生まれた。
#仮剥製
There are no people who watch you more than God.
昨年発売された「ガブリエルシャネル」は確かに最高傑作だった。シャネルno5と同じようにジャスミン、イランイランが入っているが今回はオレンジフラワー、チュベローズという花が追加されている。
チュベローズは朝にしか積むことが出来ない花で、冬を越すことが難しい。ガブリエルシャネルという香水は、まさしく彼女が幼い頃は貧しかったこととを表すかのように、冬を越して来た花の強さである。ガブリエルとは彼女の幼い頃の名前で、彼女は自分らしく生きるためにココ・シャネルを名乗る。
…
だからといっても、ガブリエルという名前を捨てたとは言い難い。人々はガブリエルとはシャネル自信が自分だけが呼ぶことを許した名前だったのではないかと囁く。
ガブリエルシャネルという香水は
人間を強くする秘密、内面世界のようだ。
私がシャネルの香水で好きなところは、他の香水や人工の香りでは無いものがあるからだ。それは何かというと、香水の定番方程式である香りのピラミッドというものが存在しない。音楽のように音と音が響き合って、時間と共に香りが形成されていき、女性の肌と混ざることによって、その女性と合わせた主題が浮かび上がってくる。これこそシャネルの伝統の芯のある香りなのだと私は思う。
形もなく、存在していない香りを作る調香師。
間違いなく生き残りの調香師は天才と言える。
現代というこの世の中を、芯のある芳醇な香りとして捉えるのだから。
(大きいボトルは 頂き物)
『“I hope you don’t mind”ということ』
日本では馴染みのある
エルトンジョンの you’re song の
I hope you don’t mind. をどう訳するのか、
単純なようで色々と訳し方があります。理由は語感が日本語となるとインパクトが弱くなってしまうことにあります。意味を近づけるというより、英語のこの語感に近づけたいという願望がそうさせている気がします。
どんな歌詞かと簡単に言ってしまうと、
『僕が君のために作った歌だけど、
気にしないでね。(I hope you don’t mind)
とか、重く捉えないでね、(I hope you don’t mind)』
とかそういう意味があります。
最近になって聞いてみると、こういうのは物書き(作家、作詞作曲)の愛し方かなと思います。作品を作るときは愛する人をモデルにしたとしても、作品が愛されなければなりません。愛されるのが前提なのか、結果として愛されるのかは、卵が先か鶏が先かというような話なのですけど、愛する人に何か書くときは、伝えたい、伝わること、愛されること、作品として望まれる全てを忘れたいのですよね。それが物書きにとって愛する人だけに送る特別性なんじゃないかな。
変な話なんですけどね。
だから、歌詞の冒頭部分から
『It’s a little bit funny this feeling inside
I’m not one of those who can easily hide.
少し可笑しな話だけど、僕は自分の気持ちを簡単に隠せないんだ。
I don’t have much money but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live
そんなにお金はないけど、お金があったら家を買うよ・・・
If I was a sculptor, but then again, no
Or a man who makes potions in a travelling show
僕が彫刻家だったら、いや違うな。僕が
さすらいの薬売りだったら・・・・・・』
と、纏まりの無い話になっていきます。
でもこれは、「お喋りしたい」という、ただそれだけの願望なんですよね。それでさえも、なんだか貴重な気がして言いたくなる、それが恋とか愛を表しています。
『I know it’s not much but it’s the best I can do My gift is my song and this one’s for you
「それで歌を送ることが僕は出来るよ」』
とあるけど本当はそれが伝えたいことじゃない。これすらもまだ自己紹介のような状態です。そしてメインのメロディ、
『And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple but now that it’s done
I hope you don’t mind
I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
これは君の歌だよ、それをみんなに伝えていいよ。シンプルなメロディだけど
やっと出来たんだ。
気楽に聞いてよ(I hope you don’t mind)
軽い気持ちで聞いてよ(I hope you don’t mind)
こんな言葉で書いたけど、(愛を伝える歌)
君がこの世界にいてくれれば、世界は美しいんだ。』
と、二回繰り返すI hope you don’t mind は私は気楽に聞いてよ、軽い気持ちで聞いてよ、と言いかたを変えて訳しました。
『Anyway the thing is what I really mean
Yours are the sweetest eyes I’ve ever seen
僕が本当に伝えたいことは、君の瞳が美しいということさ。
I hope you don’t mind
I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
気楽に聞いてよ
軽い気持ちで聞いてよ、
こんな気持ちで書いたけど、
君がこの世界にいてくれれば
僕は嬉しいんだ。
そして本当に美しいのは
君の瞳なんだ、僕の歌は それを表したいだけなんだ。』
と、私は解釈しています。
人の評価を待つ物書きの仕事をしていると、作品を渡しているのに、I hope you don’t mindなんて言って渡しません。そんなのは仕事になりませんからね。
そういう身でありながら、I hope you don’t mindと言って渡すことは、愛する人への特別なことなんですね。私もそうかもしれません。
I hope you don’t mind , I love you.
