それは悲惨のしるしということになる。この場合の愛とはフランス語のamourこれに定冠詞がついているので、Qu’est-ce que c’est l’amour ? 「愛とは何か?」 と、愛が抽象的な意味を指すようになる。アガペーであり、エロースであり、フィリア、ストルゲー等、様々な愛を含み、着地点を好まないのかもしれない。これは肯定的な文だが、多くの疑問を残し、真か偽の性質を持つので命題だ。
神は、自分をしか愛することができないというのは文学的表現のようで、哲学的要素を含んでいる。意識の限界と言えば早いのか、確かに信仰とは目に見えるものだけではなく、目に見えないものを信じることも大事だとあるが、優先順位を変えられないのが哲学、ということもあるのかもしれない。アリストテレスのように馴染みがある世界に問いをかけるが、最終的に問いに対して目に見えるものにしなければならない。それは彼女が工場体験や、スペイン内戦での活動等、貧しさという現実を知っているからである。彼女はいかなる貧しさにでも、神の恩寵が届くかどうかを思惟していた。それでも、最後は聖書的な「私達は他のものをしか愛することができない」と根拠2でこの一文は閉じられる。 
意味が分からなくても印象に残り、貧しさを少しでも知っているのなら感じるところがある断章である。
*****
詩のようであり、哲学。哲学のようで詩、そして彼女の兄(アンドレ・ヴェイユ)のように数学者のようだ。これはフェルマーの最終定理のように単純な文なのに証明が難しい。現代となっては珍しくもない表現なのかもしれないが、証明は難しい。ヴェイユは私の最高の理想系だ。何年経っても変わらなくて、日毎に彼女に対して光が増している気がする。あんまり好き好き言い過ぎると、自分が無いみたいに思われそうで控えてるけど、やっぱり彼女が大好きだ。 私は少しおかしいのかなと思うのが、フェルマーの最終定理の番組を見ていて、ヴェイユ予想、ヴェイユ予想と連呼されると何か興奮する(笑)
このメモは突然閃いて、考えた時間が短いので後ほど推敲の余地があります。
*この一文の抜き出しと、命題と根拠1、根拠2という纏め方は私の哲学者でもある友人の考えから派生している。ただ、命題の説明やその後の考えは私のものです。
愛は、わたしたちの悲惨のしるしであるというのは、
「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、
蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです」
コリント1 15:43
という期待があるのだと思います。

重力と恩寵:カイエ抄 今度いつかまたカイエの話でも。


hate

「持論」
アドラーの心理学を元にして考えると、根本的なトラウマみたいなものは治せないし、癒えることもない。 例えば 「恋人が死んだ」とかそういうものは 神の力とか信じても癒せないという私の持論がある。信じて癒えるというのは、何らかしら神からの跳ね返り、若しくは自身の覚知があるということで、傷が深い分、そこまで大きな奇跡は起きにくい。可能性として0ではないけれども、そんな奇跡を待つ人生はきっと疲れる。

そういうコアな弱みに限って他人もケア出来ないし、人もそこまで答えられない。これは根本的に治せない原因(トラウマ)だ。そこを無理してマインドコントロールした話にロクなものはない。

でも、 そのトラウマが原因で起こる行動や感情は 考え方次第で前に行ける。例えば、昔の恋人が死んだから、新しい人を愛せないとか、恋愛する気がおきないんだとか。 この領域からは信仰も生きるかもしれないとは思うし、人助けもあるかもしれない。試行錯誤や、内観、計画、それぞれの力で切り開けると思う。 切り開こうとすることには、時々神は応えることもあるし、人間の手による音楽療法だとかカウンセリングも、トラウマの根本原因ではなく、この「目的」エリアのアドバイスをするわけだから私は満更間違ってない。

あのとき無視された
あのとき 嘘つかれた
あのとき ●●だった

他人から見れば些細な事でも本人にとっては原因となるトラウマ。話し合うタイミングも過ぎ、時効同然の過去の出来事は厄介だ。

過去の出来事や傷つきは癒せない。 時間は忘れる特効薬というのも嘘に近い。ただ体感が遠のくための生き方はある。私も過去にも色々あって過去は変えられなかったけど、出来事の感情はあまり覚えていない。

それは前々から目的を変えて、考え方や場所を移動したりしたからだろう。そんな生き方だったせいか、お陰さまで傷に対しての感情は消化されたからだろう。

それでも最近、久しぶりに大きなトラウマが出来て
随分とグルグル回ったけど、私は、このトラウマの根本は治せないと切り捨てること、という基本にかえると、何だかすごく楽になれた。

もう嫌いなものは嫌い。


あなたが私は嫌い。 絶対に絶対に嫌い。


良い思い出もあったけど、 思い出せないほど
嫌いなのだ。

それでいいんだと、
もうここでフラついたりしない。月並みな
言葉だが、他を愛せばいい。

これから先、このトラウマを生かすしかない。

私の未熟さを認めるとすれば 、
今はここまでしか見えないということだ。

最後の最後で
死ぬ前に 全部許せばいい。

今は 呼吸出来ることが大事。

写真: エレーナ カリス

El mar del tiempo perdido

「バラの香りがしたろう」とトビーアスは続けた。
「グアカマヤルの水死体と同じ匂いだったよ」
「いい香がしたんなら、きっと海のじゃないわね」
「どうせ死ぬのなら身分のある人のように土の下で埋めてもらいたい」

García Márquez ガルシア・マルケス(1982年・ノーベル文学賞受賞)
El mar del tiempo perdido(失われた時の海)コロンビア出身・スペイン語。

紹介

手法はマジックレアリズム。それは現実では起こりえないことも現実というもの。
例えばこの話にある「海からバラの香りがする」という表現も、この物語では現実です。マルケス自身は祖国コロンビアではなく、ヨーロッパに移住して書いたそうです。
「失われた時の海」とは、固すぎる土のせいで、この土地は死体を土に埋めることが出来ないので海に流す習慣があります。
そんな土地の海が三月となると、薔薇の香りがし始めます。その香りについて人々は神のお告げだと言いますし、それは嘘だとも言います。そんな中で、しまうところもない大金に困っているという男、教会建設のためにお金の相談をしにくる司祭(神父)がやってきます。この何とも筋がつかみにくい流れが「現実」というわけです。
「日毎(ひごと)に波が穏やかになり、燐光を放ちはじめた。三月になると、夜はバラの芳香が漂ってくるようになった」とありますが、
 海の燐光とは、夜の月のことでしょう。
その証拠にこの燐光の影響で星を数えるのに苦労するとあります。

登場人物トビーアスは、蟹を殺せず、最後は蟹が静かになるまで寝付けなかった。蟹と月は強い繋がりがある。海外では月の模様は蟹だと言われてるし、星座でいうと蟹座の守護星は月だからだ。月とは太陽の熱や光の影響を受けて存在する、ということは月は自分では熱や光を放てないということでもある。その影響かこの世界の人は自分で熱や光を放とうとはせずに、「死に場所」を探すような話を繰り返す・・・・・・
「この海から遠く離れたところで死にたい、ずっとそう思いつづけてきたんです。ここでバラの香りがするなんて、きっと神様のお告げに違いありませんわ」と、それこそ月の引力のように。
けれどもこの土地は月という形は無いのかもしれない。 月のような淡い光がある海ということだろう。引力だけがある土地、海から離れようとする人達、失われた時の海から離れようとすることは、時を手に入れようとしているのかもしれないが、何も本当のところは分からない。それこそマジックレアリズムの醍醐味かもしれない。
よく登場するバラの香り。
著者の祖国のような赤道が通過する国は 日射量が多い場所で、その土地でのバラは色鮮やかな大輪が育つのだそうだ。色鮮やかなバラの芳香について話しを巡らせては、神父は40センチ程、宙に浮き、この土地に教会を建てようとしたが、お金を集められなかったので諦めてこの土地から離れる。
明瞭とは程遠い淡い話、押し寄せては引いて行く薔薇の芳香が、空想的な死体の印象を残す。
この土地の死生観は「人は死ぬべき時ではなく、そう願った時に死ぬものだと聞いていたので」 というようなもので、
やはりこちらは、私達の現実とは違う 「現実」小説世界は現実世界の関心を、様々な手法や視点によって表現する。例えば「死」「貧しさ」という対象を書くということ、
ガルシアマルケスの死や貧しさは呼吸が軽く感じた。深みはあるが語るほうの呼吸は軽い。特に太宰治の後は 呼吸が軽い。(勝手に私が重くしただけなのか分からないのですが)反動のせいか、ガルシア・マルケスが以前より整理しやすかった。勿論、マジックレアリズムは南米の情勢無しでは語れないようなのですけど、何らかしら置き換えたということは半分以上は想定と想像に委ねていると思う。
酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

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駆け込み訴へ(太宰治)








銀貨30枚を落とすユダ





イエス:「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」

ユダ:いいえ、私は天の父にわかって戴(いただか)かなくても、また世間の者に知らされてなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになって下さったら、それでもう、よいのです。

イエス: 禍害(ワザワイ)なるかな、僞善なる學者(ガクシャ)、パリサイ(ファリサイ)人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど内は貪慾と放縱(ほうじゅう) とにて滿つる(みつる)なり。(マタイの福音書23章25節)

ユダ:「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、
いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。いただきましょう。


私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ(略)
はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」


駆け込み訴へ(訴え)( 1940年 )―――太宰治 
(誰の台詞か分かるように人物名を入れました)