そういう感覚なのかなと。歌詞だけではなく、エルトンジョンの甘い声がそう思わせるのかな。ポップスはシンプルな言葉だけど、歌手の声の表現によって深みが出たり言葉の意味が左右されるところがありますね。
画像元URL http://38.media.tumblr.com/tumblr_lhg9rjQdnC1qctf1xo1_500.gif
歌詞:
It’s a little bit funny, this feeling inside
I’m not one of those who can easily hide
I don’t have much money, but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live
If I was a sculptor, but then again, no
or a man
who makes potions in a traveling show
I know it’s not much, but it’s the best I can do
My gift is my song, and this one’s for you
And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple, but now that it’s done
I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
I sat on the roof and kicked off the moss
Well, a few of the verses, well, they’ve got me quite cross
But the sun’s been quite kind while I wrote this song
It’s for people like you that keep it turned on
So excuse me forgetting, but these things I do
You see I’ve forgotten if they’re green or they’re blue
Anyway the thing is what I really mean
Yours are the sweetest eyes I’ve ever seen
And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple, but now that it’s done
I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
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オオルリアゲハの標本。角度によって青からグリーンにかわります。
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Lord, have mercy.
重力と恩寵:カイエ抄 今度いつかまたカイエの話でも。
「持論」
アドラーの心理学を元にして考えると、根本的なトラウマみたいなものは治せないし、癒えることもない。 例えば 「恋人が死んだ」とかそういうものは 神の力とか信じても癒せないという私の持論がある。信じて癒えるというのは、何らかしら神からの跳ね返り、若しくは自身の覚知があるということで、傷が深い分、そこまで大きな奇跡は起きにくい。可能性として0ではないけれども、そんな奇跡を待つ人生はきっと疲れる。
そういうコアな弱みに限って他人もケア出来ないし、人もそこまで答えられない。これは根本的に治せない原因(トラウマ)だ。そこを無理してマインドコントロールした話にロクなものはない。
あのとき無視された
あのとき 嘘つかれた
あのとき ●●だった
他人から見れば些細な事でも本人にとっては原因となるトラウマ。話し合うタイミングも過ぎ、時効同然の過去の出来事は厄介だ。
過去の出来事や傷つきは癒せない。 時間は忘れる特効薬というのも嘘に近い。ただ体感が遠のくための生き方はある。私も過去にも色々あって過去は変えられなかったけど、出来事の感情はあまり覚えていない。
それでも最近、久しぶりに大きなトラウマが出来て
随分とグルグル回ったけど、私は、このトラウマの根本は治せないと切り捨てること、という基本にかえると、何だかすごく楽になれた。
もう嫌いなものは嫌い。
あなたが私は嫌い。 絶対に絶対に嫌い。
良い思い出もあったけど、 思い出せないほど
嫌いなのだ。
それでいいんだと、
もうここでフラついたりしない。月並みな
言葉だが、他を愛せばいい。
これから先、このトラウマを生かすしかない。
私の未熟さを認めるとすれば 、
今はここまでしか見えないということだ。
最後の最後で
死ぬ前に 全部許せばいい。
今は 呼吸出来ることが大事。
写真: エレーナ カリス
我が人生は夢の墓場、一度だけ本で読んだことがあるの。 絶望したとき、この言葉を慰めにしているの。
「今いきますよ。おなかがすいたでしょう」
「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、何ですのよ。これ?」
「また妬いているのね。そうじゃない。そうじゃない」
江戸川乱歩・芋虫(1929年発表)―――時子
この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判した。
第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。
「今、行きますよ。おなかがすいたでしょう」
「待ち遠しかったでしょう。すまなかったわね」
「今、ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」
「オレガ イヤニナッタノカ」(俺が嫌になったのか?)
「あの廃人を三年の年月少しだって厭な顔を見せるではなく、
自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話している。
女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、
出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。今の世の美談だと思っています」
「どうか気を変えないで面倒見てあげてくださいよ」
「ユルシテ」
「彼は物を見ることが出来ない。音が聞くことが出来ない。一言も口が利けない。
----------果てしなき暗闇である-----------どんな薄明かりでも構わぬ、物の姿を見たいであろう。
どんな幽かな音でも構わぬ、物の響きを聞き度い(聞きたい)であろう」
Tears immediately welled in Tokiko's eyes, and she began to feel dizzy.