はじめに


「駆け込み訴へ」はイエスという名前は一度も出てこない。全編を要約すると、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴なのです」誰か分からない語り手から話は始まります。ペトロやヤコブへの悪口、文語訳の聖書の引用によって、読者は次第にこの語り手がユダではないか、あの人とはイエスではないかと思うようになります。そうして、有名な銀貨30枚を受け取るシーンとなる最後に語り手が「私の名は・・・・・・イスカリオテのユダ」だと名乗ることによって彼が愛して憎んだ「あの人」とはイエスだと確定する。
この作品は太宰の口述を妻が書き取ったものである。妻の証言によると太宰はこれを語る際、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言いなおしもなかったという。(推敲の末)妻はこのことについて、「畏れを感じた」そうだ。
それはまるで ユダに成りすましたと言えるのかもしれない。

聖書の脚色


 私は自分の出版作では、オスカーワイルドの「サロメ」を扱った。これも聖書、新約聖書の戯曲化、脚色であるが、オスカーワイルドは脚色しても良い場所を上手く選んだ。サロメとはマタイの福音書14章で、洗礼者ヨハネを監禁していたヘロデ王が、彼を殺そうと思っていたが世が支持していたため、ヘロデ王はヨハネを殺せなかった。ヘロデ王の誕生日に、ヘロディアの娘が皆の前で踊り、母親にそそのかされ、洗礼者ヨハネの首を盆に載せてくださいと言った。ヘロデはヨハネの首をはねるように指示をし、ヨハネの弟子達が遺体を引き取った後、イエスのところへと報告をした。このシーンをオスカーワイルドが、ヘロディアの娘を「サロメ」とし、洗礼者ヨハネを見つめる視線を恋のように準え、サロメに焦点を当てた。これは単に、「首が欲しくなるほど人に恋をした」と言わせるような話ではない。そんな感想は「思春期」で終わりにして欲しい。
 ヨハネの死の後のマタイの福音書15章、イエスはこれを聞くと、船に乗ってそこを去り、ひとり人里離れたところへと退かれた。私の作品ではこれをイエスの哀しみであり、サロメはイエスの哀しみを作ったのだと登場人物、川村光音の考えとして語らせた。 サロメの素晴らしさは、サロメをいくら語ったところで特に聖書解釈に大きな影響を与えないところだ。 それに加え、手に入れてはならない神秘に人が近づこうとするとどうなるのかというのを痛々しいほど語っている。サロメの影響でマタイの福音書14章から15章をまたぐ際に、私には文字と文字の隙間、虚空とも言える空白にヨハネの死が響いているように見えた。私はオスカーワイルドに脱帽した。オスカーワイルドは自身の癖や痕跡はサロメの台詞に残しつつ、自分自身の声を消すことに成功している。
 それと比べてみると、太宰のユダはサロメのような戯曲(演劇)ではなく「落語」のようなものなのかもしれない。落語は語り手は一人であり、登場人物への感情移入も6、7割程度で、話り手を重視する。そして大体の落語は有名な「饅頭怖い」のように、人間の内面を深く書くことはあまりない。落語の掟であるのなら、この作中のユダの心の内はいくら語れども深みなんか無いという結論になる。後戻りが出来ないような罪を犯した場合、世の声とはそうなるので、調子者、落語調にしたことは秀逸だと思う。
例えばこんな語りがある「ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集まり、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたのなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ」 これを朗読するとするのなら、落語のように少し軽快な喋り方が良い。演劇のように全身で捻くれたユダになりきってしまうと誇張しすぎてしまう。落語まで笑いを取るところまでいかなくても軽快さ、少々そのような調子が必要だと思う。
 確かに、ユダはイエスに期待していたが、イエスはユダが思ったような行動をしなかったのでユダは失望した。そういった心情は聖書からも読み取れるが、太宰のように「馬鹿な奴らだ」と、ここまで語られると、ユダの真の内面を言い当てたと言い難い。やはりこれは「太宰」(語り手)の声なのである。この調子者のような語りが余計に人間の不安定さ、哀れさが表れる。 この「駆け込み訴へ」のユダは太宰治の声であるからこそ、人間各々の不安定さが反映される。そうなると、実はユダらしくなるのでは? と、妙な言い方になってしまうが、今の自分には納得出来るものがある。

太宰とキリスト教



 太宰治も麻薬中毒者でフラつきながら、当時はまだ希少だった「聖書知識」のバックナンバーを借りたいと悲鳴のようなハガキを送ったりしていた。(桜桃とキリスト・長谷部出雄から参照)彼は他の宗教よりもキリスト教のほうに入れ込んでいるところがあった。洗礼は受けていないが、自分は父である主から見られていて、自分の罪は記録されているという意識があった。若い頃からカルモチン(睡眠薬)で自殺を試みる彼は、求めていたのは救済というより、戒律と己を比較して己の心の汚穢(おえ)を見つめていた。
オスカーワイルド「サロメ」との類似点は、人間の不安定な感情によってイエスの光が浮き出るということ、若しくは逆にイエスの光によって闇が濃くなるということだ。太宰のこの話は、ユダが口語体となって、卑しく書かれていることによって、イエスの文語の言葉が輝いて見えるようになっている。
ユダが「あの人」とイエスへとおくる視線は、ユダの心の内が混沌とすればするほどイエスが穏やかに見える。太宰は引用する聖書、マタイの福音書23章を敢えて古い文語訳にし、「禍害(わざわい)なるかな 偽善なる学者、パリサイ人よ」 と、文語ならではの淀みの無いリズミカルな魅力を引き出している。
 作品だけではなく、私生活と並べられて見られることは小説家として名誉なことか不名誉なことか、失礼になってしまいそうだが、この作品はまだ太宰治と妻との共同作業だったことで私は注目した。後に愛人となる太田静子や山崎富栄と出会う前の作品であり、そういった嵐の前の静けさのような作品だったということが私の中では魅力だと思う。夫婦愛に価値を重んじて言っているのではなく、何故、彼がユダを選び取ったのか、彼自身が自分の先を察知しているような魂の予感のように思える。妻はどの程度、夫のことを分かっていたのかは分からないが、それぞれの不安定な魂が人間郡となっている最中、この作品の影響で彼等の人生は文語訳の聖書が一本筋となって流れているように思えた。 

深みが無い哀しみ


  女から見た太宰と、男性から見た太宰、そして太宰と共に情死した富栄の父親から見た太宰、それぞれの証言が残ってしまっているからこそ、彼の発言の中に筋がなく、まるで実体がないように思われる。愛人、静子の子どもに太宰は、本名「津島 修治」の冶(はる)の名前を与えた。その命名と文(フミ)には誠意と謝罪が込められている。山崎富栄はそれに腹を立て収拾がつかなくなってしまったものだから、太宰は、「静子は所詮は「斜陽」(作品名)だけの女で、本当に愛しているのはお前でお前には「修」の名前を残す」と言った。修とは偶然にも、富栄の死んだ夫の「修一」と名前が重なっていた。
二人で死んだ後に、太宰は妻宛てには妻を一番愛していたと遺書を残してある。残された富栄の父親は、太宰とはどんな男だったのかと彼の書いた本を見たら、自殺、心中、薬、女、それだけの話しか書かない男に見え、愕然とした。太宰とはどんな男だったのか、証言が多ければ多いほど実体が分からなくなっている。
ユダは聖書では最後に後悔しお金を返しに行くが受け取ってもらえず自殺を図る。ユダが受け取った銀30枚とは奴隷を買う賃金と一緒だった。
「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、 いただきましょう」
・・・・・・ 「いいえ、ごめんなさい。 いただきましょう」
 
太宰の中のユダはこんな人だった。
 イエスを愛していたユダ、愛するが故に、独占したいが故に、どうせ彼が死ぬ運命なのなら自分がやってしまいたい思う。些細なことでいいのに、あの人は認めてくれない。だったら、売ってしまえ。いいや、私は商人だ。愛? そんな事考えちゃいない。ただ金が欲しかった。
いえ、愛していました。お金を返します、うけっとってもらえませんか、 じゃぁ死にます。 あの人を愛していたのに売ってしまった。 
やっぱり違います、ただ悪いことをしたということが居心地が悪くて死ぬのです。
もしも、太宰のユダが最後まで語るとしたらこんな感じじゃないだろうかと思う。きっとこのユダは愛という着地点につくことが出来ない。ユダの流れ着きたかった場所は何処だったのか、心理学では定立と反定立は共存すると認めていている。人間とは思考があり、神のように「主体」ただ一つではいられない。人間とは自分という主体と他人という客体によって関わりを持つ。主体一つの神と比べると、人間とは不安定な生き物である。
死ぬ気で恋愛しないか・・・・・・「人間失格」「グッド・バイ」

「子は親よりも大事、と思いたい。

子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、
何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ」(桜桃より)

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、

生きていさえすればいいのよ」(ヴィヨンの妻)







 太宰治とは学校でも「走れメロス」以外はあまり薦めない作家だった。それでも日本人としては知ってないと駄目だという暗黙の了解があった。昔は夏になれば「太宰治フェアー」があって、塾の講師が「夏になると、受験生は太宰の人間失格を読んだりする」 なんて冗談を言う。「太宰は自分勝手な人だった」と言う人もいるし、 「太宰は自己愛だけだ」という人もいるし「古事記では自殺した神もいるよ」「賢い人は考え過ぎるから自殺するのよ」と言う人もいた。 過去にまともだなと思った意見は「当時の薬って質が悪いから。薬のせいかもよ」 というものだった。でも、大人になると日本という国だけに限らず、人の生死の価値観は然程そこまで変わっていないように思える。自殺が多い国、少ない国という統計だけを見ても、少ない国が思想が立派で優れているということでもない。
戦前、戦後の時代、作家・芥川龍之介、太宰治、の自殺や情死は若い男女のインテリ層に刺激を与えたようだ。太宰と一緒に死んだ富栄の遺族は彼女の名誉回復のために彼女の日記を公開したが、批判が殺到した。皆、生きるのに必死だった時代に浪漫に翻弄されて好き勝手死んだようにしか思われなかった。それとは反対に太宰と富栄は浪漫の憧れともなった。先月まで当時、本当に自殺をしてしまった17歳の若い男性の日記を関係者から借りていた。彼もまた太宰・富栄のことを気にしている日があったようだ。内容は事情があって触れない。
インクの滲みで潰れてしまって読めない字もある中、日記だけでは実際の行動へと移る因果関係は分からないままだった。文学がそれを誘発したとは言い切れないし、彼等が弱音を正直に語ることによって返って生を見出す人もいる。他人の話を自分のことのように受け取ってしまうことが強い人は 晩年の作品は読まないのかもしれない。
 太宰はダンテの神曲やヴィクトル・ユゴーのノートル・ダム・ド・パリよりも説明することに気を使う。太宰の作品は中高生が読めるレベルの話しが多いが、それはあくまでも読みやすさであって、語るとなると難しい。自分にとっては一番難しい作家なのかもしれない。太宰の場合は作品と私生活を完全に切り離してみても結局のところ、死の欲求については避けては通れない。太宰は病気だったので仕方がなかったとも言えるけれども、やはり自ら生を放棄するようなことを選択するということについて、語るというのは難しい。(というのは、SNS・ブログの限界で、書くとするのなら書籍に粗筋で予め知らせておいて読者に了解を取ってもらったほうが良いという意味である)それでも、私は最後はこの「駆け込み訴へ」で引用されたマタイの福音書の23章を拾おうと思う。
マタイの福音書。23章25節、

禍害なるかな、僞善なる 學者、パリサイ人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど 内は貪慾と放縱 とにて滿つるなり。


イエスは律法だけを守り、中身が形骸化しているファリサイ派の 人々にと外だけ綺麗にして、内は汚れていると警告しているが、 太宰は引用しなかったが重要な続きがある。
26節、 盲目なるパリサイ人よ 汝まづ酒杯の内を潔めよ、 さらば 外も清くなるべし。


私から言えることは、もしも「物語」の中だとか「小説」世界で、生死の価値観が混沌として辛くなったのなら、この杯の内側も綺麗にせよというのを参考にして欲しい。
 信者なら意味が分かると思うことだし、そうでないのならとりあえず、調べてくれると嬉しいが、言葉から感じ取る自身の共感覚を大事にしてほしい。
人間を表す表現は、一方方向の表現では成し得ない。聖書の中の人間が見た神秘についても同様である。神学や哲学だけがあっても足りない。小説、音楽、落語、様々な表現が必要なのである。イエスの意味を知っている作家は必ず分かっているはずなのだ。どんなに自分の筆が冴えても、イエスの言葉には敵わないということ、作家は神の御言葉が「借りものの言葉」とならないように、それが自分の内面が動いて、自分の個性として、他者にも通じる言語となることを待っている。
常にそのために感性は息づいていて、自分の言葉に息吹が吹かれる瞬間を待っている。
抽象的なものまで整然と言語化し、他人に伝わる言語となるのは容易ではない。
このユダが「あの人」と視線を向けるだけで、光は揺るがなかった。 彼等の心の中にイエスはいたということだ。推敲の末に口述で語れたというのはそういうことだと思う。運命はどうであっても、イエスはどんな人の中にもいる。それを信じるのもまた信仰である。
太宰は、ユダの悪が強ければ強いほどイエスの優しさの光が増すと言っていたようだが、私は少しこれとは違う。 人間が陥る運命に対して、誰かの理解や愛があることによってイエスの優しさが増すのだと思う。人間は主体だけでは生きられないが故、理解が必要なのだ。丁度、本を通して読者が太宰やこの本を好きになるように。深みとは、己のみの深みは孤独になることがある。他人の理解はどんな孤独への深さにでも、慈しみを与える。
「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」


この言葉だって理解無しでは光だと気づかない。ユダは彼をイエスとは一度も言わなかったのだから。私は、そうだと確信があり愛はうごめいたが、もうこれ以上は語れない。
Н. Ге. Совесть. Иуда. 1891(ユダの良心)
 
酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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Anne with an E

「我が人生は夢の墓場」
「感動には大げさな言葉が合う」


不幸を感じないことが

幸せとは限らない。


祈りの言葉を覚える前のアンの想像癖を見てるとそう思う。

次第に彼女が持っている想像力が 本当の意味で生きていくところが良い。


赤毛のアン、アン・シャーリーは 生まれたすぐに孤児になり、小間使いとして転々とし、ずっと不運だった。自分は不運だということを感じなくなる程、彼女の心は想像の世界や、心のお喋りでいっぱいになる。そんなアンがマリラとマシュー兄弟に養ってもらうようになってから、人生を切り開いていく。



「我が人生は夢の墓場」
これは原作の赤毛のアンの

“My life is a perfect graveyard of buried hope”
That’s a sentence I read in a book once,
And I say it over comfort myself whenever 
I’m disappointed in anything.

我が人生は夢の墓場、一度だけ本で読んだことがあるの。 絶望したとき、この言葉を慰めにしているの。

と言うと、育ての親になるマリラは何でそんな言葉が慰めになるのか
分からないと答える。






マリラのお祈りをしなさいと言うことやアニメでもあったマシューの最期の、「でもわしは、1ダースの男の子よりも、アンの方がいいよ。(略)アンは自慢の娘だよ」という台詞が好きだ。マリラとマシューは結婚せず姉弟で過ごしていたので、子どもがいなかった。お手伝い役として男の子を欲しがったが、アンを引き取り、子を育てる充実感を手に入れた。最近、私は死に役ばかりだったせいか、アンが受ける恵みは 生を受ける喜びを感じるなと改めて思った。


お喋りで想像力豊かだったアンは、お祈りの時間は自分の心のお喋りをやめてするようになった。 そのお祈りする自分の部屋で、やがて出来た親友のダイアナと蝋燭の合図を窓辺で送り合う。


ある スペインの修道士の本によると、イエスが来る前は、友情の言及というものは男性同士ならあったけれども女性同士では如何わしいものとされていたらしい。友情というのは一定の平等性が必要とされていて不可能だと思われていたからだ。そこでイエスがやってきて『あなたたちは皆わたしの友人である』と言い、新たな道を開いた」とあった。そう考えると何気無い、アンとダイアナの女同士の友情もイエスあってのこその道のりなのかもしれない。
とにかく アンは可愛らしい。あの駅で、迎えを待つ姿とか何かが始まる予感がよく書けていて、私の心は時めいた。
劇場版とNetflix版でも赤毛のアン
「アンという名の少女」
がやってて、とりあえずNetflix版を見ることにした。
何だろう、競合作品なのかしら?


シーズン1は 牧師夫婦が来なくて
保守的であまり好感が持てない
牧師しか出てこない。赤毛のアンは牧師夫人が出てくる
あたりから確か面白かった記憶がある。

シーズン2があるならシーズン2に期待。 

果たして出てくるかな?

OPは 元からファンだった
brad kunkleのデザインで
ご機嫌だったけど、

こっちは虐めとか、色々脚色入ってて
原作より胸が痛いかもしれない。
人間のコミュニティでいえば必ずある
ような出来事で真新しさは無いけど、
ドラマ版では、

マシューは銃で自殺しようとするし、
(何処かで見たことがある
圧迫感だな、今の流行りかな、
ブレイキングバッドみたい
だな)と思ったら、本当にブレイキングバッド
の脚本家だった。



*画像の著作権は映像元にあります。

Ranpo Edogawa(3) the Caterpillar

 


「今いきますよ。おなかがすいたでしょう」

「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、何ですのよ。これ?」  

「また妬いているのね。そうじゃない。そうじゃない」


江戸川乱歩・芋虫(1929年発表)―――時子

Ⅰ(感想)
  時子の夫「須永中尉」は、陸軍の誇りだと称えられ、軍神のような存在だったが、戦争によって四肢を失ってしまう。夫は顔は傷だらけで、聴力、声帯も失い上手く話せないが、内臓は鈍いながらも動き、男性としても機能する。姿形は「芋虫」と言えるが、芋虫とは幼虫の段階のことであり、性別の判断はほぼ不可能である。話せもしない、男らしさのカケラも感じない、そんな夫への妻の心は、夫でもなく、男性というものでもなく、自分の快楽と鬱憤晴らしや、気持ち悪い存在でしかなくなってしまう。
この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判した。


 この話はまるで一筆書きのように流麗で、伏線という計算を感じさせない。これは単なる奇談だったが現代ではこういった事をQOLの低下と位置づけるのかもしれない。但し、この場合は夫ではなく、妻のメンタルケアに重点が置かれることになると私は思う。妻は情欲の果てに夫の眼を潰してしまうが、この残酷のように思える妻の行動も現代となれば、介護疲れとして妻の立場に立ったケアを重視されるのかもしれない。文学と医療倫理の相性は良いと聞く。 一見、無秩序であるような残酷さは、小説の形態となると共にある種の法則のように整えられる。このように意味のある残酷は人々に何か課題のように見せることがあるのだろう。
 この話は四肢のない状態の人間に対して差別的に思われるような話だが、第三者視点が妻の内観に焦点を当てることによって、身体に問題の無い人間の心に問題があるようにし、アンビバレンスを保っている。

 物語序盤、時子は「茄子の鴫焼き」を一番嫌いだとあった。鴫焼きとは精進料理であり、一説によると肉が食べられない僧侶が歯ごたえや味を鴫に似せるために作られたらしい。この紹介の始まり、今から情欲について展開される予兆として、時子がこの茄子をぐにゃりと噛む食感は色んなことを暗示させるだろう。苦手なものを口にするときというのは舌から全身へと嫌悪感が走る。感触、触感から得られる快楽に拘った乱歩ならではな所も見られる。

 第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。

Ⅱ(物語の説明) 
四肢を失った夫は、意思を表すのに這いずり回るか自分の頭を床にぶつけるしかなかった。何度も何度もぶつけて不満を表し、その度に妻は丁寧に対応する。

「今、行きますよ。おなかがすいたでしょう」
「待ち遠しかったでしょう。すまなかったわね」
「今、ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」

妻は夫に紙と鉛筆を渡すと夫は口に加えて不満を書いて言葉にした。
「オレガ イヤニナッタノカ」(俺が嫌になったのか?) 