「夢を語る私の性格は現実世界からどのような扱いを受けても一向に痛痒を感じないのである」
(政治的意味について・wikipediaより)
許し、許された、夫婦愛、
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| 今の世の美談だと思っています「どうか気を変えないで」 |
・There certainly must be some who pray constantly for those who never pray at all.
・Certain thoughts are prayers. There are moments when, whatever the attitude of the body may be, the soul is on its knees.
復活祭前夜
Victor HugoのLes Misérablesの引用で申し訳ないですけれども、(メモが残ってて) これ以上の感想がありません。身体がどうであっても、私が何をしてきたのか それが何であろうと、魂が跪くような時間でした。
今日は 前夜祭(復活祭の)でした。
土曜日は、夜になるとバスの最終が過ぎるだけじゃなくてタクシーも出払ってしまうから 途中で帰りましたけど。
*ユゴーは無神論者ですが時々カトリック書籍でも引用されてます。
谷崎潤一郎「卍」より
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朗読の感想
どちらが素晴らしいのか、どちらが本当に美しいのかと優劣はつけられないが、人間の有限性というものが儚いとするのなら、その儚さを躊躇することなく表現出来たのは
綿貫に関する記載は、重要な人物でありながらもこの記事の全体のテーマ、ブログでの読みやすさを考えた上で省かせてもらいましたが、男性として機能しなかった綿貫の議論からも引用を。
「この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、時のしわざだし」(第三章)
ヴィクトル・ユゴー著
ノートル=ダム・ド・パリより。
*簡単な粗筋*
主人公、カジモドは赤ん坊のとき捨てられ、当時まだ助祭長だったフロロに拾われる。月日を経てフロロは司教補佐へ、カジモドはノートルダム大聖堂の
鐘つき男となるが、音が聞こえないため鐘の音は聞こえない。彼の外見は醜く、人々からバカにされる存在で広場で晒し者にされるが、美しいジプシー娘のエスメラルダに助けられる――――。
醜いカジモドのことをユゴーは第4編でカタツムリの殻に例えた。
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カタツムリの殻というものには以前話した「黄金比」(黄金螺旋)が隠れている。人類が発見した黄金比、新約聖書の神と共にある「言葉」(ヨハネによる福音書1章)というものはギリシャ語ではロゴスと言うが、「比」という意味もある。他にもアリストテレスは「命題」をロゴスと呼んでいたし、神の言葉に匹敵する比とは「黄金比」だと一部の数学者や神秘数字を愛する者からよく語られる。このカタツムリの殻とは「命題」でもあり、そして「黄金比」という答えでもある。
元々、ノートルダム大聖堂自体、建物の比率が長方形の黄金比となっている。設計自体も聖書の数字を彫刻等に散りばめられていて、荘厳なる大聖堂である。けれども、ユゴーは長方形の黄金比としてではなく、カタツムリのような地味な生物の殻に潜む黄金比を大聖堂に例えた。ガジモドの体をその渦巻き上の「黄金比」に押し込め、全ての歪さを上手く表現する。その歪さ中には障がいを持つ者、ジプシーへの根深い差別、そして神を外皮のようにしか扱えない者への冷静な視線が表れている。
大聖堂に捨てられていた赤ん坊のガジモドは20歳ぐらいになるが、外見は醜かった。最期は愛する同じジプシー女性の亡骸と共に白骨化するまで眠り続けて砕け散った。 眠りから死の境界線はいつ越えたのか、その「時」は読者には知らされない。憎悪と欲、ノートルダム大聖堂を取り囲む長い長い人間劇は「時」のつけた傷に過ぎず、最期の白骨化があまりにも切なく、この死に方が幻想と現実の区別をつかなくさせる。
ユゴーのノートル=ダム・ド・パリの完訳版を再読したが、まるで大聖堂の建築を様々な思考を持ちながら細かく見ているようだ。この作品は、著者自身がノートルダム大聖堂を訪れたとき、大聖堂の片隅に「宿命」と刻まれた文字を見つけ、その文字が上から塗りつぶされて消されたころから着想を得ている。この本の帯も「この世は劇場の緞帳です」とリルケの言葉を使っていた。このように「緞帳の裏」「隠している事実」に焦点を当てることで明かされる告白、著者自身もそれを望んでいるように思える。ただ、その隠しているものとは国民全体で考えると、本当は知られたくないものだったりすることも多い。
例えば、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(映画)になりますが、この話しもフランコ政権の検閲を逃れるために色々と置き換えた「詩」と囁かれているが、スペイン国民自体はフランコ政権を知ってもらおうなんて思っているわけでもないようだった。