妻は頭を床にぶつけてまで自分を求め、姿同様の歪んだ字を書く夫に、
「また妬いているのね」と、あやす。それから自分の接吻一つで安堵をし、一挙一動するものだから、妻にとって それがまた興奮の種となり情欲が湧いてしまう。
妻にとってこの「生態」は興奮する玩具だった。

「あの廃人を三年の年月少しだって厭な顔を見せるではなく、
自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話している。
女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、
出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。今の世の美談だと思っています」


「どうか気を変えないで面倒見てあげてくださいよ」
 外の人間は、この妻は欲を捨てて夫に尽くしていると思っていて、今の世の美談として、この夫婦に理想すら抱いている。この場合の「欲」を捨ててというのは、世間がこの夫が妻を女として満足させられないと思い込んでいたのだろう。その上に貞淑、献身的に夫の世話をしていることを望んでいる。しかし、実際は少し違っていた。夫は男性として機能が残っていたし、妻は夫をのことを、肥えた黄色い芋虫であり、奇形な肉独楽のように見ていた。
外に行けば時子は 貞淑な妻として、外の空気に合わせる。それは外面だけだとか、悪意や自分から逃げているだけだとは言い難いだろう。
自分を取り巻く世界というのは、馴染みがある世界だ。特に遠出でもしない限りそうだろう。時子を取り巻く人は 時子に対して何らかしらのイメージを持って既に存在している。「知られている」というのは特にそうだろう。
   それをわざわざ崩してまで時子が何を明かさなければならなかったと言うのだろうか?
人は中々、この馴染みがある世界、自分の印象を崩すことは出来ない。それに情欲というものはずっと続くものではない。外に行けば彼女も自然に外に合わせる。
嘘をつくわけでもなく、玄関から外へと出れば時子は貞節な妻として、婉然と微笑んだのだろう。そして家に戻れば、夫の姿の醜さや、その醜さに欲情することを、妻は自分の心が純愛でないことや、秩序立てられない自分の感情に嫌気を差し、自分の情欲、快感と共に恐れも持ち始める。
  客観的に見れば、どんな姿になっても夫に尽くすという誉められるべき姿もあるが、自分の内面、夫が哀れで醜いから欲情するというものが時子に せめぎあう。
  夫も以前は自分の活躍していた頃の新聞記事や勲章を見ていたが、飽きてしまう。夫と行為にあけくれること、この感覚が動物の檻の中の出来事のようで、虚無感があった。そんな中で、自分が貞節の美名に隠れて、恐ろしい女だと見透かされるのではないかと、馴染みがある世界から、指を突き刺されて責められているのではないかと強迫観念に駆られる。実のところ、追い詰めるのは自分を責める時子自身、ただ一人だったが、その解消が色欲と怒りでしかなくなってしまった。それなのに、夫は嘗てのような凛々しさがなく、自分の言いなりだ。けれども言いなりのようで、動けない彼は自分が少し居ないぐらいで呼んでは、結局のところ自分を束縛する。時子の膨らむ感情、時子が夫へと跨るときに内観の描写はここで一旦、静止する。人間は愛おしいという以外の感情が爆発するというのはどんな感情かは表せられないのだろう。
言葉にならない感情、
内観からもフェードアウトした
ような感情、
弱々しい彼への支配力や感情が収拾つかなくなり、時子は夫の眼に手をかけ自分を見つめる夫の眼を潰してしまう。
「ユルシテ」


 目を潰された夫の胸に妻・時子は「ユルシテ」(Forgive me)と何度か身体に書いたが夫は返事をする素振りは見せなかった。妻は段々と夫の置かれている状況の哀れさと、自分の罪への意識に耐えかねられなくなり夫から思わず離れてしまう。そして、戻ってみると夫は居なくなっていて枕元の柱に子どもの悪戯書きのように読みにくい文字を残してあるのを見つける。
妻はそれを「ユルス」と記してあると気づいたが、時既に遅し・・・・・・。夫は身体を這いずり、もたげていた鎌首をガクンと落とし、井戸の中へと落ちて死んでいった。
鎌首をもたげるとは、蛇が首を持ち上げた姿が鎌に似ていることから、戦闘体制に入るときに使う比喩表現である。夫の最期は、軍人としての
死なのか、死に向かうことへの意志の表れなのか、謎は残るが、妻は夫から許されたと確信と共に夫の面影の幻想を思い描いた。
Ⅰ(思索と所感) 

○「ユルシテ」 と改心について。
 時子は夫の眼を潰してしまった後に、夫の胸に「ユルシテ」と指で何度も書いた。 このときの「ユルシテ」について人々はどう捉えるのだろう。乱歩は、これまで妻の内観と共に闇へ闇へ、快楽、恐怖と大抵の読者がそう捉えるように描写を続けていたが、妻がユルシを乞うところから妻の本質の方向性を拡散させている。読者によっては妻が改心をして「ユルシテ」と言っているようにも見えるし、改心なんてしてなくて自分が許されたいがために「ユルシテ」と言っているだけのようにも見せている。
「彼は物を見ることが出来ない。音が聞くことが出来ない。一言も口が利けない。
----------果てしなき暗闇である-----------どんな薄明かりでも構わぬ、物の姿を見たいであろう。
どんな幽かな音でも構わぬ、物の響きを聞き度い(聞きたい)であろう」

 確かに夫の立場に立ったような感情も湧いているが、それと同時に時子は泣き出し、世の常の姿を備えた人間が見たくなり、哀れな夫を置き去りにする。一人に耐え兼ねて逃げ出すその姿を卑怯だと思う人もいるだろう。読者という「審判」が時子をどのような女と見るかによって後半の感じ取り方は変わってしまう。
 日本語の「ユルス」とは、基本は人同士の「許す」と神との間の「赦し」と分かれている。この場合、「許す」というのが適切である。けれども、目も見えない、四肢も無い、
そんな夫に残されているのは、他者には感じているかどうか分からない触感だけである。
日本人なら子どもの頃に、友人同士で背中に文字を指で書いて何て書いてあったのか当てるゲームを一度はしたことがあるだろう。受け取り側は、文字が鏡像状態となって単純な平仮名やカタカナでないと分かりにくい。
 時子は夫の胸に幾度となく「ユルシテ」と書いた。 彼女のユルシテは、人間同士でも、神への赦しも俗さないというのが正解だと思う。(英訳ではforgive you となってるがここは綺麗な翻訳だと思う)偶然から生まれたようなものだが、これはカタカナであるべきなのだ。それから夫は子どもの悪戯書きのような文字を鉛筆で書いて、時子はそれを「ユルス」と見えるが、冷静なことを言ってしまうと実際のところ分からないというのが結論なのかもしれない。実際は夫は何て書いたのか分からない。私はそう思う。 
  妻が書き込まれた文字をカタカナの「ユルス」と見えたとき、すぐに時子にとって「許す」と漢字に変換される。これは妻の中に在った夫の声だと思って良いだろう。まるで声が近くなったようだからだ。長らくずっと聞けなかった夫の声を彼女は漸く思い返したのかもしれない。それが今の現実の夫の声とどれぐらいかけ離れているのか、重なっているのか分からないまま、夫は死んでしまう。
もたげていた鎌首、upraised headについて
英訳版では、ユルシテはForgive meとなっていた。そして、夫からのメッセージは
I forgive you!” と言ってるように見えたとあるが、これは在り得ないのかもしれない。何故なら、夫は四肢がなく口で挟んでしか鉛筆で文字が書けない上に、目も見えなくなっている。「ユルス」という三文字以上のものが書けるということは少しリアリティに欠けてしまう。せめて単語一つ、forgiveのみが良かったのではないかと思う。
英訳版では、この文字を見た後に、時子は涙で頬を伝って、眩暈を感じたとあるが、私が持っている日本語の原作ではこのような事は無い。
 
 Tears immediately welled in Tokiko's eyes, and she began to feel dizzy. 


恐らく、後半の夫のユルシを見越して、翻訳しにくかった箇所をそのように書いたのだろう。本当にここで夫が許し、妻が肉体的苦痛と共に改心したとするのなら刹那であるが確かな夫婦愛すら感じる。それも一つの捉え方として間違っていない。先ほども言ったように、夫の眼が潰れた後からは乱歩自身が色んな捉え方でもなるように妻の本質を拡散させているからだ。ただ、時子に涙を浮かばせてしまったら一つの答えが決まってしまう。それは一つの美徳に偏ってしまって少し残念なことだ。
 男女の間に起こる刺激は常に秩序によって整っているわけでは無い。何処までが愛情だといえて、何処からが単なる刺激なのか簡単に説明出来るものではない。
男女の間では、演繹的に「愛」だと確信出来ることもあれば、帰納的に「男女だから」としか言えないときがある。(もっと感覚的なものだが敢えて言うとするのなら) どんな男女でもこの両方を兼ねているだろう。乱歩自身は
「夢を語る私の性格は現実世界からどのような扱いを受けても一向に痛痒を感じないのである」
(政治的意味について・wikipediaより)


と言ったようだが『芋虫」は実のところ人間離れした、夢の話とも言えないだろう。理想の倫理から離れているだけであり、人間の作り上げることが可能な感情世界である。
夫婦の愛には望まれるものに「持続」というものがある。愛は持続を求めるが、時の流れや、状況の変化や、パートナーの変化や自分の変化、様々な要因が二人の間を蝕んでいく。この二人は無自覚にも、意図的にも「持続」の最中だった。
どんな馴れ初めで出会ったのか、元々恋愛関係であったのかどうかも知らない。夫婦の異常にも見える営みも、本来なら正当な「持続」である。他人にとって模範的でなくても、本人達にしか分からない「持続」があれば充分なのかもしれない。 特に、家庭というものは社会一般的や、他人の理想である必要は無いだろう。
 それでも人は何処かで植物の成長かのように筋の通った成長や秩序や法則を求めてしまう。そうじゃないと不安になり、恐れを持つようになる。少なくともそういう人間もいて、「時子」もその一人だった。肉体的な盲目と精神的な盲目、肉体的な盲目は夫だけだったが、精神的な盲目は二人とも抱えていた。時子はその恐れと共に闇へ闇へと落ちていった。夫は最後は「ユルス」と書き残して死んだようだが、最期の、鎌首をもたげたというものが引っかかる。先ほども言ったように、鎌首をもたげた(もたげていた鎌首)というのは戦闘体制への比喩表現である。軍人らしい死に方とは言えるが、確かなことは分からない。 捉える人から見れば「妻へ」かもしれない。
英訳版ではupraised headのみで、
「蛇のように」という一言が無かったことが残念だった。 これだと、彼には首と胴体だけしかないのだから、古井戸に吊るされただけのようにも見える。これは夫の世への怒りの象徴でもあったと思うからだ。私はそう思う。
ただ、事実はどうであれ、妻は「許された」と思っている。この全ての解答は妻のものになった。 この話は一見、世間が美談だと思っているような話の裏事情のようにも見せているが、推理小説を書いていた乱歩は錯視の天才だったようにそれが生きている。
許し、許された、夫婦愛、


このキーワードがこの二人の間に本当にあったのかを期待する人もいれば、無かったということに期待する人もいるだろう。人は愛にも虚無にも夢を抱くことがある。
二人の情念は「愛」「恵み」とは蚊帳の外のようなものだった。妻の五感は良くも悪くも、彼への執着へと感情が埋まっていく。希求は何度もしたのかもしれない。それでも妻は夫と闇の中にいることを選んでいた。それは快楽が故だったが、女としての喜びもまた妻としての喜びでもあっただろう。喜びと嫌悪感を繰り返し、皮肉なようだが、これも一途だったといえるのかもしれない。
「一途?」
乱歩は私のことも錯視へと陥らせる。わたくしの語りの着地点を何度も悩ませた。
「芋虫」という奇談、夫の許し、軍人としての死、それらを香らせ
最後まで「美談」という一本筋を通したような話だった。
今の世の美談だと思っています「どうか気を変えないで」

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Ranpo Edogawa (2)

 何故 、ハサミかというと

時子の夫は 戦争によって四肢を失い、まるで
芋虫のようになってしまったが、
以前は軍神とも言える活躍ぶりだった。
それで、そのときの活躍の新聞の記事を切り抜く
時に使ったものとして、ハサミをイメージしました。
カッターナイフは日本では1950年代に
登場しているので、芋虫は時代設定的に
それよりも前なのでハサミかもしくは別の切れるものと
なるのかなと思い、私は ハサミにした。

知人はこのデザインを見て、 十字架に見立てたかと思ったと言ったので 中々察しが良いなと思った。 真相は教えませんが。

時子の夫は四肢を失った後、 自分の活躍していた頃の新聞や勲章を眺めていたが、
そのうち飽きてくる。この飽きて夫と妻は情欲だけの時間を過ごしていくのが それも次第に気怠くなっていき、2人はどんどん身体が重たくなっていく・・・・・・

では詳細と 続きはまた今度。

Ranpo Edogawa (1)

江戸川乱歩の芋虫をイメージして作ってみました。
三回ぐらい分けて更新します。

「お前さんの貞節は、あの廃人を三年の年月少しだって
厭(嫌)な顔を見せるではなく、自分の慾をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。————————
————–今の世の美談だと思っています。

だが、まだまだ先の長い話じゃ。
どうか気を変えないで面倒を見て上げて下さいよ」

江戸川乱歩 「芋虫」より。


————————————。
何も復活祭前後で「芋虫」の朗読の練習しなくてもという感じでしたけど、今年は違った春を過ごせて、色んな事を知れた気分です。次は「芋虫」について書きたいと思います。

****

今回は江戸川乱歩先生を想って作った(笑)デザイン画から先に。何パターンか色々作ったのですけど、とりあえず今回は4枚まで。

江戸川乱歩・谷崎潤一郎は日本語のほうが綺麗なのですよね。
英訳だと状況を説明しているだけに過ぎない表現になってしまってるところがある気がしますが、それは彼等が望んだ日本の美のような気がするのですけどね。
綺麗な分、日本語でデザイン画にするとグロテスク感、強迫観念が増すので、それがかえって耽美というものから離れてしまう気がしたので、(私の場合は)イメージ画像に使う文字は英語にしました。人によっては物足りないと思うかもしれませんが・・・・・・。
使ってる引用箇所は本題に入れば分かるかと思います。

私はRanpo Edogawa にしましたが、
Rampo Edogawaというのもありますね。

Eve

・There certainly must be some who pray constantly for those who never pray at all.

・Certain thoughts are prayers. There are moments when, whatever the attitude of the body may be, the soul is on its knees.

復活祭前夜

Victor HugoのLes Misérablesの引用で申し訳ないですけれども、(メモが残ってて) これ以上の感想がありません。身体がどうであっても、私が何をしてきたのか それが何であろうと、魂が跪くような時間でした。

今の苦しみは最後では無い、私の知らない、見えないところでの痛みや悲しみも 癒されますように。復活祭おめでとうございます。

今日は 前夜祭(復活祭の)でした。

土曜日は、夜になるとバスの最終が過ぎるだけじゃなくてタクシーも出払ってしまうから 途中で帰りましたけど。

*ユゴーは無神論者ですが時々カトリック書籍でも引用されてます。

The Mirror

「鏡でも見るみたいに他人の生活を見てみるがよい」(テレンティウス・兄弟より)
難しい物語ほど、私に反芻されるデメアスの台詞。

  硝子が水に溶けて色が変色するように、タルコフスキーの「鏡」の記憶の世界は、彼の得意とする水の描写と共に変色しているようだ。鏡は溶けにくいように特殊な加工はされているが、湿気の多い場所や長らく水につけていると色がヤケ始める。廃墟のような部屋、脆い木材、天井が崩れていくこと、これらの映像は美しく磨かれた硝子とはかけ離れていくが、時間の流れにとって物質の衰えは自然なことであって、水によって老朽化を進まさせているとすれば、それはレーテー(忘却の河)を表しているようで、ミュトスとしても美しい。

 物語のオープニングは上手く話せない(吃音症)の少年が女医に合わせて言葉を繰り返すところから始まる。それからタイトル画面が出てきて、物語が始まる。

 主人公アレクセイは母の若い頃の夢を見たと語り始め、映像のように写り込む記憶を見てしまうが、観客も同時に、鏡でも見るみたいに他人の生活を見ることになる。但し、鏡の役割として、鏡を見るということは「私」であるということに留意してもらいたい。己を覗くように、観察するように、無自覚に、『身なりを整えるように』、他人の人生の流れを見ることになる。 

4月4日はアンドレイ・タルコフスキーの誕生日だった。毎年、春になると彼の話をしようと思うのだけれども、語る自信が無かった。実際に「鏡」とは*タルコフスキーの映画の中でも感想や批評が難しい映画だとも言われている。粗筋としては、主人公アレクセイは少年時代に過ごした別荘を思い出しながらモスクワで生活をする。

アレクセイの結婚した女性は何処か母親に似ている。(役者自体同一人物)それと同時に母に苦労をかけていたのではないかと、その思いが詩情となって映し出される。

 モノクロの映像が母親の映像で、カラーが現在と、交互に繰り返される構成で成り立っている。タルコフスキーのこの映画を撮影しているのは (Georgi Rerberg)で、朽ちて行く物質世界に相反して、モノクロ時代からカラー時代へと移ろいながらも変わらず栄えている草花や、貧しさながらにも香り立つ女性美を鮮明に映し出し、素晴らしいカットを数え切れないほど生み出している。

 この映画はアレクセイの母の紹介のようなものだ。しかし母への道案内は、観客に分かりやすく説明しようとしない『私』という信用出来ない語り手である。人の意識の流れ(stream of consciousness)のように、心の深いところを自由な連想と予測不可能な表現であるかと思えば、自己という鏡像を通して母、そして神の赦しの自覚など、心の深い部分を翻訳したかのように、秩序立てて語ろうとする。時々、タルコフスキー自身の声も挿入されているが、この映像は、narrated monologue(物語られた独白)ではなく、やはりnaratted poetry(物語られた詩)なのだと思う。

   先ほど『身なりを整えるように』と書いたけれども、心理の上でも人は他人を見て、他人と比較して自分を知るともある。実際に取材をしている上でも他人を観察しているようで、最終的には自分の隠れていた潜在意識が浮上してくる。

 良い映画を見た後や本を読んだ後は、音に敏感になったり自分を発見したりする。特にタルコフスキーを見た後は、子どもの頃に住んでいた家の軋む床の音が恋しくなったり、注がれる水の音、コーヒーの泡立ち、硝子の変色、草木の揺れ、鳥の鳴き声の強弱によって、鳥が自分の近くに来たかと思ったら遠くへ離れたことが分かる。硝子は薄っすらと自分の姿を映すけれども、硝子を通して外の景色を見ることが出来る。硝子を加工すると鏡となり、鏡になった途端、私を含めて全景色が全反転する。それを細かく切断されたものが私の手鏡(所有)となる。