この映画を好きだということがあるのなら、純粋にアナという少女について、
見えている映像世界についての感想と感情を述べることが望ましいだろう。あの映画は大声の主張ではなく詩であり「ささやき」なのである。
ノートルダムに話を戻すと、人間劇で見ると人間の「罪」や「欲」は「時」の流れの一つに過ぎず、小説を読めば分かるようにそれはノートルダム寺院の壁に傷をつける「時」のようなものなのだ。無宗教を選択したユゴーにとってそういう解釈のほうが自然のような気がする。ジプシー娘のエスメラルダは原作では絞首刑になるが、ディズニーアニメではカジモドに助けてもらって生き残り、このシーンは感動的だった。
何故、殺さなかったのか。子ども向けだからという単純なことでもあるかもしれないが、
90年代アメリカは、短期就労目的の非移民も増加した。こういった時代背景も反映していたのかもしれない。国家というのも人格を持った信念でもあるので、多少、国の時代に合わせて変更すること、意味のある変更は私は嫌いでは無い。
どんなに「時」が流れてもジプシーについては謎が多く、あまり取り上げられないし、ジプシーそのものはスペイン歴史同様に取り上げられることを望んでいないところかもしれない。原作ではホロメスの「イーリアス」の説明もしている。ホロメスの作品は物語世界の外にいる語り手が、他の誰かについての物語を語ることが多い。聖書でもこの方法が大半である。このような手法を取ることを全知の存在とも言うが、「物語」の場合、作家は執筆途中で実況にはなりえないという事、作家は果たして本当に自分の作っている作品に対して全知であるのか? そういう疑いを持つようになっていく。
作家・アンドレ・ジッドはMise en abyme(深淵の状態にすること)、物語りには大きな舞台の中に小さな舞台があることに気づいた。ユゴーは既にジッドの前にこの存在に気づいていたという。恐らく、このノートルダムドパリも入れ子状態の中にある深淵を、哀しみを作り上げたと言えると私は思う。
深淵は 深淵のままなのか、目に見えた残酷な
話は残酷なままなのか?
そう思うと、この深淵に対する光かのように
私は聖書の「目が見せもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙2章9節)が思い浮かんだ。*パウロの言葉に鳴り響いているもの、その否定の連続の後に高揚した表現があるが、これは人智を超えた神の霊による啓示について語られたものである。
ノートルダムではカジモドが一心不乱で自分では聞こえない鐘をつく間、物語りには書かれなかったがその鐘の音に全く意味が無かったわけではない。傷が在る外皮の中に祈りはあり、現実としては争いもあり、小さな愛は沢山在った。
ディズニーアニメのカジモドは外見は醜いが、心優しい青年に描かれ、大聖堂のアーチから溢れる光、日の光が照らす街へと夢を見る。原作では孤児だったカジモドはアニメの中では“Sanctuary, please give us sanctuary”と母に守られたという過去を持つように加えられた。
そのように情を持ち始めたのは、ユゴーが絶望的に書いた「時」が作り上げた、現代の私達だ。その時、差別されていた存在を愛されるような存在で描こうとした人間がいて、現代では作品に対してカジモドへの同情は耐えない。
全員がそうだとは言い切れないが、この作品は「時々」愛読されている。世の深淵は深いが時々、愛は在る。どのようにこの理解が育ち、未来で人の愛が育ったのか、この形成はどう説明出来るのだろう。
人の記憶と同様、世界は記銘と、保持と、想起によって「貝」のように形成される。けれどもそれを把握したからといって全知とは言い難い。はかれない深淵と、神の光、人がこの世に存在する限り深淵は深く、人が愛を識る限り、必ず神(fate)を意識する。 もしも悲劇の物語を見たとしたら、それに悲しむ自分の奥底に
愛があり、神と繋がりがあるのかもしれない。物語の中でその一滴の情があればこの話は違ったということ、それは神のいつくしみに似ているということは、言いすぎだろうか?
砕け散ってしまった白骨、
私達は物語の外。
心で溢れた感情は、深淵から「時」を経て浮上した愛の一部。
***
*コリントの信徒への手紙の説明「否定の連続の後に高揚した表現」について。オットー(聖なるもの)より引用。パウロに関しての説明は正式版で。
*神をfateとしましたが、訳を当てはめたわけではありません。
*世界は貝のようにとありますが、この作品に合わせて書きましたが私自身「巣」だとしています。矛盾かもしれませんが
*ユーゴと表記することが良いらしいですが、持っている本がユゴーでしたので
ユゴーで統一しました。
画像:http://www.iamag.co/…/the-hunchback-of-notre-dame-90-origi…/
http://disney.wikia.com/wiki/Notre_Dame_de_Paris
(批評:簡略版)