自分と外の世界の繋がりへの共鳴と、他者の経験の追体験によって地味なことまでもが全て価値があるように思えてくる。だから時々、彼の映画を見ることにしている。

*stream of consciousness (思考の流れ)とは、心理学者 W・ジェームズの造語。西田幾多郎に示唆し、フッサールにも影響を与えた人。

タルコフスキーの映画の中でも感想や批評が難しい映画だとも言われている。→人から聞いた話なので確かなことは知りません。

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Domine, quamdiu aspicies

In ipso [Deo] enim vivimus et movemur et sumus:
――我らは神の中に生き、動き、また在る。――
Acts 17:28(使徒言行録17:28)

****

 バルザックのセラフィタで引用されていた箇所で、
意図的だったのか誤りなのか定かではないのですが、バルザックはこの箇所をラテン語で順番を逆にしていたようです。

In Deo sumus movemur vivimus.
(我らは神の中に在り、動き、また生きる)
何か一つ、これについて詩のような簡潔な台詞を添えようと思ったのだけれども、これだけでも完成されたような美しさがあるので、受け入れるばかりで何も閃きませんでした。
もう少し何か経験を積んだら私の言葉として動くのかしら。

Hamlet

by thy intents wicked or charitable.
thou com’st in such a questionable shape that I will speak to thee:

I’ll call thee Hamlet, King,father,royal Dance. O O answer me.



Hamlet-act1 Scene4 

画像元→http://hamlet.barbican.org.uk/


*特にハムレットについて解説や感想はありません。



ハムレットと言えば
“To be, or not to be: that is the question”の台詞が有名ですが、
「汝よ、人の形として表れたのなら、私の問いに答えてくれよう」のほうが私は印象に残った。
理由はバルザックのセラフィタで、例え話として人の形をした天使を見た登場人物が、
見たものを説明している姿について、「まるでハムレットのように亡霊を見たようだ」「ハムレットのように混乱している」と第三の語り手が語るシーンがあったのですが、セラフィタ・セラフィトスという存在を恐らくこの『人の形として表れたのなら』と重ねたのだろうと思った。
英語のshapeは亡霊とか幻影が現れたときに使ったりもする。イメージとして
空気のようなものから寄せ集めて形になったときに使うような気がする。
脚本にすることを考えなかったら大して気に止めていなかった
箇所だったのですが、こんなにも面白いとは。具体的にどう面白かったかは
語るのはまたの機会になるけれども、

シェークスピアは占星術等を扱ったヘルメス主義者(Hermeticism)だったと誰から聞いたか、その話は置いておいたとして、
軍神マルスの例えを熱弁するハムレットの姿を見て確信がついたことは
この物語の動きは太陽星座の「牡羊座」のようだ。まず、牡羊座は軍神マルスを
表す火星を守護に持つ。リーダーの素質があるが、人がついてくるかどうかは無頓着。
亡き父の亡霊を見て「問い」の思考の暴走に走った、ハムレットそのもののように見える。
極めつけが、「オフィーリア」の存在。John Everett Millaisの絵画で有名なオフィーリアの狂死について、牡羊座が好調だと相性が悪い星がある。

それが「金星」(ヴィーナスや愛の星)や土星(時間厳守)である。ハムレットの勢いが増せば増すほど愛は育たず死んでしまうこと、ハムレットは恋人の死を知らずに、
生死の時の流れを混濁させたかのように墓から掘り起こした髑髏を見つめる。
**
 舞台は影こそが自然であると私は思う。 特にシェークスピア(四大悲劇)はそうじゃないだろうか。神の光やクリスチャン的な理想、二元論は人の心の中で問いとなって彷徨っているが、入れ子状態で舞台の光とはならない。舞台の光は計算された光、影だけが自然にセットから伸びる。
その代わり人間の醸し出す熱意や光が浮き出る。その光から主を見出すこともあるけれども、基本は舞台とは人間劇なのかもしれない。 
そんな中で、神秘の啓示が強いバルザックの「セラフィタ」はどう面白くなるのだろう。
冷めた言い方をすれば所詮は、天使に恋焦がれる人間の話、
明確な影も野望もない物語の中で、闇や影をどう表そう。やはりこれは小説向きで
舞台は不向きだとは思う。 

画像元→ https://500px.com/dorotagorecka
photo: Dorota Gorecka


使用した書籍→The RSC Shakespeare: The Complete Works
*****

オスカーワイルドは聖書から「サロメ」をよく見つけたと思う。
イエスの光が続く限り、サロメを永遠の闇の乙女にした。
人間劇を装いながらも、揺るがない光と、影を生み出した。
サロメを見つけたこと、誠に羨ましい。
セラフィムについて
サロメについて
Benedict Cumberbatch版のhamletについて→ http://www.ntlive.jp/hamlet.html

・私の心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな工合(具合)になったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れる云う訳に行けしませんのに、これも「神様の思召し」やろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもうたことはみんな夢とあきらめよと(園子)


・「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇りに感じる。何でや云うたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当たり前や、女で女を迷わすことが出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあ云う気いして、嬉してたまらん」 (光子)

谷崎潤一郎「卍」より 

****

 

朗読の感想

 ある役を演じてみるとするのなら、心理分析は欠かせない。私の課題は「光子」だった。甘え上手で人々を虜にする美しい光子、それは男性だけとは限らず、主人公「園子」とも関係を持つようになる。原作も映画も話し手や視点の中心は主人公・園子であり、この美しい光子という女性は園子の記憶の中の者となる。なので、心理分析するとすれば、台詞や所作等からの想定となる。
園子は美術学校に通っていて、観音様を描くが、校長先生にこの観音様はモデルに似ていない、誰に似せたんだと執拗に問われ、反論をする。園子は無自覚で徳光光子に似ている観音様を描いていたことに気づく。それを機に、会うようになる園子と光子・・・・・・。
園子の視点から語られる光子はギリシャ神話でいえば男性からも女性からも愛される美形のナルキッソスであり、園子はナルキッソスに恋をしたエーコーのようなものだ。エーコーは自分で考えて言葉を発せず、ナルキッソスの言葉を借りて繰り返すことしか出来なかった。そのためナルキッソスに見捨てられ、哀しみのあまりに木霊となる。この状況に対して罰を下したのがネメシスだった。 ネメシスのこの行いはギリシャ神話のコアなテーマでもある「ヒュブリス」である。
ただ、卍の場合はヒュブリスまでに至るところまで考えないほうがいいだろう。人を道連れにして死んだ光子、取り残された園子のことを考えると、エーコーは哀しみのあまりに木霊となったまま時間が止まり、光子は水面に映る自分の姿に惚れ込むほどナルキッソスになりきれなかったとイメージしたい。
映画(1964年)では光子(若尾文子)は園子(岸田今日子)に真剣な話をしているようでコンパクトを見ながら話す。私は、真剣な話をしているとき、自分の身の上話をするときは鏡を見ながら話すなんてことはしないので気になったシーンだった。
心理的に自分の映る鏡像が気になる、鏡を見ながら話す人の心理というのは、ナルシストか、自分に極端に自信がないか、というところらしい。
光子はどちらだろうと、やはり自信がない方なのかもしれない。光子は園子の夫とも関係を持ち、園子と夫はずっと「肌があわない」関係だったが、漸く「光子」を所有するという共通点を持つようになる。自信がないというのは、そんな状態になっても光子は夜になると、園子と園子の夫に必ず睡眠薬を飲ませないと気が済まなかったからだ。
園子は「自分じゃなくて夫を選んで裏切るんじゃないか」という疑いを持ち、夫のほうも「これが愛の形か?」と不安になりながらも、光子の言うことを聞いて睡眠薬を飲み続ける。光子は光子で、睡眠薬を飲むのをためらう二人を見て「あんた等、あて(私)欺しててんなあ」と泣き出す。
 人を想いのままに操れるようになった光子は女帝のようになった。しかし女帝としては非力でか弱い。
 終盤の三人の心中は実に滑稽なことかもしれない。この心中は近松門左衛門の曽根崎心中ほど現世で幸せになれないから、あの世(来世)でというような切羽詰ったものがない。収入源だった夫が仕事を続けられなくなって光子が「死の」(死にましょう)と言ったら二人とも了承する。「光子観音」と園子と夫は光子を崇め、光子を真ん中に仲良く死にましょうと三人で薬を飲むが園子だけが何故か死ねなかった。園子は、夫と光子を失うことになるが、最後まで光子を疑いながらも、愛しいと、涙を流す。
****
この作品の魅力は、道徳や倫理感では図れない。何か、現代の慈悲的な感覚で三人を捉えたらこの世界観を崩すことになるだろう。 読書というものは、本と読者の内面との垂直関係であるので自由な捉え方も保障されているが、分析するとなると別になる。柔らかい大阪弁での会話は次第に憎悪が渦巻いていると実際に演技を交えながら朗読していくと分かってくる。この話を測るときに、キリスト教的な解釈の「人の弱さ」ギリシャ神話のヒュブリス、空を飛ぶ鳥のような俯瞰視点が似合わない。例えば園子を本当に愛してるから園子だけに毒を加減したとする、そんな美談、装飾(言葉)を入れようものなら、この話は破綻してしまうのだろう。卍は左旋回を使用しているので「和」の元である。何処までを和といえるのか、難しいところだが最後にバランスを取って三人で死のうとしたところなんかは皮肉なようだが近い気がする。
この作品を簡単に言えば異常ということなのだろうが、本来なら生き残れたということは卍の印の由来でもある「瑞相」(めでたい出来事として起きる前触れ)であるべきだろう。それでも、園子は最後は第二の人生を考えているのか、それも
定かにしないまま、ただ泣いて終わる。園子にとっての吉兆の印とはやはり光子との
出会いだったのかもしれない。
 この作品の魅力は括弧たる日本語で、「綾模様」を作ったことであり、その儚い模様が美しく、卍という記号のビジュアルイメージだけで雁字搦めというほうが適切なような気がする。本来の意味よりも視覚によって人が左右されるとするのなら、卍という重なりの記号を持ってきたことは一種の戦略だと思う。
哲学者・ドゥルーズは、ものごとは様々な線からなる多様体であるという。これを私は日本語の「綾」のようなものだと思っている。子どもの頃やった綾取り(あやとり)と聞けばイメージしやすいが、彼に言わせれば物事は、様々な性質を持つ線の絡み合いから出来ている。そして、思考は侠気のような何かに衝突し、生が死のような何かに衝突するような場所はいたるところに存在する。この「卍」は世界から見ればそんな「交わり」であり、「平行線」である。それらの緊張の糸は、紐解かれる間に心中というものさえも善だとか悪だとか、簡単には言えない価値観へと突入する。
一人の女性を夫婦が取り合うという構図、
バルザックのセラフィタも夫婦になる運命の二人が
両性具有の天使に恋をする。
(セラフィタの脚本について)
 今、書いている脚本、バルザックのセラフィタと構造が似ているので研究用に選んだ一冊だった。構造は似ているけれども決定的に違うのが、卍は光子という存在の裏に潜むものが無限遠点という架空の概念であるのに対して、セラフィタは、人間二人はセラフィタを手に入れようとしたがるが、下されるものはヒュブリスではなく、牧師でさえ図れなかった神秘であり、最後はイエスは父への至る道に沿っていこうと導きがあるところだ。 
セラフィタというものを表すのはミステリアスでありながらも
無限遠点ではなく「神」という明確性だ。
卍の光子は、外見の美しさよりも動かしたものは、人それぞれが抱く欲であり、人々の積み上げであり思い焦がれる「観音様」であって、歪んだ仏心による「美」だろう。セラフィタの場合は、元々人々が崇めなくても天使として「存在」している美しさだ。
セラフィタと卍、

どちらが素晴らしいのか、どちらが本当に美しいのかと優劣はつけられないが、人間の有限性というものが儚いとするのなら、その儚さを躊躇することなく表現出来たのは

卍だろう。

綿貫に関する記載は、重要な人物でありながらもこの記事の全体のテーマ、ブログでの読みやすさを考えた上で省かせてもらいましたが、男性として機能しなかった綿貫の議論からも引用を。

元政上人は男子の男子たる印あったら邪魔になるのんで、灸すえた云うやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そない云うたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現してあるのんやし、観音さんや勢至菩薩の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性や云うこと分かってる


本→新潮文庫
映像に関するcopyright →角川書店

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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Toward a narrative

   

「この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、時のしわざだし」(第三章)

「こんなふうにして、いつも大聖堂の型にはめられて成長し、その中で生き、眠り、ほとんど外に出ず、四六時ちゅう建物の不思議な圧力を身に受けているうちに、とうとうガジモドは、少しずつ建物に似てきた」


「カタツムリが殻の形に体を合わせるように、彼は大聖堂に体をあわせたのだ。
(略)この建物は彼の住居であり、巣窟でもあり、外皮でもあった」
(第四章)

ヴィクトル・ユゴー著 
ノートル=ダム・ド・パリより。


*簡単な粗筋*

 主人公、カジモドは赤ん坊のとき捨てられ、当時まだ助祭長だったフロロに拾われる。月日を経てフロロは司教補佐へ、カジモドはノートルダム大聖堂の
鐘つき男となるが、音が聞こえないため鐘の音は聞こえない。彼の外見は醜く、人々からバカにされる存在で広場で晒し者にされるが、美しいジプシー娘のエスメラルダに助けられる――――。

醜いカジモドのことをユゴーは第4編でカタツムリの殻に例えた。

****

カタツムリの殻というものには以前話した「黄金比」(黄金螺旋)が隠れている。人類が発見した黄金比、新約聖書の神と共にある「言葉」(ヨハネによる福音書1章)というものはギリシャ語ではロゴスと言うが、「比」という意味もある。他にもアリストテレスは「命題」をロゴスと呼んでいたし、神の言葉に匹敵する比とは「黄金比」だと一部の数学者や神秘数字を愛する者からよく語られる。このカタツムリの殻とは「命題」でもあり、そして「黄金比」という答えでもある。

元々、ノートルダム大聖堂自体、建物の比率が長方形の黄金比となっている。設計自体も聖書の数字を彫刻等に散りばめられていて、荘厳なる大聖堂である。けれども、ユゴーは長方形の黄金比としてではなく、カタツムリのような地味な生物の殻に潜む黄金比を大聖堂に例えた。ガジモドの体をその渦巻き上の「黄金比」に押し込め、全ての歪さを上手く表現する。その歪さ中には障がいを持つ者、ジプシーへの根深い差別、そして神を外皮のようにしか扱えない者への冷静な視線が表れている。

大聖堂に捨てられていた赤ん坊のガジモドは20歳ぐらいになるが、外見は醜かった。最期は愛する同じジプシー女性の亡骸と共に白骨化するまで眠り続けて砕け散った。 眠りから死の境界線はいつ越えたのか、その「時」は読者には知らされない。憎悪と欲、ノートルダム大聖堂を取り囲む長い長い人間劇は「時」のつけた傷に過ぎず、最期の白骨化があまりにも切なく、この死に方が幻想と現実の区別をつかなくさせる。

ユゴーのノートル=ダム・ド・パリの完訳版を再読したが、まるで大聖堂の建築を様々な思考を持ちながら細かく見ているようだ。この作品は、著者自身がノートルダム大聖堂を訪れたとき、大聖堂の片隅に「宿命」と刻まれた文字を見つけ、その文字が上から塗りつぶされて消されたころから着想を得ている。この本の帯も「この世は劇場の緞帳です」とリルケの言葉を使っていた。このように「緞帳の裏」「隠している事実」に焦点を当てることで明かされる告白、著者自身もそれを望んでいるように思える。ただ、その隠しているものとは国民全体で考えると、本当は知られたくないものだったりすることも多い。

例えば、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(映画)になりますが、この話しもフランコ政権の検閲を逃れるために色々と置き換えた「詩」と囁かれているが、スペイン国民自体はフランコ政権を知ってもらおうなんて思っているわけでもないようだった。
この映画を好きだということがあるのなら、純粋にアナという少女について、
見えている映像世界についての感想と感情を述べることが望ましいだろう。あの映画は大声の主張ではなく詩であり「ささやき」なのである。

ノートルダムに話を戻すと、人間劇で見ると人間の「罪」や「欲」は「時」の流れの一つに過ぎず、小説を読めば分かるようにそれはノートルダム寺院の壁に傷をつける「時」のようなものなのだ。無宗教を選択したユゴーにとってそういう解釈のほうが自然のような気がする。ジプシー娘のエスメラルダは原作では絞首刑になるが、ディズニーアニメではカジモドに助けてもらって生き残り、このシーンは感動的だった。

何故、殺さなかったのか。子ども向けだからという単純なことでもあるかもしれないが、
90年代アメリカは、短期就労目的の非移民も増加した。こういった時代背景も反映していたのかもしれない。国家というのも人格を持った信念でもあるので、多少、国の時代に合わせて変更すること、意味のある変更は私は嫌いでは無い。

どんなに「時」が流れてもジプシーについては謎が多く、あまり取り上げられないし、ジプシーそのものはスペイン歴史同様に取り上げられることを望んでいないところかもしれない。原作ではホロメスの「イーリアス」の説明もしている。ホロメスの作品は物語世界の外にいる語り手が、他の誰かについての物語を語ることが多い。聖書でもこの方法が大半である。このような手法を取ることを全知の存在とも言うが、「物語」の場合、作家は執筆途中で実況にはなりえないという事、作家は果たして本当に自分の作っている作品に対して全知であるのか? そういう疑いを持つようになっていく。

作家・アンドレ・ジッドはMise en abyme(深淵の状態にすること)、物語りには大きな舞台の中に小さな舞台があることに気づいた。ユゴーは既にジッドの前にこの存在に気づいていたという。恐らく、このノートルダムドパリも入れ子状態の中にある深淵を、哀しみを作り上げたと言えると私は思う。

深淵は 深淵のままなのか、目に見えた残酷な
話は残酷なままなのか?

そう思うと、この深淵に対する光かのように
私は聖書の「目が見せもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙2章9節)が思い浮かんだ。*パウロの言葉に鳴り響いているもの、その否定の連続の後に高揚した表現があるが、これは人智を超えた神の霊による啓示について語られたものである。

ノートルダムではカジモドが一心不乱で自分では聞こえない鐘をつく間、物語りには書かれなかったがその鐘の音に全く意味が無かったわけではない。傷が在る外皮の中に祈りはあり、現実としては争いもあり、小さな愛は沢山在った。 

ディズニーアニメのカジモドは外見は醜いが、心優しい青年に描かれ、大聖堂のアーチから溢れる光、日の光が照らす街へと夢を見る。原作では孤児だったカジモドはアニメの中では“Sanctuary, please give us sanctuary”と母に守られたという過去を持つように加えられた。

そのように情を持ち始めたのは、ユゴーが絶望的に書いた「時」が作り上げた、現代の私達だ。その時、差別されていた存在を愛されるような存在で描こうとした人間がいて、現代では作品に対してカジモドへの同情は耐えない。

全員がそうだとは言い切れないが、この作品は「時々」愛読されている。世の深淵は深いが時々、愛は在る。どのようにこの理解が育ち、未来で人の愛が育ったのか、この形成はどう説明出来るのだろう。

  人の記憶と同様、世界は記銘と、保持と、想起によって「貝」のように形成される。けれどもそれを把握したからといって全知とは言い難い。はかれない深淵と、神の光、人がこの世に存在する限り深淵は深く、人が愛を識る限り、必ず神(fate)を意識する。 もしも悲劇の物語を見たとしたら、それに悲しむ自分の奥底に
愛があり、神と繋がりがあるのかもしれない。物語の中でその一滴の情があればこの話は違ったということ、それは神のいつくしみに似ているということは、言いすぎだろうか? 

砕け散ってしまった白骨、

私達は物語の外。

心で溢れた感情は、深淵から「時」を経て浮上した愛の一部。

***

*コリントの信徒への手紙の説明「否定の連続の後に高揚した表現」について。オットー(聖なるもの)より引用。パウロに関しての説明は正式版で。

*神をfateとしましたが、訳を当てはめたわけではありません。 
*世界は貝のようにとありますが、この作品に合わせて書きましたが私自身「巣」だとしています。矛盾かもしれませんが
*ユーゴと表記することが良いらしいですが、持っている本がユゴーでしたので
ユゴーで統一しました。

画像:http://www.iamag.co/…/the-hunchback-of-notre-dame-90-origi…/

http://disney.wikia.com/wiki/Notre_Dame_de_Paris

(批評:簡略版)

Seraphim

The beautiful unfamiliar words and prayers to God that you chant–those are words to God that are rarely chanted today.When a beautiful person like you narrates, I get blinded by the beauty. Am I a sinner?
聞きなれない美しい言葉、それは唱えることが減ってしまった神への言葉。貴女のような美しい人が語ると、人はその美しさに眩んでしまうのです。私は罪人でしょうか?
Seraphim(Chris Kyogetu)
*****
私は今、バルザックのセラフィタ(Serafita)という原作を元に脚本を書いています。セラフィムを調べてもらえれば、どれ程の位の天使なのか分かるかと思います。この話のセラフィムは人間の血に天使が混ざっていて、女には美男子に見え、男には美女に見えます。人間の男女がセラフィムの美しさに恋をして手に入れようとしますが、セラフィムは沢山の神秘を語り、最期は昇天します。男性に見えるセラフィトスは哲学的であり、女性に見えるセラフィタの台詞は旧約でいえば雅歌のようです。それが次第にセラフィムとして統一していくかのように、新約であり、「天国のような言葉」へとなっていくところも見所かと思います。
そのセラフィムは「たった一つの愛で心を満たす」話をします。その愛とは天国であり、神への愛です。
*****
牧師にはセラフィムのことが 少女にしか映らず、自分のことを天使と勘違いした可哀想な子と思われています。そんな牧師に「本当は貴方は神を信じていないのよ」とセラフィムが語るシーンがあるわけですが、それがより効果的になるように色々と駒の進め方を考えている段階ですね。また何か書くことがあったら紹介したいと思います。 このメモは不定期で更新するつもりです。 
(英訳紹介は少々内容を変えています)
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アガペーやエロース、フィリアー、もしくは翻訳出来ない「愛」についてのロマンと哲学の深さは見物だと思いますし、神への愛、人への愛を識別させ、これらが重なることによって最大のロマンが生まれると知った私の原点です。バルザック自身、これはイエスに見惚れる天使の像を見て思いついた話であり、当時、結ばれるはずもなかった公爵夫人のために書いています。(後に夫人の夫が亡くなり、バルザック達は結ばれます)
これも神秘の閃きと許されるはずの無い愛があってこそのものですので、難解とは言えども理解出来る部分はあるかと思います。
ただ、大枠は変えないとしてもほぼ登場人物が静止している状態で話し込んでいるシーンが多いのと、退屈と思われてしまう難解な箇所、台詞にしては長い箇所が多いので、意訳したり理解しやすいように大幅な変更はあります。ですので出すとしたら「セラフィム」となるかもしれません。勿論上の台詞も私のオリジナルですが、内容には添っています。
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元々、小休止のつもりで貰った提案です。
作品を書いていて面白いのは、役作りなのか自分が設定した世界の中で思考を働かせていると、その通りに現実も動いていくことです。 この前もこの話しをある人にしたらアガペーに関して、天国に関して閃きを貰いました。イマージュが「現実」として実現化していくこと、それはとても素晴らしい収穫でした。作品が無事完成するように祈っていてください。
(English ver)
I am writing now a script based on the original work called “Serafita”of Balzac. I think that you understand if I refer to Seraphim that it is the best angel’s story. Seraphim of this story is mixed with angel and human ,it looks like a beautiful boy to a woman, and a beautiful woman to a man. A man and a woman of human being fall in love with the beauty of Seraphim and try to get her/him. However, Seraphim speaks so many mysteries as to wake up the two, and finally ascends to heaven. Seraphim says, “fill my heart with only one love.” That love is heaven and love for God. In order to write emotions impossible for humans, I feel the same way as playing that role. It may be so that I am playing this role unconsciously.
peace of lord.

from Chris

Salome

(facebookでの記載をそのまま掲載しています。出版本・Icon o graphを読まないと
分からないようになっています)
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Icon o graphの中で使われたオスカー・ワイルドの「サロメ」のイメージ画像を実は作ってあったりします。(完全に自分の趣味用なのですが)中央のサロメとヨカナーンは有名なオーブリー・ビアズリーの絵を使用しています。上が私の趣味用制作で、下がビアズリーのサロメとヨカナーンです。
「サロメ」という作品の私の解釈(主に宗教的解釈)は小説の中にありますのでここでは書きません。
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 オスカー・ワイルドのサロメに出会ったのは17歳のとき。オーブリービアズリーの画集で知りました。ワイルドの原作も読みましたが月の描写が印象的でしたが、当時はヨカナーンが洗礼者ヨハネだと知らなかったし、そもそも「洗礼者ヨハネ」とは何者かとよく知らずに惹かれた話です。
何か道徳的な教えがあるわけでもなく、官能だからとか興奮するとかそういう理由でもありませんでしたが、何故か惹かれたのです。
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一つ、この戯曲の魅力を語ると「演武」を彷彿させることでしょうか。 私は少しだけ子供の頃に合気道をやっていた事がありまして、「受け」に関しては自分なりに色々考えたことがあります。痛くない競技とは聞いていても大人相手となると、やはり痛いときもあったので、何かを考えていないと人前で泣きそうだったのでしょう。
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柔道の勝ち負けがある「試合」と違って、「演武」である合気道は
初めから投げる側と受ける側と役割が決まっています。ですので、特に目立つメリットもなくて影が薄い存在で、子どもの頃の私はあまり好きじゃありませんでした。
技をかけられている間は、痛いこともあるというのは変わらないけれども、「受け」として姿勢や表情を整えていくようになります。
投げられるときも気を抜けず、倒れるときに、如何に綺麗に倒れられるのか、自分が倒れて床を叩くときに如何に良い音がなるかどうかというのを意識していきました。 倒れたときの起き上がり方、しまいには自分の横顔や髪の動き、袴を触って皴を整えるところまで気を張るようになります。
泣くとしたらトイレで泣いて、また静かに稽古に戻ってきて、弱さや疲れを体捌きで出さないようにします。
思い返してみれば、秩序の中で呼吸を合わせることを覚え、勝敗という結末以外で自我や闘志を表すことを探すことが演武だったのではないかと、私は思うのです。
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作中のように女優が「サロメ」を演じるということは、「演武」のようなものだと私は捉えています。舞台全部とは言えませんが、「サロメ」は特にそうだと捉えています。
ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)の頭部を手に入れてしまった彼女には処刑しか待っていません。サロメはイノセントなのかもしれませんが、女優はその運命を知っていて「美しき受け身」を維持出来ることが私の理想です。 
その運命をどのように理解するのか、それをどう身体で表現するのかというのは、女優の才能にかかっています。彼女は小説の登場人物はサロメの元となった聖書の背景をよく理解していましたし、「サロメは永遠の闇の乙女」だということにも抵抗を見せませんでしたし、現代の乙女心や、現代の自由恋愛にも当てはめることもしませんでした。(インタビューの間)彼女はサロメは殺されるべき運命というのを心で理解していたのだと思います。 処刑を言い渡されたときに必死に抵抗したり、無秩序(カオス)の快楽主義に走ったりすると、恐らく挿絵のビアズリーの黒(闇)に近づけないでしょう。
サロメを演じるのなら、如何に美しく痛みを体現出来るかというところにかかっています。女優は全てを知っているはずなのに、サロメとして無邪気に振舞う。それは全て演武のように、「秩序」の中に成り立っているのです。
だからこそサロメのヘロデ王に見せた舞は侠気で、異常であり、
光(イエス)を知らずにして死んだサロメの死は現代となっても
「闇」なのではないのでしょうか。
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*ずっと長らく原作者、オスカー・ワイルドは異端とか官能の作家扱いとして聞いていたのだけれども、実はカトリックにでも惹かれていたんじゃないかと気づきました。何故なら、サロメ世界の秩序は何が光であって闇であるかということに厳格だったからです。一見、無秩序のように見えてサロメの死でそこに気づきました。 それで後から調べなおしたら、オスカーワイルドはカトリックに惹かれていて年を取ってから改宗していました。  当時はワイルドが生まれたイギリスは聖公会が主流だったので、(記載によってはプロテスタント) 改宗が許されなかったのだとか。
*オスカーワイルドは「幸福の王子」の原作者でもあります。これは、すぐにキリスト教的だなと分かりやすいとは思います。

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